第3話 「河童の仕事と水底の掃除」
――溺れるって、もっとバシャバシャするものだと思ってた。
実際は違った。
水の中に引きずり込まれて最初に来たのは、音が消える感じだった。
叫び声も、足音も、チャイムも、
さっきまで耳の奥で反響していた鐘の音の残り香さえも、
全部、ぬるりとした水に吸い取られていく。
視界いっぱいの暗い青。
上も下もわからない、水の渦。
(……僕、学校で死ぬの?)
よりによって、旧校舎の廊下で。
部活のユニフォームも着ないまま。
告白もされないまま。
進路調査票の第一希望もまだ白紙のまま。
そんなことを、やたら冷静な脳の一部がぼんやり考えていたとき。
ぐい、と腕を引かれた。
水の中、僕の手首を掴んでいる誰かの指。
ひんやりとしているくせに、やけにしっかりした感触。
「――はい、こっち。落ち着いて、息は勝手に止まるから」
水の中なのに、はっきり聞こえた。
振り向くと、すぐそばに水守がいた。
制服のシャツがふわりと揺れている。
普段より少しだけ乱れた前髪の隙間から、黒縁メガネのレンズが青い光を弾いていた。
……その首筋のあたり。
襟元からちらりと覗く肌が、ほんの少し、青緑がかって見えた。
「水守……?」
「うん。とりあえず、沈むのは後にしようか」
彼の手が、僕の手首をさらに強く握る。
その指先の間から、細かい気泡がふわふわと湧き出していた。
よく見ると、水守の指のあいだには、薄い膜のようなもの――水かきが張っている。
「うわ、本当に河童仕様……」
「こんな状況で感想がそれ?」
ニヤリともせずに言い返してくるあたり、いつも通りで逆に安心する。
けれど、まわりの景色はまったく安心できなかった。
暗い水の底。
足元には、沈んだ鳥居の上半分と、ひっくり返った自転車。
錆びたガードレール、朽ちたガチャガチャのカプセル。
そのすべてに、どろりとした藻のようなものが絡みついている。
水の天井の向こうには、ぼんやりとした光が揺れていた。
さっきまでいた廊下の白い天井が、歪んで遠くに見える。
「ここ……どこ?」
「向こう側の川の、手前。
学校の排水が流れ込んでる“中継地点”みたいなところだよ」
水守が周囲を見回す。
その横顔には、いつもの眠そうな印象より、
少しだけ“川べりの野生動物”っぽい鋭さが混じっていた。
「本当は、もっと静かな場所なんだけどね。
いろいろ詰まりすぎて、ドロドロになってる」
「いろいろって、なにが」
「……見たくないなら、見なくていいよ」
そう言われると逆に見てしまうのが人間の性だ。
川底の泥のあいだから、白っぽいなにかが半分だけ顔を出している。
古いお札。朽ちかけた木の人形。割れたお地蔵さんの頭。
そして、たぶん――
誰かが投げ捨てた、いくつもの“願いの残骸”みたいなもの。
それらの隙間から、さっき僕をつかんだのと同じ、水と泥でできた腕がうごめいていた。
「うわ、やっぱ見なきゃよかった」
「だから言ったのに」
水守は肩をすくめる。その動きに合わせて、背中側のシャツが少しだけ張った。
そこに、甲羅のような丸い影が透けて見える。
――本当に、河童だ。
彼は僕の手を放さぬまま、くるりと身を翻した。
水の中でのその動きは、信じられないくらい滑らかだ。
「で、あれが君を引きずり込んだ“手”の正体」
彼の視線の先。
泥の山の上で、ひときわ大きな影が身じろぎした。
人間の胴体ほどある、水と泥の塊。
そこから生えた手のひらが、ゆっくりと開いたり閉じたりしている。
指のあいだから、錆びついた硬貨や、おみくじの紙片がぼろぼろと落ちていく。
「川に流されたもの、捨てられた願い、流しっぱなしの“想い”の残骸。
そういうのが、たまりにたまって、一つの“手”の形になった。
……流れを止めるには、ちょっと強引な掃除が必要だね」
「掃除ってレベルか?」
「僕、基本的に“水道屋さん”だから」
水守はそう言って、ほんの少し笑った。
青緑の瞳の奥で、細かい光がきらりと揺れる。
「で、君は“大家さん”。場の持ち主。
本来は、僕なんかよりずっと上の立場なんだけど」
「いやいや、そんなつもりは――」
「つもりの問題じゃない。“におい”がそう言ってる」
水守は、また僕のほうに視線を戻した。
水の中でも崩れない前髪の隙間から、真っ直ぐに。
「ここを、誰の場所にするか。
その一言を決めるのは、僕じゃなくて君なんだよ、入間悠真」
――誰の場所にするか。
さっき廊下で言ったことが、頭の中で反芻される。
ここは、僕たちの学校の廊下で。
僕の通学路のひとつで。
だから、勝手に占領されるのはムカつく。
(……そうか)
あの一言で、水が凪いだ理由が、なんとなくわかってしまった気がした。
僕が「イヤだ」と思えば、ここは僕らの場所になる。
逆に、流されるのを許せば、この場は“向こう側”に取られる。
そんな単純で、理不尽で、面倒くさいルール。
「ねえ、悠真くん」
水守が、もう片方の手を差し出してきた。
ほんの少し、指先が震えているのが見える。
さっきまで落ち着いていた彼の目に、わずかな緊張が浮かんでいた。
「怖いとは思うけど……一緒に“掃除”してくれる?」
「……僕が断ったら?」
「そのときは、僕だけでやる。でも、多分、持たない。
あいつ、もう半分こっちに来ちゃってるから」
泥の手が、ゆっくりとこちらへ伸びてくる。
さっきよりもはっきりとした形で。
まるで、“所有者”と握手するために。
……知らないふりをして、上に逃げることもできる。
目をつぶって、「全部夢でした」で誤魔化すことも、たぶんできる。
でも。
そんなことをしたら、明日からこの廊下を歩けなくなる気がした。
旧校舎のこの廊下は、僕にとってはただの怖い場所じゃない。
さっきまで、友達とふざけて通った、“学校の一部”だ。
そこに、名前も知らないなにかが勝手に腰を据えているのは――
やっぱり、ムカつく。
「……わかったよ」
僕は、水守の手を握り返した。
水の中で、指と指が絡む。
ひんやりとした感触の奥に、妙に心強い体温があった。
「掃除、さっさと終わらせて、上でコロッケパン食べたい」
「いい動機だね。それ、一番強いやつ」
水守が、ふっと口元を緩めた。
次の瞬間、彼の背中のあたりから、光るものが広がった。
甲羅のシルエットに沿って、うっすらと浮かび上がる模様。
それは、古い水路図のようにも、回路図のようにも見えた。
「河童の仕事、始めようか」
水守が目を閉じると、まわりの水が震えた。
泥の中から、泡がいくつも立ち上る。
沈んだ鳥居がきしみ、割れたお地蔵さんの頭がくるりと回る。
そして、あの巨大な泥の手が、はっきりとした形をとった。
節だらけの指。
爪の代わりに、錆びた釘やガラス片が刺さっている。
『――ぬらりひょんの子ども』
泥の手の奥、黒い穴の向こうから、あの声が響いた。
『ここは、ずっと前から、こっち側のものだよ』
「ううん」
僕は、ぎゅっと水守の手を握り直した。
「ここは、僕たちの通学路だ」
胸の中で、はっきりと言葉にする。
声に出してはいないはずなのに、水がざわりと反応した。
廊下の板の感触。
教室から漏れてくる笑い声。
チャイムの音。
夏休み前の、湿った空気。
そんなものが、一気に頭の中に流れ込んでくる。
「だから――出て行け」
その瞬間。
世界が、ひっくり返った。
水が上に、泥が下に。
鳥居が浮き上がり、ガードレールが回転し、お地蔵さんの頭が空中を飛んだ。
巨大な泥の手が、慌てたように後ずさる。
指先が崩れ、どろどろの塊が分解していく。
「今だよ、入間くん!」
水守の叫びと同時に、僕たちの足元――さっきの黒い穴が、
きゅうっと縮んで、細いトンネルのような形になった。
その先に見えるのは、見慣れた天井。
白い蛍光灯と、黄ばんだ天井板。
学校の、どこかの部屋だ。
「一気に流すよ。目、つぶって」
「流すって、どうやって――」
言い切る前に、水守が腕を振り上げた。
川底全体の水が、その腕の動きに合わせてうねる。
巨大な蛇のような水流が、穴に向かって集まり始めた。
泥の手が、最後の抵抗のように僕たちに掴みかかる。
だが、水の流れがそれを弾き飛ばした。
「じゃ、帰ろっか」
軽い調子の一言とともに。
僕たちは、文字通り、上に向かって落ちた。
***
――どんっ。
背中から、固いものに叩きつけられる衝撃。
「いっっっっっっった……!」
思わず叫んで、目を開ける。
そこは、学校のトイレだった。
いや、正確には、旧校舎のトイレだろう。
黄ばんだタイルの壁。
少し古いタイプの個室の扉。
そして、開け放たれた窓から吹き込む、夕方の風。
僕は床に寝転がっていて、その隣で水守も仰向けになっていた。
ふたりとも制服びしょ濡れ。
天井の換気口から、最後の水滴がぽたぽたと落ちてくる。
「……帰ってきた?」
「うん。ちゃんと、学校の“こちら側”」
水守が、眼鏡を指で持ち上げる。
レンズについた水滴がきらりと光った。
その姿は、さっき底で見た“水中仕様”より、少しだけ人間寄りに戻っている。
首筋の青緑も薄れ、背中の甲羅の影も形をぼやかしていた。
「いやあ、久しぶりにやったな、ああいう大掃除」
「“久しぶりに”って言い方やめてくれない? 慣れてるのが怖い」
「慣れてない人のほうが怖いよ。ほら、立てる?」
差し出された手を借りて、なんとか起き上がる。
服が身体に張りついて、気持ち悪い。
シャツからは、川と泥と、かすかな線香の匂いがした。
「入間くん」
トイレの入り口から、ひょこっと顔が覗いた。
猫屋敷茜だ。
ドア枠に片手をかけ、もう片方の手にタオルをぶら下げている。
夕日の逆光で、オレンジ色の髪がふわっと光った。
耳につけた小さな猫形ピアスが、きらりと揺れる。
「うわ、見事にびしょ濡れ。
いやあ、“初ダイブ”おめでとう」
「なんの記念日だよ」
タオルを投げられ、それで髪を拭きながら文句を言う。
猫屋敷は、トイレの入り口にもたれかかったまま、にっと笑った。
足首をクロスさせて、まるでポスターのモデルみたいなポーズだ。
ただ、スカートの裾からちらりとのぞく足首の筋肉が、妙にしなやかで。
そのあたりに、普通の女子高生じゃない“猫科っぽさ”が滲んでいた。
「で、どうだった? 初・向こう側体験」
「二度とごめん」
「はい、合格」
「どんな採点基準だよ」
猫屋敷は、くすくす笑いながら腰を上げた。
「でもまあ、ちゃんと腹立てられたみたいだし。
“ここは自分たちの場所だ”って思えてるうちは、君、向こうに飲まれないよ」
それは、からかい半分、本気半分の声だった。
水守も、タオルで髪を拭きながら口を挟んだ。
「さっきの“ムカつく”って気持ち、かなり効いてたよ。
あれがなかったら、掃除、もっと時間かかってた」
「ムカつきが役に立つ世界、理不尽すぎない?」
「理不尽だよ。妖怪も神さまも仏さまも、だいたい理不尽だから」
さらっと言われて、何も言い返せない。
……さっき水の中で聞こえた声を思い出す。
ぬらりひょんの子ども。
ようこそ、こちら側へ。
あれは、誰の声だったんだろう。
思い出しただけで背筋が冷える。
でも、その上から、猫屋敷の声が重なった。
「ねえ、入間くん」
「なに」
「さっき、水守くんが言ってたでしょ。“総代候補”って」
猫屋敷は、トイレの入り口の上にある非常灯にひょいっと片手をかけ、体を少しだけ引き上げた。
その拍子に、スカートの中でなにかがふわっと動いた気がする。
「君さ、ぬらりひょんの血、やっぱ濃いよ」
「だから、その“ぬらりひょん”ってなんなんだよ。
なんでみんな当然の顔で言うの」
「簡単に言うと――」
猫屋敷が、一拍だけ、わざとらしく間を置く。
「“どこの家にもいつの間にか上がり込んで、お茶飲んでるおっさん”」
「……は?」
「でも、場を支配するのが上手い。
気づいたら、その場の中心に座ってる。
それが“妖怪の総大将”の系譜」
彼女は、非常灯から手を離して着地した。
その足さばきは、猫が高い棚からひらりと飛び降りるのと同じくらい、軽かった。
「で、その血、君の中にちゃんとある。
さっきみたいに“ここは家だ”って決めたら、場がそっちに寄ってくる」
「いやいや、僕、教室の隅でひっそりしてるタイプなんだけど」
「だから、今はね」
猫屋敷が、すっと近づいてくる。
距離が一歩分まで縮まる。
夕日のオレンジが、彼女の瞳の中に二つ、丸く映っていた。
よく見ると、その瞳の奥には、細い縦長の光――猫の瞳孔が、うっすらと浮かんでいる。
「本気出したら、教室の真ん中に座ることになる」
「そんなの、絶対いやだ」
「うん、その“いやだ”も含めて、面白い」
彼女は笑って、ぽん、と僕の胸を軽く叩いた。
「だからさ、入間悠真くん」
猫屋敷茜は、一歩だけ後ろに下がって、
まるで舞台の上の役者みたいに、軽く腰を折った。
「妖怪特別クラスに、来ない?」
トイレというロケーションを忘れそうになるくらい、きれいな仕草だった。
その言葉が、僕の胸の奥に、じわりと染み込んでくる。
「……特別クラスって、昨日言ってたやつ?」
「そう。表向きの時間割には載ってない、裏カリキュラム。
雪女に狼男、座敷童に天狗。いろいろ揃ってるよ」
「いやいや、さらっと言ったけどラインナップ濃すぎない?」
「今さらでしょ。
君、水の中で川底掃除してきた時点で、もう“モブ”には戻れないよ」
ぐさっとくることを、さらっと言いよる。
水守が、タオルで髪を拭きながら口を挟んだ。
「正直、戦力としても欲しい。
“場の支配”があるだけで、僕たちの負担はかなり減るから」
「……そんなこと言われてもなあ」
「嫌なら、もちろん断っていいよ」
猫屋敷が、あっさりと肩をすくめる。
「ただ、断っても、多分“向こう側”は君を放っとかない。
さっきの手、覚えてる? あれ、君の匂いにすごく反応してた」
ぞくり、と背中に冷たいものが走った。
忘れようとしていた感触が、足首によみがえる。
「だからまあ、どっちの“側”に座るか選ぶしかないんだよね。
何も知らないまま巻き込まれる側か、
知ったうえで椅子を引き寄せる側か」
猫屋敷の言葉は、妙に具体的で、妙に現実的だった。
その言葉の重さを、どう扱っていいかわからない。
「……ちょっと、考えさせて」
「もちろん。
でも、返事は早い方がいいよ。世界、のんびり待ってくれないから」
猫屋敷は、そう言って軽く手を振った。
「じゃ、いったん解散。風邪ひくと怒られるし。
続きは――そうだな」
彼女は、少し考えるふりをしてから、にやりと笑う。
「明日の昼休み、屋上ね。」
そう言い残して、彼女はトイレから出ていった。
尻尾が見えた気がして、思わず二度見してしまう。
スカートの裾のあたりで、なにかがふわりと揺れたような――気のせいだろうか。
水守も立ち上がり、制服の水気を軽く払う。
「じゃあ僕も、部室寄ってネットワークのチェックしてくる。
向こう側との回線、さっきのでだいぶ乱れたから」
「回線って言うな」
「また明日、特別クラスの件で話そう」
そう言って、彼も去っていった。
びしょ濡れの靴跡が、タイルの上に点々と残る。
トイレにひとり取り残されて、僕は、ため息をついた。
「……妖怪特別クラス、ね」
ぬらりひょんの血。
総代候補。
日本滅亡まで五年。
情報量が多すぎて、頭が追いつかない。
でも、足首の奥に残る冷たさが、
さっきの水底が夢じゃないことだけは、はっきりと教えてくれる。
びしょ濡れの制服をなんとか絞って、旧校舎を出たときには、
空はすっかりオレンジ色に変わっていた。
――このときはまだ、明日の昼休みに屋上で“世界のコース変更届”を出すことになるなんて、まったく想像していなかった。
(つづく)
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