第8話

同心(なまけもの)の本気

「……ったく。なんで俺が、こんな面倒事に」

奉行所から解放された平上雪之丞(ひらうえゆきのじょう)は、大伝馬町の焼け跡に向かいながら、盛大にぼやいていた。

懐は寒く、酒は切れている。

それなのに、例の「狂ったお奉行様(佐藤健義)」は、酒代(借金)の催促をかわすどころか、「真実を嗅ぎつけてこい」などと、酒の肴にもならない仕事を押し付けてきた。

「(火盗改(オニ)様も、公事師(キツネ)のお嬢様も、揃いも揃って……)」

雪之丞は、あのお白洲の異様さを思い出していた。

火盗改長官(デューラ)が持ち込んだ、ススけた「裏帳簿」。

公事師(リベラ)が口にした、不穏な「武家」の影。

(あの二人は、もう「真犯人」が庄助じゃねえって分かってやがる。だのに、お奉行様はどっちの言い分も採用しねえ)

(……あの人、本当に馬鹿なのか? それとも……)

雪之丞は、焼け落ちた越後屋の前に立った。

火盗改の検分は終わり、今はただの「燃えカス」だ。

彼は、デューラや蘭のように「証拠」を探すフリはしない。

彼が向かったのは、現場の向かいにある、小さな「水茶屋」だった。

「よお、おばあさん。いつもの」

「あら雪さん。お奉行様の『特命』だってのに、相変わらずだねえ」

茶屋の老婆は、雪之丞が札付きの怠け者(だが憎めない)であることを知っている。

「仕事は、現場でやるもんじゃねえ。こうやって、茶をすすりながらやるもんだ」

雪之丞は、熱い茶をすすりながら、老婆に尋ねた。

「で、どうだった。火事の晩」

「どうもこうも……すごかったよ。あっという間に火が回ってねえ」

「……越後屋の旦那以外に、変な奴は見なかったか?」

老婆は、少し考える素振りを見せた後、声を潜めた。

「……雪さんだから言うけどね。火事の直前、見たんだよ」

「ほう」

「越後屋の蔵の裏手から、慌てたように飛び出してきた『侍』をさ。高そうな着物着てたよ。火事だ火事だってみんなが騒いでるのに、そいつだけは逆の、人のいねえ路地に消えてった」

(……侍、か)

リベラが言っていた「武家との口論」という噂が、現実味を帯びてくる。

雪之丞は茶屋を出ると、今度は越後屋の「裏」を知る人間――つまり、越後屋の「悪事」の被害者たちが集う、貧乏長屋へと足を向けた。

彼は同心としての権威など一切見せず、ただの「酒飲みの雪さん」として、長屋の連中と酒(もちろんツケだ)を酌み交わす。

「……越後屋の野郎、本当にひでえ奴だった」

「あそこのせいで、首くくった仲間もいる」

「だが、あの旦那と一番揉めてたのは……」

情報(こぼれ話)は、酒と共に雪之丞の元に集まってくる。

「……『水野』様の、ご家来衆さ」

「水野」――その名を聞いた瞬間、雪之丞の酔ったふりをしていた目が、カッと見開かれた。

田沼意次が権勢を誇る今、その対抗馬として、あるいは次代を虎視眈々と狙う、幕府の重鎮の一人。

(……やべえ。こいつは、マジでやべえ匂いだ)

雪之丞は、長屋の連中に「小便だ」と嘘をつき、その場を離れた。

これは、ただの放火事件ではない。

越後屋の悪事に(おそらくは金銭的に)加担、あるいは対立していた「武家」が、何らかの理由で越後屋を「消した」。

庄助は、そのための完璧な「生贄」だったのだ。

(お奉行様が、デューラ様の『裏帳簿』も、リベラ様の『噂』も、握り潰したワケだ)

(どちらも、これ以上公(おおやけ)にしたら、奉行所(オレたち)ごと潰されちまう――)

雪之丞が、思考を巡らせながら暗い路地を抜けようとした、その時。

「……同心風情が、嗅ぎ回るんじゃねえよ」

前後から、4人の男が道を塞いだ。

浪人風だが、その目つきは、ただのゴロツキではない。人を殺(や)ることに躊躇(ためら)いのない目だ。

「おっと。こいつは手荒いご挨拶で。どこのどなたか、名乗って……」

「死人に名乗る名はねえ」

一人が、抜刀。

月明かりを浴びた刃が、雪之丞の首筋を狙う。

(……あーあ)

雪之丞は、本日何度目かの、深いため息をついた。

「(……酒が、飲みてえのによ)」

次の瞬間。

雪之丞の「怠け者」の空気が、消えた。

抜刀してきた浪人の腕を、雪之丞は持っていた(ツケで買った)酒瓶(さけびん)で受け止める。

ガキン!と鈍い音が響き、瓶が割れる。

しかし、雪之丞は構わない。割れた瓶の底(きりくち)を、そのまま浪人の手首に押し当てた。

「ぎゃっ!?」

「うるせえ」

即座に、二人目の腹に強烈な蹴り。

三人目と四人目が同時に斬りかかってくるのを、雪之丞は信じられないほどの低い体勢で潜り抜ける。

「(ったく、お奉行様が『峰打ち』だの『不殺』だのうるせえからな……)」

彼は、刀を抜かない。抜けば、後処理(検分)が面倒だからだ。

代わりに、割れた酒瓶を二人目の顔面に叩きつけ、怯んだところを路地の壁に叩きつける。

最後の一人が恐怖で逃げ出そうとした背中に、石畳の石を投げつけ、的確に昏倒させた。

わずか数瞬。

4人の暗殺者は、誰一人として命を奪われることなく、しかし完璧に無力化されていた。

「……あーあ、酒が……。貴重な酒がこぼれちまった」

雪之丞は、転がっている浪人の懐を探り、小判を数枚抜き取った。

(こいつは、口止め料兼、酒代の前借りだ)

そして、彼は、倒した男の着物の「紋」に目をやった。

それは、彼が長屋で聞いた「水野」の紋と、一致していた。

「……はぁ。こりゃ、お奉行様にツケを払ってもらうどころか、貸しを作られちまったな」

雪之丞は、震えも息切れもしていない。

ただ、とんでもなく面倒な「真実(やみ)」に触れてしまったことだけを憂いながら、夜空を仰いだ。

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