第2話
とにかく急がなければならない。
今度のことは、たった少しの遅れで、人が死ぬ可能性すらある。
足早に廊下を通り過ぎて、庭に面した回廊に出ようとした時。
ここは前に通ったことがある。
というより、事件の日に通ったのだ。
その時に確か、
ここを通り過ぎて行ったのだ。
とにかく今まさに山から下りて来たような、粗末な身なりだったが、一瞬見遣った表情は非常に堂々としており、怪しさもない様子だったのだ。
あの時離宮の人々も側を通っていたけれど、その老人に驚くこともなく受け入れていたことから、何かしらの関係者なのだと思う。
荀攸が取り調べた者の中にはその人はいなかったので、
客間に戻ると、待っていた副官に尋問よりも早く尋ねてみた。
「身なりは古めかしかったが、非常に落ち着いた様子の御老人だった。
これから取り調べる四十人の中に、その方がいるならまず話を聞いてみたいのだが……」
四人いた副官は、皆優秀だったが、それぞれその四十人を一度尋問しているにも関わらず、誰も荀攸の言う特徴に会う人物を見た者がいなかったのだ。
まず、年の頃からして合わなかった。
この離宮には元々人がいない。いるのは曹丕、甄宓の世話を出来る召使いの者達である。
あとは護衛であり、商人などには老年の者もいるが、あの日は離宮には訪れていないし、普段も離宮内には商人は入って来ない。
つまり、六十を過ぎた老人自体、離宮にはいなかったのだ。
「いや。確かにこの目で見たんだ。着ていたものの風体や色などは、絵でも描ける」
荀攸は木版に墨で簡単にだが、老人の着ていたものや風貌を描いてみた。
副官たちは眉を寄せ、見ていませんと口を揃える。
しかし荀攸がそんなものを見たことがある、などと言うわけはなかったので、全員がそこでおかしい、という認識になった。
「年恰好からして、毒を入れて素早く逃げるなどという芸当が出来るようには見えなかった」
しかし老人を誰も尋問していないことが分かると、荀攸は取り調べより先に、話を聞く四十人の風貌が見たいと言った。
すぐに四人の副官を引き連れ、尋問を控えた四十人の許を訪れ、まず先に風貌の確認をする。
顔を見るだけだったので、一時間ほどで全ての人間を見終わった。
荀攸が見た老人はいなかった。
その際、こういった人を見なかったかとも彼らに尋ねたが、誰一人としてそんな方は見たことがありませんと従順に答えた。
離宮勤めの女官たちにも尋ねたが「客人でも見たことはない。離宮でそんな粗末ななりをしていたら目立つから、間違いはない」と口を揃える。
この老人への疑惑は深まったものの、
仮に彼が見つかったとして、毒は物理的に入れてはいないのだ。
誰もそんな人物を見ていないのだから、確かである。
しかし不審は揺るぎないため、
もう一度離宮に大がかりな捜索を掛けることにした。
護衛も増員し、庭の茂みから家具などの中まで、人が入れそうな場所はつぶさに調べてくれと命じる。
離宮も広かったが、長安や許都の城であれば、そんな捜索も果てが無かっただろう。
しかしこの離宮ならば朝方まで入念な捜索が行われれば、十分な結果は出すことが出来た。
老人などはどこにも隠れていないし、
見た者すらいなかった。
城門を守る者たちも「そのような人が通れば必ず気づきます」と自分たちの潔白を荀攸に真摯に訴えて来た。
荀攸は信じる。
門番たちも一人二人ではないのだ。
彼らはそんな人物を通したりはしていない。
出してもいない。
空が白み始めて来た。
行方はともかく――奇妙なのが、誰もそんな人物を見ていない、と言ったことだった。 そんなわけはないのである。
荀攸が彼を見た時、直前に女官たちも通り過ぎていた。
人はいた。
彼のすぐ側を、老人は通って行ったのだ。
それを荀攸は見たのに、
他の誰も見ていない。
(何故……)
僅かな疲労を感じて、額を押さえた時――荀攸はハッと顔を上げた。
思い出したのだ。
彼は駆け出して、階段を駆け上がると、今は無遠慮に扉を叩いた。
出て来たのは曹娟で、心配そうな顔をしていた為、荀攸はしまった、と思った。
「申し訳ない……
奥から、瑠璃が姿を見せた。
何かあったのかと不安そうな顔をしていたが、
荀攸は思い出したのだ。
一度老人を気に掛け、自分は振り返った。
それほど目立つ人物だったからだ。
その時に、瑠璃も彼に対して、確か一礼する姿をしていたのである。
「瑠璃殿、申し訳ありませんが落ち着いて思い出していただきたいのです。
貴方と部屋でお話をさせて頂いて、庭の方に戻ろうとした時……、六十ほどの老人がこっちへ歩いて来るのを見ませんでしたか?
確か貴方が彼に、挨拶をした姿を見たと思うのです」
何を聞かれるのかと不安そうだった彼女は、荀攸が尋ねると、それについては考える必要もなかったのか、すぐに頷いた。
「
はい。御老人がこちらへいらっしゃったので、離宮の客人の方かと思い、挨拶をさせていただきました」
荀攸と後ろの副官四人は驚いた表情を浮かべる。
「このような方でしたか」
荀攸の描いた絵を出すと、ジッとそれを見て、瑠璃は頷いた。
「はい。この方に間違いありません」
荀攸は話が通じて嬉しかったのだが、すぐに何か、心の奥底から闇色の靄が溢れて来るような感覚に襲われた。
瑠璃も彼を見ていたことは分かった。
彼は存在したのだ。
(だが、誰だ?)
離宮の中にはいない。
いなくなってしまった。
逃がしてしまったということになるだろうが、この高い塀に囲まれた離宮の、門を通らず一体どこから外に出たのかは分からなかった。
(あれは誰だ?)
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます