ロストテクノロジーは「科学」だと言っているでしょう? ~元科学者の私、異世界で禁忌の始祖として崇められる~

酸欠ペン工場

Prologue 質量保存の法則と、死にかけの少女

意識の海溝から浮上する感覚は、いつだって不快なノイズを伴うものだ。 泥のようなまどろみが晴れるにつれ、四肢の末端に鋭い痺れが走る。 まるで全身の血管に、冷え切った水銀を流し込まれたかのような重苦しさがあった。


「……覚醒シーケンス、完了。バイタル・スタビライズ」


無機質な合成音声が、鼓膜を直接叩くように響き渡る。 プシュウゥゥ……という排気音と共に、視界を覆っていた白い霧が晴れていく。 重厚なハッチがスライドし、淀んだ空気が清浄な空間へと流れ込んだ。


エルゼ・ノイマンは、ゆっくりと瞼を持ち上げた。 そこに映ったのは、病院の天井ではない。 青白い幾何学模様の光が明滅する、見たこともない金属のドームだった。


「……現状認識(ステータス・チェック)。  思考回路、正常。記憶領域、一部欠損あり。  身体機能……ひどいなまりようだ」


彼女は自身の掌を目の前に掲げ、指の関節を一つずつ確認するように動かす。 サファイアブルーの瞳孔が、カメラの絞りのように収縮を繰り返した。 感情の揺らぎはない。あるのは、眼前の事象をデータとして処理する冷徹な理性のみ。


「酸素濃度、最適値。重力、1G。  ここは地球か? あるいはテラフォーミングされた入植地か。  ……まあいい。生きているなら、やることは変わらない」


エルゼはポッドの縁に手をかけ、裸足のまま冷たい床へと降り立った。 身に纏っているのは、凍結睡眠用の薄い被覆材(ボディスーツ)のみだ。 肌を刺す冷気が、彼女に「生」という名の現実を突きつける。


「装備の確保が最優先事項だ。  低体温症で思考能力が低下するのは、極めて非効率的だからな」


部屋の隅にあるロッカーのような区画へ近づくと、彼女はパネルを操作する。 中には真空パックされた白衣らしき衣服と、簡易的なツールキットが保管されていた。 迷わず封を切り、袖を通す。その白衣は彼女には少し大きすぎたが、今は贅沢を言える状況ではない。


「さて、出口はどこだ。  この閉鎖空間に留まるメリットは、統計的に見てゼロに等しい」


エルゼの視線が、部屋の唯一の出入り口である巨大な隔壁に向けられる。 彼女はツカツカと歩み寄り、壁面のコンソールパネルへと手を伸ばした。 指先が触れた瞬間、パネルが赤く発光し、拒絶の音を鳴らす。


『警告。セキュリティロック作動中。  未登録の生体IDです。  直ちに退去してください』


けたたましいアラーム音が鳴り響くが、エルゼの表情筋はピクリとも動かない。 彼女にとって、それは単なる「解決すべきエラーコード」に過ぎない。 ため息交じりに、彼女はツールキットからドライバーを取り出す。


「やかましいな。  私が通りたいと言っている。  道を開けろ」


『権限がありません。  強制排除プロトコル、起動まであと10秒』


「ユーザーインターフェースがなっていない。  直感的な操作(GUI)など不要だ。  ……直接記述(CUI)で書き換えさせてもらう」


彼女はパネルのカバーを強引にこじ開けると、露出した配線の束を掴み出した。 青白いスパークが散る中、彼女の瞳が怪しく光る。 それは魔術の詠唱などではない。物理的な回路への侵襲(ハッキング)だ。


「構造解析(スキャン)、開始。  セキュリティレイヤー、バイパス。  認証プロトコル……ああ、なるほど。古い形式だ」


エルゼの指先が、複雑な電子回路の一部を正確にショートさせる。 魔法使いが悠長に呪文を唱える間に、彼女は数十のコマンドを物理的に実行していた。 システムが悲鳴のようなノイズを上げ、赤い光が瞬時に青へと変わる。


『……認証、確認。  管理者権限(アドミニストレータ)を受理しました。  ようこそ、マイスター』


「挨拶は不要だ。  ただ、機能(しごと)をしろ」


重厚な金属扉が、地響きと共に左右へと開いていく。 その向こうには、永い時を経て風化した、石造りの暗闇が広がっていた。


隔壁の向こう側は、まるで別世界だった。 先ほどまでの未来的なクリーンルームとは対照的に、そこは廃墟と化している。 壁面は苔に覆われ、かつての栄華を誇ったレリーフは崩れ落ちていた。


「……文明レベルの断絶を確認。  内部は超高度技術、外部は中世レベルの石造建築。  歴史のレイヤーがバグっているな」


エルゼは瓦礫を避けながら、合理的な足取りで通路を進んでいく。 靴底が石畳を叩く乾いた音だけが、死んだ回廊に反響していた。 空気は淀み、カビと埃の臭いが鼻腔を刺激する。


「マスクが欲しいところだ。  未知の病原菌が存在する確率は、有意に高い」


彼女は白衣の襟元を引き上げ、口元を覆った。 視線の先、通路の突き当たりから、微かな光と風の流れを感じ取る。 出口は近い。


「外の世界がどうなっているにせよ、私の知識(ツール)があれば適応可能だ。  ……検証開始といこうか」


光が強くなり、視界が一気に開ける。 遺跡の出口を抜けた先、そこは鬱蒼とした森の中だった。 木漏れ日が眩しく降り注ぎ、鳥のさえずりが耳に届く。


「環境、良好。  大気組成、呼吸に支障なし。  ……だが」


エルゼは新鮮な空気を吸い込んだ直後、眉をひそめた。 草いきれの濃密な香りの中に、異質な分子が混じっている。 それは、彼女が研究室や戦場で何度も嗅いだことのある、鉄錆のような臭い。


「……血の臭いだ。  それも、新しい」


彼女の視線が、鋭く臭いの発生源を捉える。 遺跡の入り口脇、崩れた石柱の陰に、小さな影が倒れていた。 ボロ切れのような服を纏った、痩せこけた少女だ。


「対象を発見。  距離、5メートル。  ……生命反応、極めて微弱(クリティカル)」


エルゼは警戒を解かぬまま、その影へと歩み寄る。 近づくにつれて、その惨状が網膜に焼き付けられていく。


「……ひどい損傷率だ」


燃えるような赤髪は泥に汚れ、本来の輝きを失っている。 華奢な体には無数の発疹が浮かび、さらにその上から獣に噛まれたような裂傷が刻まれていた。 地面にはどす黒い血溜まりが広がり、少女の命が秒単位で流出していることを示している。


少女の体は、壊れた機械のように小刻みに震えていた。 浅く、苦しげな呼吸音が、静かな森の静寂を不快に乱している。 エルゼはその場に片膝をつき、少女の顔を覗き込んだ。


「……う、あ……」


少女の瞼がわずかに動くが、焦点は合っていない。 エルゼの手が、手袋越しに少女の首筋に触れる。 驚くほど熱い。体内の免疫システムが暴走し、最後の抵抗を試みているのだ。


「体温、40度超。  重度の感染症による敗血症性ショック。  加えて、動脈付近への裂傷による出血性ショックの併発」


エルゼの口から出る言葉に、同情の色はない。 それはあくまで「破損状況のレポート」であり、医師のカルテのようなものだ。 彼女は冷静に、少女の生存可能時間を計算する。


「放置すれば、あと数分で機能停止(シャットダウン)する。  この個体は、村かどこかを追放されたのか?  疫病を理由に捨てられ、野生動物に襲われた……というところか」


合理的に考えれば、見捨てるのが正解だ。 感染のリスク、治療に要するリソース、成功率の低さ。 どれをとっても、ここで彼女に関わるメリットはない。


エルゼは一度立ち上がりかけ、ふと動きを止めた。 視線が、少女の必死に空を掴もうとする手先に釘付けになる。 その姿が、かつて実験の失敗で散っていったデータたちと重なった。


「……非効率だ」


彼女は短く呟き、再び少女の方へと向き直った。 その瞳に宿るのは、慈悲ではない。 目の前で失われようとしているエネルギーシステムに対する、科学者としての義憤だ。


「質量保存の法則において、物質は消滅しない。  だが、生命という複雑系は一度崩壊すれば、二度と再現できない。  ……それは、あまりにも勿体ない資源の損失だ」


エルゼは白衣のポケットではなく、自身の脳内にある知識のデータベースへアクセスする。 周囲の植生、遺跡に残された残留物質、そして自身の持つ「技術」。 使える手札を瞬時に並べ替え、最適解を導き出す。


「固有能力、起動。  物質生成(マテリアル・ジェネレート):抗生物質および止血用ゲル。  ……構成元素、周囲の有機物より徴収する」


彼女が地面に手を触れると、土や草木が瞬時に分解され、青白い光の粒子となって集束していく。 それは魔法のように見えるが、実際には原子レベルでの再構築(クラフト)だ。 数秒の後、彼女の手には注射器のようなデバイスと、透明なゲル状の物質が握られていた。


「検体番号(サンプル)ワン。  これより、緊急修復(オペ)を開始する。  ……感謝しろよ、小娘」


少女――アリアの口元から、うわ言のような音が漏れる。 「かみ……さま……」 その言葉を聞いた瞬間、エルゼの眉が不機嫌そうに跳ね上がった。


「祈るな。  神になど祈っても、血は止まらないし、ウイルスは死滅しない。  奇跡を願う暇があるなら、細胞の一つ一つまで生きるために総動員しろ」


エルゼは少女の傷口にゲルを塗り込み、生成した薬剤を頸動脈へと注入する。 彼女の脳内では、薬液の浸透速度と細胞の修復率が、グラフとなって可視化されていた。 感情ではなく、計算で命を繋ぎ止める。


「物理法則は嘘をつかない。  必要なのは代償ではなく、適切な処置(メソッド)だ。  ……さあ、論理(ロジック)の力を見せてやる」


薬剤が体内を巡ると同時に、少女の呼吸が大きく波打った。 傷口の出血が止まり、高熱で赤黒かった肌の色が、徐々に落ち着きを取り戻していく。 魔法のような劇的な光はない。ただ、確実な「結果」だけがそこにあった。


「……ん、ぅ……?」


アリアの苦悶の表情が和らぎ、安らかな寝息へと変わる。 エルゼは額の汗を拭い、ふぅと息を吐き出した。 それは優しさというよりも、難解なパズルを解き終えた後の達成感に近い。


「……修復完了。  やはり、私の仮説は正しい。  この世界の『死』もまた、ただのシステムエラーに過ぎない」


彼女は眠るアリアを見下ろし、ニヤリと冷笑的な笑みを浮かべた。 冷たい遺跡を背に、瀕死の少女を論理で救い出した科学者。 その姿は、聖女というよりは、死神を欺く詐欺師のようだった。


「さて、起きたら労働力の対価を払ってもらうぞ。  私はタダ働きが一番嫌いなんだ。  ……聞こえているか、相棒?」


返事はない。 ただ、少女の手が、無意識にエルゼの白衣の裾をぎゅっと掴んでいた。 その握りしめる力の強さに、エルゼは「やれやれ」と肩をすくめる。


風が吹き抜け、二人の髪を優しく揺らした。 こうして、世界を変える二人の歯車が、静かに噛み合い始めた。

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