EP 3
漏れた情報
江戸の夜に、冷たい雨が降り始めた。
日本橋の大店、呉服問屋「武蔵屋(むさしや)」。
その堅固な蔵の前で、堂羅デューラは呆然と立ち尽くしていた。
「……馬鹿な」
蔵の扉は破られ、千両箱は綺麗さっぱり消えていた。
荒らされた形跡はない。まるで鍵を持っていたかのように侵入し、風のように去っている。
凶悪盗賊団「霧蜘蛛(きりぐも)一味」の仕業だ。
「長官! 申し訳ございません!」
部下たちが泥にまみれて平伏する。
「我々は、計画通りに見張りを立てておりました! 鼠一匹通さぬ布陣だったはずです!」
「……ああ、分かっている」
デューラは、雨に濡れるのも構わず、現場を検分した。
見張りには隙がなかったはずだ。
唯一の隙があったとすれば、交代の時間である「亥(い)の刻(午後10時)」の、わずか数分の空白。
だが、その交代時間を知っているのは、火盗改の幹部と、現場の指揮官だけだ。
「……なぜだ。なぜ奴らは、この『一瞬』をピンポイントで突けた?」
デューラの脳裏に、最悪の可能性がよぎる。
内部通報者(スパイ)。
俺の部下の中に、裏切り者がいるのか?
「いや、違う。俺の部下に、そんな奴はいない!」
デューラは頭を振って否定した。苦楽を共にしてきた部下たちを疑いたくない。
だが、事実はあまりにも残酷に「情報の漏洩」を示していた。
翌日。南町奉行所。
佐藤健義は、雪之丞が集めた報告書と、デューラが提出した警備計画書を見比べていた。
「……確率的に、あり得ないな」
佐藤が、冷めた茶をすすりながら呟く。
「へい。どう考えても筒抜けですぜ」
雪之丞が、煎餅をかじりながら同意する。
「前回の『越前屋』、今回の『武蔵屋』。どちらも、火盗改(オニ)の旦那が『重点的に守る』と決めた場所ばかり狙われてやす」
「デューラの作戦計画を知り得る立場にある人間……」
佐藤は、ペン(矢立)を回した。
「火盗改の内部か。……あるいは、デューラが『心を許している』人間か」
佐藤の脳裏に、上野の花売り娘・お紗代の笑顔が浮かぶ。
ここ数日、デューラは非番のたびに彼女の元へ通い、そして翌日には決まって盗賊被害が出ている。
「……まさかな」
佐藤は、その可能性を打ち消そうとした。
あの堅物の同期が、ようやく見つけた春だ。それを疑うのは忍びない。
だが、奉行(プロ)としての勘が、警鐘を鳴らし続けている。
「雪之丞。……喜助と蘭を呼べ」
佐藤は、情を捨てて命じた。
「デューラの『春』を……洗うぞ」
その日の夕暮れ。
デューラは、重い足取りで上野へ向かっていた。
部下を疑わなければならない苦悩で、胃が焼けつくようだ。
せめて、お紗代の顔を見て、心を癒やしたい。
「お紗代殿」
「あ、堂羅様……!」
いつもの場所。いつもの笑顔。
だが、今日の彼女はどこか顔色が悪い。
「……顔色が悪いぞ。風邪か?」
「い、いいえ。少し……寝不足で」
デューラは、心配そうに彼女の手を取った。
「無理はいかん。……最近、物騒な事件が続いている。夜は早く帰ってくれ」
「……物騒な事件、ですか?」
お紗代が、上目遣いに尋ねる。
「堂羅様も、大変なのですね。……犯人は、まだ捕まらないのですか?」
「ああ。『霧蜘蛛』という古狸だ。神出鬼没でな」
デューラは、つい愚痴をこぼした。
「奴らは、俺たちの動きを完全に読んでいる。
……今夜も、浅草の『両替商』に網を張るつもりだが、正直、裏をかかれないか不安だ」
何気ない一言。
だが、それは「今夜、火盗改の戦力は浅草に集中する」=「それ以外の場所は手薄になる」という、極めて重要な機密情報だった。
お紗代の手が、ピクリと震えた。
「……そうですか。堂羅様、どうかご無事で」
「ありがとう。……貴女の笑顔があれば、俺は戦える」
デューラは、彼女の震えを「自分の身を案じてくれている」と解釈し、優しく微笑んで去っていった。
その背中を見送るお紗代の目から、光が消えていくのを、彼は気づかなかった。
「……決まりだな」
路地の陰。
屋根の上からその様子を見ていた喜助が、静かに呟いた。
「ああ。……旦那、喋っちまった」
隣で、早乙女蘭が唇を噛む。
「悪気はないんだろうけど……『浅草に網を張る』ってのは、裏を返せば『日本橋はガラ空き』って教えたようなもんだ」
「行くぞ、蘭。
あの女が、その情報を『どこ』へ運ぶか……突き止める」
二人は、店じまいをして歩き出したお紗代を、影のように尾行した。
お紗代は、長屋には帰らなかった。
人目を避けるように路地裏を抜け、向かった先は、根津(ねづ)にある寂れた稲荷神社。
「……誰かいるな」
喜助が気配を察知する。
境内の奥。
お紗代は、待ち構えていた黒装束の男――霧蜘蛛一味の手下――に、震える手で紙切れを渡した。
「……火盗改は、今夜、浅草です」
「ヒヒッ。上出来だ、お紗代」
手下が、下卑た笑い声を上げる。
「これで今夜、日本橋の『伊勢屋』はいただきだ。
お頭(蜘蛛助)も喜ぶぜ。……母親の薬代、弾んでやるよ」
「……っ」
お紗代は、渡された小銭を握りしめ、その場に泣き崩れた。
「……見ちまったな」
神社の鳥居の上で、蘭が呟いた。
その声は、怒りよりも、深い悲しみに満ちていた。
「真っ黒だ」
喜助もまた、苦い顔をした。
「あいつは、ただの花売りじゃねえ。盗賊の『引き込み女』だ。
……デューラの旦那、最悪の女に惚れちまったな」
証拠は揃った。
現場を目撃した以上、もはや言い逃れはできない。
お紗代は、デューラの愛を利用し、江戸の治安を崩壊させている張本人だ。
「……報告するぞ」
喜助が踵を返す。
「待って」
蘭が呼び止めた。
「……アタシが言うわ。長官には、アタシから伝える」
蘭は、闇の中で泣き崩れるお紗代の背中を見つめた。
愛する人を騙し、犯罪に加担せざるを得ない女の弱さ。
それを断罪するのは、同じく弟のために手を汚した過去を持つ、自分の役目だと思った。
「……残酷な話だねぇ」
雨が、また降り出した。
鬼の初恋は、裏切りの泥沼の中で、音を立てて崩れ去ろうとしていた。
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