EP 2

ロジカル子育て奮闘記

「……非合理的だ」

南町奉行所の独身寮。

朝日が差し込む部屋で、佐藤健義は濡れた布団を前に、呆然と立ち尽くしていた。

「就寝前の水分摂取量は管理したはずだ。

排尿のタイミングも、現代の育児書(記憶)に基づき、統計的に最も確率の高い時間を予測してトイレに誘導した。

……それなのに、なぜ漏らす」

布団には、見事な世界地図(おねしょ)が描かれている。

その横で、小太郎が申し訳なさそうに縮こまっていた。

「……ごめんなさい。おじちゃん……」

「い、いや! 謝る必要はない!」

佐藤は慌てて取り繕った。

「これは私の計算ミスだ! 生理現象という不確定要素(カオス)を、ロジックで制御しようとした私が浅はかだったのだ!」

佐藤は、濡れた布団を引っ剥がし、慣れない手つきで洗濯を始めた。

最高裁を目指すエリート法曹が、江戸の井戸端でたらいと格闘する姿。

通りかかった平上雪之丞が、腹を抱えて笑っている。

「へっへっへ。お奉行様、随分と板についてきやしたねぇ。

『法』で子供は裁けても、おねしょは裁けねえってことですか」

「うるさい! 手伝え雪之丞! 代わりの布団を調達するんだ!」

佐藤の子育ては、困難を極めた。

彼は真面目すぎた。

食事の時間。

「いいか小太郎。江戸の食事は塩分過多になりがちだ。

ビタミン(野菜)とタンパク質(魚)をバランスよく摂取し、咀嚼回数は一口30回を厳守するんだ」

遊びの時間。

「積み木か。よし、構造力学の基礎を教えよう。

重心を低くし、接地面を確保することで、耐震性は向上する」

小太郎は、目を白黒させている。

これでは、子供がリラックスできるはずもない。

「……はぁ。見てらんないわね」

見かねた早乙女蘭が、仕事の合間に顔を出した。

「お奉行様。子供は『論理(ロジック)』で育つんじゃないんです。『感情(エモーション)』で育つんですよ」

蘭は、小太郎を抱き上げ、高い高いをした。

「きゃっ! ……あはは!」

小太郎が、初めて声を上げて笑った。

佐藤は、その笑顔を見て、ガーンとショックを受けた。

「……私の構造力学より、高い高いの方が上だと……?」

「当たり前でしょ。

……ほら、そろそろ夕飯ですよ。今日は何にするんです?」

佐藤は、腕まくりをした。

「……今日は、私が作る」

夕餉(ゆうげ)。

ちゃぶ台に並んだのは、白飯と、茶色い汁物だった。

「……カレー、ですか?」

蘭が恐る恐る尋ねる。

「カレーではない。……スパイス(薬味)を調合した、特製煮込みだ」

佐藤は、自信満々に言った。

もちろん、いつもの激辛ではない。子供向けに、甘味のある野菜と味噌で味を整え、隠し味にごく微量のスパイス(整腸作用のあるもの)を加えた、佐藤なりの「完全栄養食」だ。

「さあ、小太郎。食べるんだ」

小太郎は、スプーン(代わりの匙)を手に取り、一口食べた。

「……!」

小太郎の目が大きくなる。

「……おいしい」

「本当か!?」

「うん。……あったかい。……すごく、おいしい」

小太郎は、夢中でスプーンを動かした。

涙をこぼしながら、ガツガツと食べた。

まるで、長い間、温かい食事など与えられていなかったかのように。

その姿を見て、佐藤の胸が締め付けられた。

(……一体、どんな生活をしていたんだ)

食後。

満腹になって眠くなった小太郎を、佐藤は膝に乗せて頭を撫でた。

今夜は、ロジックの話はしなかった。ただ、背中をトントンと叩き続けた。

「……おじちゃん」

小太郎が、ぽつりと呟いた。

「……僕ね、お父上が嫌いなの」

佐藤の手が止まる。

蘭と雪之丞も、顔を見合わせた。

「父上は、僕を見ないの。

僕がそこにいても、いないみたいにするの。

……僕が『遊んで』って言うと、怖い顔をして……『蔵』に入れるの」

「蔵……?」

「真っ暗で、寒くて……お腹が空いても、誰も来てくれなくて。

『お前なんか、生まれてこなければよかった』って……」

ネグレクト(育児放棄)。そして、精神的虐待。

小太郎の言葉は、幼い子供が抱えるにはあまりに重い闇だった。

彼は、家出をしたのではない。

生きるために、あの冷たい家から「脱出」してきたのだ。

「……そうか」

佐藤は、小太郎を強く抱きしめた。

「辛かったな。……よく、逃げてきた」

「帰りたくない……。蔵は、いやだ……」

小太郎が、佐藤の着物を握りしめて震える。

「ああ。帰らなくていい。

私が……奉行所(ここ)が、君を守る」

佐藤の目には、激しい怒りの炎が宿っていた。

法曹として、そして一人の大人として。

子供の心を殺す親など、絶対に許さない。

その時。

奉行所の門の方から、騒がしい声が聞こえてきた。

「開けろ! ここに俺の息子がいるはずだ!」

「子供を返せ! これは誘拐だぞ!」

小太郎が、ビクリと震え上がり、佐藤の背中に隠れた。

「……父上の声だ」

佐藤は、立ち上がった。

「……来たか」

障子を開けると、そこには提灯を持った男たちと、豪奢な着物を着た商人風の男が、同心たちと揉み合っていた。

そして、その男の後ろには、おどおどとした様子の女と、鬼のような形相をした別の女の姿もあった。

「……恵比寿屋(えびすや)の主人か」

佐藤は、小太郎を蘭と雪之丞に託し、静かに縁側へと進み出た。

子育てごっこは終わりだ。

ここからは、法と正義で子供を守る、奉行・佐藤健義の戦いが始まる。

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