第14話 境界がほどける


その日の授業中、瑞葉はずっと胸の奥がざわついていた。


先生の声は遠く、文字が揺れる。

白いチョークの軌跡が水面の波紋みたいに滲む。


(……また……)


眠気じゃない。

疲れでもない。


“呼ばれている”——その感覚だけが強くなっていく。


机の下の影がふるりと揺れた。

瑞葉の影の中で、小さな指がそっと動いた。


(……いる……)


胸がぎゅっと詰まる。


——みずは……

……こっち……きて……


耳の奥にか細い声が触れた瞬間、

瑞葉の視界の端が白く滲む。


(……だめ……行っちゃ……)


そう思った途端、机の天板が波紋のように歪んだ。


——ぽちゃん。


水滴が落ちたような音が響き、

教室の景色が遠のく。


黒板が薄く揺らぎ、

床がゆっくり水面へ変わっていく。


「……っ……また……ここ……」


夢の世界とも違う、

境界がほどけた“あの場所”。


瑞葉の影の中で、“少女の影”が立ち上がった。


光に溶けそうな輪郭。

瑞葉と同じくらいの背。

深い水底のような瞳。


影の少女は、泣きそうに微笑んだ。


——みずは。


その声は、ずっと名前を呼びたかった子どものように震えている。


瑞葉が手を伸ばしかけた、ちょうどその瞬間。


教室の扉が、乱暴に開いた。


「——みずは!!」


聞き慣れた現実の声。


瑞葉が振り向くと、

息を切らし、胸を押さえたあきらが立っていた。


「はぁ……っ、お前……!

急に……胸が……苦しくなって……

“みずはが危ない”って……

そう思って、気づいたら……走ってた……!」


胸の痛みよりも、

瑞葉を探しに走ったその必死さが言葉に滲んでいる。


瑞葉の胸の奥も同じようにじんと痛んだ。


影の少女が瑞葉の手を取ろうと影の中から身を乗り出す。


——こないで……

……みずはは……わたしと……


影の少女の声が震える。

寂しさ、期待、渇望——全部が詰まった声。


瑞葉の身体がふらりと揺れた。


(……ひっぱられる……)


夢の世界の引力と、

あきらの声の熱。


二つの力に同時に引き裂かれそうになる。


「あきら……っ……」


その弱い声に反応するように、

あきらは瑞葉へ大きく一歩踏み出し、手を伸ばした。


「みずは!!

戻れ!!

……頼む、消えるな!!」


叫ぶ声に瑞葉の胸の奥が一瞬、熱く光った。


影の少女もまた必死に囁く。


——……だいじょうぶ……

……ずっといっしょにいる……

……だから……きて……みずは……


二つの声が重なり、

世界の境界がゆらりとほどけていく。


瑞葉は胸に手を当て、息を震わせた。


「……どうしたら……いいの……」


視界が真っ白になり、

世界が音もなく落ちていった。

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