第12話 勇者乱入、そして顧客へ

『女神の休息所』の朝は、穏やかなハーブティーの香りと、優雅なクラシック音楽(魔道具による自動演奏)で始まるはずだった。

だが、その平和は暴力的な轟音と共に打ち砕かれた。


ドォォォォォンッ!!

店の扉が、蹴り破られるどころか、神聖魔術の衝撃波で吹き飛んだのだ。


「――見つけたぞ、魔王ヴェルザ! そして貴様をたぶらかす悪徳店主よ!」

土煙の中から現れたのは、白銀の聖鎧に身を包み、身の丈ほどもある大剣『聖剣エクスカリバー』を構えた少女。

人類の希望、勇者アリスである。

彼女の碧眼は正義の怒りに燃え、切っ先は真っ直ぐに店の奥を指していた。

「貴様らの洗脳もここまでだ! 私が来たからには、もう好き勝手はさせな……い……?」


アリスの言葉尻が、疑問符と共に宙に浮いた。

彼女の視線の先。

そこには、拷問器具も、怪しい儀式の祭壇もなかった。

あるのは、ふかふかのソファと、そこで顔面白塗り(泥パック中)のままくつろぐ二人の女性だけ。


「……騒々しいな、勇者よ。休息の邪魔だ」

優雅に足を組み、キュウリの輪切りを目に乗せているのが、魔王ヴェルザ。

「全くだ。ドアの修理費は騎士団の経費からは出さんぞ、アリス」

その隣で、同じく泥パックをしたまま呆れ声を上げたのが、騎士団長ヒルダ。


「え……? 団長……? それに、魔王……?」

アリスの脳内で、正義の方程式がガラガラと崩壊した。

「な、なんで二人が……仲良く並んで……顔に泥を塗って……!?」

「これは『死海(デッドシー)の泥パック』だ。ミネラルが豊富で、肌のターンオーバーを促進する」

ヴェルザが真面目に解説する。

「混乱するなアリス。ここは……そう、戦士の楽園だ」

ヒルダが悟りきった声で補足する。


アリスはパニックに陥り、聖剣をブンブンと振り回した。

「だ、騙されないぞ! これは高度な幻覚魔法だ! 魔王め、騎士団長まで洗脳して……!」

「お客様、店内での凶器の振り回しは固くお断りします」


スッ。

いつの間にかアリスの懐に入り込んでいたサエが、聖剣の刀身を素手で――いや、タオル越しに優しく押さえた。

「なっ、いつの間に……!?」

「動きが直線的すぎますよ。それに……」

サエの【解剖の魔眼(アナライズ)】が、勇者の身体をスキャンする。

(……やっぱり。この子もボロボロ)


勇者アリス。十代半ばの華奢な身体で、世界を救うという過酷な使命を背負わされた少女。

彼女の右肩から二の腕にかけての筋肉は、重すぎる聖剣を振るい続けた代償で、悲鳴を上げる寸前だった。

特に、剣の衝撃を受け止める『三角筋』と『上腕三頭筋』が、鋼鉄のワイヤーのようにきしんでいる。

彼女は正義感だけで立っている。肉体はとうに限界を超えていた。


「勇者様。その剣、重くありませんか?」

サエが耳元で囁く。

「お、重くなどない! これは人々の祈りの結晶……!」

「嘘ですね。右肩が上がっています。寝るとき、腕が痺れて目が覚めることがあるでしょう?」

「ッ!?」

図星を突かれ、アリスが動揺する。

「なぜそれを……誰にも言っていないのに……」

「身体は口ほどに物を言います。さあ、その物騒なものはロッカーに預けて。……少し、荷物を下ろしましょうか」


サエの手が、アリスの手から聖剣をするりと抜き取った。

カチャン。

剣が床に置かれた瞬間、アリスの身体がふらりと揺れた。

「あ……」

支えを失った彼女を、サエがふわりと抱き留める。

「戦わなくていいんですよ、ここでは。貴女はただの、肩こりのひどい女の子です」


その言葉は、どんな回復魔法よりも深く、アリスの心の隙間に染み込んだ。


施術台の上。

聖鎧を脱がされたアリスは、驚くほど無防備で、華奢だった。

白いキャミソールからは、酷使された二の腕が露わになっている。

「では、行きますね。『聖剣使いのための、腕(アーム)レスキュー』コースです」


サエは、鎮痛効果のあるミントオイルをたっぷりと腕に塗り込んだ。

スーッとする清涼感が、熱を持った筋肉を冷やしていく。

「ひゃっ……冷たい……」

「まずは、手首から。剣の柄を握りしめすぎて、腱鞘炎になりかけています」

サエはアリスの手を取り、親指の付け根(母指球)をグリグリと揉み解した。

「ん、ぅ……! い、痛い……けど……」

「痛いのは、頑張った証拠です。でも、握りしめるばかりじゃダメ。たまには開かないと」

サエはアリスの指を一本一本、丁寧に反らせてストレッチをかけた。

パキ、ポキ。

小さな音が鳴るたびに、アリスの指先から力が抜けていく。


そして、本丸。

サエの手が、アリスの二の腕、上腕三頭筋をガシリと掴んだ。

「ここです。剣を振り下ろすブレーキの役割をする筋肉。一番負担がかかっています」

「そ、そこは……っ! 触らないで……硬くて、恥ずかし……」

「硬いのは恥ずかしいことじゃありません。ほぐし甲斐があるってことです」

サエは親指を筋肉の繊維に沿って滑らせ、コリの核(コア)を探り当てた。


「見つけました。……正義の凝りですね」

グニリッ。

容赦のない一点集中圧。


「あぎぃっ!? いたい、痛いぃっ! 切れる、腕がちぎれるぅ……!」

アリスが悲鳴を上げ、足をバタつかせた。

「ちぎれません。癒着を剥がしているだけです」

サエは逃がさない。

何千回、何万回と剣を振り続け、石のように癒着してしまった筋肉と筋膜を、指先で強制的に引き剥がしていく(リリース)。


視点はアリスの右腕へ。


(熱い! 痛い! でも……!)

アリスの感覚の中で、右腕が燃えていた。

だがそれは、戦いの痛みではない。

サエの指が入ってくるたびに、腕の中に溜まっていた「重い鉛」が溶け出し、指先から流れ出ていくような感覚。

(……う、腕が、こんなに軽いなんて……)

「ん、あぁっ……! ぬける、力が……全部、ぬけちゃうぅ……!」

「そう、全部捨ててください。使命も、期待も、今は必要ありません」

サエの手技は、二の腕から肩、そして首筋へと移行する。

首の付け根、重い兜を支えていた僧帽筋を、大きくつまんで揺らす。


「勇者様、いいですか? 世界を救う前に、まず自分を救いなさい」

「じぶ、んを……?」

「凝った体で振るう剣は、鈍ります。ほら、ここもこんなに」

グイッ。

「ひぃあぁぁっ! そこ、首の……根っこ……っ! きもちいぃぃっ♡」


アリスの碧眼が潤み、トロンと蕩ける。

「勇者」の仮面が剥がれ落ち、年相応の少女の素顔が露わになる。

「だめぇ……もう、戦えない……剣、持てないぃ……」

「持たなくていいです。今日は枕を抱いて寝ていなさい」

サエの優しい命令に、アリスは完全に屈服した。

「は、はいぃ……ママ……」

極度の退行現象。

サエはクスリと笑い、仕上げに腕全体を包み込むように撫で上げた。


***


施術後。

アリスは待合室のソファで、魔王ヴェルザと並んで座っていた。

二人とも、放心状態でハーブティーを啜っている。

敵同士? そんな概念は、この店のアロマと共に揮発して消えた。


「……魔王」

アリスがポツリと言った。

「……なんだ、勇者」

「……お前、いつもこんな気持ちいいことをしていたのか」

「……うむ。世界征服より、価値があるぞ」

「……そうだな。私も、そう思う」

アリスは自分の右腕をさすった。

羽のように軽い。今なら、剣ではなく、花束でも振りたい気分だ。


「休戦だ」

アリスが言った。

「少なくとも、私の回数券がなくなるまでは」

「賢明な判断だ。……ところで、次回の予約は取ったか? 空きが少ないぞ」

「なっ、本当か!? 店主さん、私にも予約を!」


サエはカウンターの奥で、新たな予約を書き込みながら微笑んだ。

勇者も、魔王も、騎士も。

みんな、ただの「凝り性」な常連客。

サエの指先が生み出した平和は、どんな条約よりも強固で、そして何より「気持ちいい」ものだった。


しかし。

サエの手が足りない。

勇者の加入で、予約枠は完全にパンクした。

「……困ったわね。身体が一つじゃ足りない」

嬉しい悲鳴を上げるサエの元に、一通の手紙……いや、履歴書が届く。


『弟子入り志願書』

送り主は、魔法学校の主席卒業生。

サエの技術を魔法で再現しようとする、新たな波乱の種(ライバル?)が訪れようとしていた。

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