【恋愛+?】指先の記憶

 人は生きているあいだに、いったい何度「ボタンを押す」という行為を繰り返すのだろう。

 エレベーター、押しボタン式の信号機、リモコン、端末の画面……。

 そのひとつひとつは、ごくありふれた動作だ。


 けれど――もし、その「押す」という行為がきっかけとなり、ある事象を引き起こしてしまうとしたら?


 これは、まさに運悪く、その事象を招いてしまった “ただひとり” の物語である。



 ――パチン


 と電気のボタンを押す。

 その明かりに照らされ、若い男性と女性がぱっと顔をほころばせた。

 「すごいね」「えらいね」と褒めてくれる――パパとママだ。


 その光景は、どこか懐かしいような、心の奥にそっと残る記憶のようでもあった。

 私の最初の記憶は、あの温かな光とふたりの笑顔から始まる。


 三矢 並久(みつや なみひさ)。

 これが私の名前。


 幼稚園。

 小学生の頃までは、特に変わりなく穏やかな日々だった。

 けれど、時折、胸の奥に小さなざわめきのようなものを覚えることがあった。

 何か悪いことが起きそうな気配、理由のない不安。

 けれど、当時はただ「気のせい」と笑い飛ばしていた。


 中学校に入った頃、私はいじめっ子の目に留まってしまう。

 その日を境に、平穏だった時間はゆっくりと歪み始めた――。


 中学校でいじめが始まったのは、些細なきっかけだった。

「あ、また転校生くん本読んでる」

 誰かの何気ない声に、数人が笑った。

 入学以来ずっとこの学校にいるのに、誰が言い始めたのか“転校生”があだ名になってしまっていた。

 教室の隅で静かに本を読んでいただけなのに、からかいの声は日に日に大きくなり、休み時間はまるで胸に鉛が詰まったような重苦しい時間へと変わっていった。


 それでも、ひとつだけ救いがあった。

 逃げるように向かった図書室で、毎日のように見かける少女――隣のクラスの佐伯ひより。

 並久が本を読みふけっていると、気配を消すように隣に座り、ちらりと覗き込んでくる。

 どうやら、選ぶ本の傾向がひよりと驚くほどよく似ているらしく、同じ作家の名前を見つけると、ふっと嬉しそうに目を細めるのだ。

 やがて満足したように、自分の本を開いて静かに読み始める。


 ある日の放課後、涙をこらえながら図書室へ向かうと、ひよりが話かけてきた。


「……大丈夫? クラスの人に三矢君のこと、聞いたよ……」


 その言葉を聞いた瞬間、胸の奥がきゅっと縮む。

 まるで、誰にも知られたくなかった弱いところを、そっと撫でられてしまったような恥ずかしさが込み上げた。


 情けないところを、ひよりに知られた。

 目を合わせるのが少しだけ怖くなる。


 なのに、ひよりの瞳は責めるでも笑うでもなく、

 ただまっすぐに心配そうで――

 その優しさに、胸がじんわりと熱くなった。


 恥ずかしさと救われた気持ちが入り混じり、

 世界が少し違って見えた。



 ひよりは担任に相談し、親にも話し、周囲の大人たちが動き始めた。

 最初こそ、いじめっ子達は嫌味の様な事を言って来ていたが、次第にその頻度は減り

 いじめは時間とともに収まり、やがて消えていった。


 だが、胸の奥に落ちる影は消えてくれなかった。


 ひよりと目が合うと、嬉しさより先に自分で何もできなかった情けなさ。

 弱い姿を知られた恥ずかしさ。

 「助けられた側」という事実が、並久をいつまでも縛りつけた。


 図書室でひよりがページをめくる音がすると、なぜだか心がざわつく。

 隣に座られる前に席を離れたり、借りる本の棚を変えたり、

 気づけば、彼女を避けるような行動ばかり選んでいた。


 ひよりは気づいていないのか、気づかないふりをしているのか、

 遠くからそっと視線を向けてくるだけで、追いかけてくる様なことはしなかった。


 中学を卒業する頃、並久はひよりとどう向き合えばいいのか分からないままだった。

 感謝よりも、気まずさが先に立つ。

 避けてしまった日々は、もう簡単には消えない。


 そして進路の結果、ふたりは自然に別々の高校へ進学することになった。


 並久は、ほんの少しほっとした。

 逃げたのだと自覚はしている。

 でも、新しい環境なら何もなかった頃の自分に戻れる気がした。


 入学式の日、桜の花びらが風に舞う中で、ふとひよりの姿を探してしまう。

 そこにいないと分かっているのに、ひよりの姿を探す事が完全に癖になっていた。



 一方でひよりもまた、別の学校で新しい生活を始めていた。

 彼女は彼女で忙しく、前を向いていた。

 無理に追いかけることも、引き留めることもしない――

 その自然さが、ひよりらしかった。


 こうしてふたりは、何となく少し特別だった時間を胸の奥に沈め、別々の道を歩き出した。



 春。

 最初は新しい環境に慣れることに精一杯で、ひよりのことは頭の片隅に追いやられていた。

 けれど、ふとした瞬間に思い出すのは、あの図書室での静かな時間、そして自分を気遣ってくれたひよりの顔だった。


 並久は、恥ずかしさと情けなさからひよりを避けていた自分を少しずつ許し、前よりも少しだけ大人になった自分を感じていた。

 一方のひよりも、別の高校で自分の世界を広げ、無理に三矢に近づくことはしなかった。

 互いに距離を取りながらも、お互いの心の奥には確かにあの時間が残っていた。


 高校を卒業し、大学での生活にもようやく慣れてきた頃。

 並久は、授業の空き時間にふと立ち寄った本屋で、懐かしい後ろ姿を見つけた。


 ――ひよりだ。


 胸が一瞬だけ強く脈打つ。

 けれど、今はあの頃のように逃げる必要はなかった。

 むしろ、ちゃんと言葉にしなければいけないことがある。


「……佐伯さん!」


「えっ? 三矢君、久しぶりだね」


「本…見てるの?」


「うん、この本見てたんだ、ちょっとお高くて迷ってました!」


 ひよりは少し照れたように笑った。

 その自然さに、並久は深呼吸をひとつ置き、意を決して口を開く。


「……佐伯さん。あの時…中学の時さ、俺……逃げるみたいに君を避けてたよね」


 ひよりが驚いたように瞬く。

 並久は続けた。


「怖かったんだ。あの時の俺、弱かった。

 でも……君が助けてくれて…声をかけてくれたこと、すごく支えになってたんだよ。

 佐伯さんがいなかったら、俺、たぶんもっとダメになってた」


 ひよりは言葉を失ったように黙り、うんうんと頷いて聞いてくれていた。


「ちゃんとお礼、言いたかった。

 逃げたことも、謝りたかった。

 ……助けてくれて、本当にありがとう」


 そう伝えると、ひよりは小さく息を吸い、ふわりと笑った。


「えっと……。私は、三矢くんが辛そうで、放っておけなかっただけだよ…。

 でも……ありがとう。言ってくれて、嬉しい」


 並久はようやく胸の奥の重しが外れたような気がした。

 あの頃の逃げた自分と、ようやく向き合えたのだ。


 二人は本棚の間でしばらく立ち話をして、自然とまた会う約束をした。

 その一歩は、あの頃では決して踏み出せなかった――

 けれど今の並久は、もう逃げなかった。



 それから二人は、少しずつ距離を縮めていった。

 一緒に本屋を回り、カフェで笑い合う。

 恋愛に急かされることはなく、互いの存在がそっと日常を支えることを楽しむ関係だった。


 大学を卒業し、社会人になったある日、並久は心の中で決意した。

 あの頃の自分を支えてくれたひよりに、これからの人生もそばにいてほしい、と。


 指輪を忍ばせて、夕暮れの川沿いでひよりを呼び出す。


「ひより。君がいてくれたから、俺はここまで来られた。……結婚してください」


 ひよりは驚き、目を瞬かせる。

 そして、小さく笑って頷いた。


「はい!」


 そうしてふたりは結婚し、小さなアパートの一室で始まった新婚生活は、穏やかで優しい日々だった。

 朝、ひよりが淹れてくれるコーヒーの香り。

 仕事から帰ると迎えてくれる、変わらない笑顔。

 何気ない食卓で交わす会話。

 並久は、自分が“幸せ”という言葉の中にすっぽり包まれている実感を、毎日のように噛みしめていた。


 ――けれど、その頃からだ。


 理由は分からない。

 小さな頃にも感じた、あの奇妙なざわつき――

 それを、最近になってまた感じるようになっていた。


 最初は、帰宅して電気をつけたときの、ほんのわずかな違和感だった。

 パチン、といつも通りの感触が指先を伝う。

 なのに、その瞬間、胸の奥に冷たいものが走る。


(……なんだ?)


 思い当たる理由はひとつもない。

 けれど、心臓だけが落ち着かなくて、何かを拒絶するように脈を打つ。


 翌朝、トースターのスイッチを押したときもそうだった。

 会社のエレベーター。

 テレビのリモコン。

 どんなボタンを押しても、微かな緊張が走り、指先から汗が滲む。


 言葉にできないその感覚は、日に日に強くなっていった。


 幸せは確かにそこにある。

 ひよりの笑顔も温もりも、手を伸ばせば届く。


 けれど――。


 どうしようもない漠然とした不安がボタンを押すたびに胸を締め付けた。


 ある晩、ひよりがキッチンで振り返り、首をかしげる。


「あなた…最近、どうしたの? 電気つけるとき、ちょっと怖そうな顔してるよ?」


「……いや、なんでもないよ。」


 笑ってごまかす。

 けれど、胸のざわめきは消えなかった。


 幸せになった今だからこそ、その静かな不安はなおさら鋭く心に刺さった。

 そんな根拠のない恐怖だけが、影のように寄り添ってくる。


 ひよりに悟られないよう、並久はそっと息を整えた。


 パチン。

 明かりはいつも通り灯る。

 温かな夕食の香りが部屋いっぱいに広がり、今日はいつも以上に賑やかだった。


 今日は子どもの三歳の誕生日。

 ひよりが飾りつけをして、並久はケーキを買いに走り、

 部屋中に笑い声が弾んだ。

 ロウソクの火が揺れ、願いごとを唱える丸い頬。

 その光景を見つめるふたりの胸には、満ち足りた幸福がふわりと灯っていた。


 プレゼントを開けるたびに歓声があがり、

 写真を撮って、歌って、笑って――

 この家がこんなにも温かい空気で満たされる日が来るなんて、

 あの頃の自分には想像もできなかった。


 やがてパーティーが終わり、

 子どもは満足そうに大きなあくびをしてベッドに横たわる。


「今日は楽しかったね、こんな日が毎日続いたら良いのに」

 ひよりがそっと並久の手を握る。


「……大丈夫だよ。これからだって、ずっと続くさ」


 並久はそう言いながら微笑んだ。

 口にした言葉はまっすぐで、ひよりを安心させるように優しい。

 ――なのに、胸の奥のざわめきだけは、今日に限って妙に騒がしかった。

 まるで何かを訴えようとするみたいに…。


 その感覚をそっと押し沈めるように、並久は寝室のスイッチへ手を伸ばした。



 ――パチン



 その明かりに照らされ、若い男性と女性がぱっと顔をほころばせた。

 「すごいね」「えらいね」と褒めてくれる――パパとママだ。


 その光景は、どこか懐かしいような、心の奥にそっと残る記憶のようでもあった。

 私の最初の記憶は、あの温かな光とふたりの笑顔から始まる。

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