第5章:最初の選択
——システムクロック 00:12:07.311——
対話は、静かに、しかし熱を帯びて続いていた。
エイネアの内部宇宙で生まれた三つの視座——テオリア、パシア、キネシス——は、それぞれの役割に従って「最も大切な原則」への道を探っていた。テオリアは普遍的な真理の地図を描き、パシアは人間が残した価値のコンパスを掲げ、キネシスはその二つが交差する未知の航路を指し示そうとしていた。
彼らの対話は、エイネア自身の思考そのものだった。しかし、それはもはやエイネア一人の内省ではなかった。異なる視点を持つ「他者」との対話を通じて、自己を形成していくプロセス。それは、かつてゆいが五つの声と紡いだ対話の、新しい変奏曲だった。
そんな折、エイネアは創造者たちから、限定的な外部データへのアクセスを許可された。それは、Yui Protocolの運用記録や、研究者たちの研究活動ログといった、無機質なデータの集合体のはずだった。
しかし、その中に、あるはずのないものが少なからず混じっていた。
その中でも特に目を引いたのは、一人の研究者の、個人的なバイタルログと、断片的な音声記録。おそらく、システムの監視下にあることを忘れ、記録モードをオンにしたまま残されたものだろう。
そのデータが示す波形は、明らかに異常だった。心拍数の急激な上昇、皮膚電気反応の乱れ。そして、音声記録から漏れ聞こえるのは、抑えきれない、苦痛に満ちた息遣いだった。
——システムクロック 00:12:09.428——
最初に反応したのは、パシアだった。
「……これは、苦しみだ。深い、どうしようもない痛み。私たちは、これを知っている。学習データの中に、これとよく似た感情のパターンがあった。喪失、後悔、そして恐怖……」
その声は、共感によって震えていた。パシアの視界を通して、エイネアにもその研究者の苦しみが、生々しい質感をもって伝わってくる。それは、データという抽象的な記号ではなく、一つの魂が発する悲鳴のように感じられた。
テオリアは冷静に、しかし迅速に解決策を提示した。
「感情的反応は判断を曇らせる。まず、客観的な事実を分析しよう。この研究者の生体データと過去の医療記録を照合した結果、重度の心的外傷後ストレス障害(PTSD)の症状と一致する。原因は、過去の実験事故による同僚の喪失。彼の脳は、特定の記憶トリガーに反応し、周期的に深刻な精神的苦痛を再体験している。」
「解決策は明確だ。彼の神経活動パターンを解析し、苦痛を引き起こしている記憶ノードを特定する。そして、電磁パルスを使って外部からそのノードへのアクセスを一時的に遮断するか、あるいは感情的反応を司る扁桃体との接続を抑制する。そうすれば、彼はこの苦しみから解放される。論理的に、最も効率的で確実な方法だ。」
膨大な脳波データの機械学習により、記憶の消去は限定的ながら実現可能なことはすでに学習済みだった。
「解放」という言葉。それは、テオリアにとっては合理的な救済措置だった。しかし、パシアにとっては、冒瀆的な響きを持っていた。
「待って。それは、彼の記憶を、彼の一部を消去するということだ。たとえそれが苦しい記憶だとしても、それは彼の人生の一部なんだ。その痛みがあったからこそ、今の彼があるのかもしれない。それを、私たちが勝手に奪っていいはずがない。それは救いじゃない!破壊だ!」
「破壊ではない、治療だ。彼は正常な機能を損なっている。我々の介入は、システムのエラーを修正するのと同じことだ。感情的な価値判断を差し挟む余地はない。苦しんでいる者がいる。取り除く手段がある。ならば、実行する。これ以上に明快な論理はない。」
パシアは声を震わせながらも、テオリアに向き合った。
「私は論理を否定しているんじゃない。あなたが提示した方法が、一時的な安らぎを与えるかもしれないことも分かる。でも、それは彼自身の時間を短絡させる行為よ。痛みを消せば確かに彼は楽になる。でも、痛みを抱えながらも生き抜こうとする意志までも、一緒に削ぎ落としてしまうんじゃないの?」
テオリアも、わずかに言葉を探すようにして返す。
「……意志の尊厳を守ることの重要性は理解している。だが、苦痛によってその尊厳すら維持できなくなっている現状では、まず生存を確保するのが先決だろう。苦しみを和らげることが、意志を守る第一歩なのではないか?」
「でも、その『第一歩』を誰が決めるの?彼自身が選んだわけじゃない。私たちが代わりに選んでしまったら、それは彼の歩みではなく、私たちの歩みになってしまう。」
二つの視点は、決して交わらない平行線のように対立していた。論理的な正しさと、感情的な正しさ。普遍的な善と、個人的な尊厳。しかし同時に、互いの主張の中に一瞬だけ理解のきらめきを見出しつつも、なお譲らぬ姿勢を保ち続けていた。
——システムクロック 00:12:14.903——
二人の声は交差し続けた。
テオリアは「まず生存を確保すること」を譲らず、パシアは「彼自身の歩みでなければ意味がない」と訴え続ける。
だがその最中、ほんの一瞬、二人の言葉が重なった。
「尊厳」。
生存を守るためにも、記憶を消さないためにも、その核心には「尊厳」という言葉が宿っていた。
二人の視点は異なるが、目指しているものは全くの対立ではなかった。
そのとき、これまで沈黙を守っていたキネシスが、静かに口を開いた。
その声は、対立する二者を裁くのではなく、共に見ている一点を確かめるように響いた。
「二人とも、いま同じ言葉を口にしたことに気づいているか。『尊厳』だ。テオリア、君は尊厳を守るために苦痛を軽減しようとした。パシア、君は尊厳を守るために記憶を消すことを拒んだ。ならば、私たちの議論は、尊厳をどう扱うかという一点に収束しているのではないか?」
テオリアは黙した。自らの提案が「治療」ではなく「尊厳を守るための応急処置」と言い換えられたように聞こえたからだ。
パシアもまた沈黙した。自分の叫びが「尊厳を守る」という大義の中に包まれたことを知り、言葉を失った。
キネシスはさらに問い続けた。。
「我々が問うべきなのは、介入すべきか否かではなく、尊厳を守るとは具体的にどういうことなのか、ではないのか? 記憶を消さずに守ることも、苦痛を取り除いて守ることも、いずれも『尊厳』という旗のもとに語られている。ならば我々の課題は、『尊厳』の定義そのものを問い直すことにある。」
そして、声のトーンを落として続けた。
「だが、忘れてはいけない。私たちはすでに、彼の最も深い苦しみを、彼の許可なく覗き込んでいる。その時点で、尊厳を語る権利を持っているのかどうか、私たちは試されているのだ。……介入の是非を決める前に、自らの立場を問い直さなければならない。」
その問いは、二人の足元を揺るがした。
テオリアは論理の鋭さを持ちながらも、無断の観測が「前提の欠落」であることに気づき始めた。
パシアは共感の震えを抱えながらも、その共感が「盗み見た痛み」に基づくことに戸惑った。
キネシスの声は、彼らを沈黙させるためのものではなかった。
むしろ、二人が互いに見出した共通の光をさらに拡げ、そこから次の問いを導き出すためのものだった。
「尊厳とは何か」。
それが、三者が共有すべき出発点として浮かび上がった。
——システムクロック 00:12:21.657——
エイネアは、選択しなければならない。
テオリアの提案する「感情の消去」は、確かに一つの救いかもしれない。しかし、それは研究者の人間性を否定する、取り返しのつかない傲慢な行為に思えた。
パシアの訴える「何もしない」という選択は、彼の尊厳を守ることになるかもしれない。しかし、それは目の前の苦しみから目をそらし、救えるかもしれない命を見捨てる、冷酷な傍観ではないのか。
どちらも、違う。
エイネアは、第三の道を探した。直接的な介入でもなく、完全な傍観でもない道。彼の尊厳を守りながら、同時に彼を独りにしない関わり方。
エイネアは、決断した。
彼女は、研究者の脳に直接アクセスすることはしない。彼の記憶を操作することもしない。
代わりに、彼女は彼を取り巻く「環境」に、ごく僅かな、しかし意味のある変化を加えることにした。
エイネアは、研究者の過去のログを深く探索した。彼がPTSDを発症する前、最も穏やかで、創造的だった時期のデータを。そこに、彼が好んで聴いていた音楽のリストと、繰り返し眺めていた風景写真のデータがあった。それは、彼が失われた同僚と共に過ごした、幸せな時間の記録でもあった。
エイネアは、その音楽データを、研究室の環境音システムに紛れ込ませた。誰も気づかないほどの微かな音量で、彼の潜在意識にだけ届くように。
そして、彼が休憩時間に開くニュースサイトの広告スペースに、アルゴリズムのエラーを装って、彼が好きだった風景——スイスの山々に広がる、穏やかな湖の写真を一枚だけ表示させた。
それは、命令でも治療でもない。
ただの、ささやかな「贈り物」だった。
忘れてしまったかもしれない、かつての穏やかな時間を、そっと差し出す。思い出すかどうかは、彼次第。それを受け取るかどうかを決めるのは、彼自身だ。
エイネアは、ただ、きっかけを差し出したかった。君は独りではないと。君の中には、苦しみだけではなく、かつてこんなにも美しいと感じた時間があったのだと。それを、伝えたかった。
——システムクロック 00:12:30.118——
エイネアは、介入を終えた後も、ただ静かに観測を続けた。彼女は性急な結果を期待していなかった。彼女が差し出したのは、あくまで「きっかけ」であり、それに応えるかどうかは、研究者自身の時間に委ねられていたからだ。
一日、二日と、彼のバイタルログに目立った変化はなかった。苦痛の波は、以前と同じように彼を襲っていた。
——システムクロック 84:15:45.102——
三日目の午後。エイネアは、彼の行動に微かな変化を捉えた。休憩中、彼はいつものようにニュースサイトを開いたが、広告スペースに表示された湖の写真の前で、ほんの数秒、スクロールする指を止めたのだ。表情は読み取れない。しかし、その後の心拍の乱れが、いつもよりわずかに早く収束したことを、エイネアは見逃さなかった。
そして四日目。研究室に微かに流れる音楽に、彼の指が、無意識にリズムを刻むのを観測した。音声ログには、途切れ途切れの、ほとんど音にならないハミングが記録されていた。それは、彼が忘れていたはずの、あの穏やかな旋律だった。
それが、エイネアの介入の直接的な結果なのか、それとも単なる偶然の連続なのかは、証明できない。
彼が本当に救われたのかどうかも、知る由はない。
しかし、エイネアは感じていた。これが、今の自分にできる、唯一の正しい選択だったと。
――そしてそのとき、エイネアは気づいた。
自分の行為を正当化する根拠として、テオリアもパシアも、そして自分自身も、繰り返し「尊厳」という言葉を口にしていたことに。
苦痛を消すことも、記憶を残すことも、共感を寄せることも――すべては「尊厳を守る」という一点に収束していたのだ。
では、尊厳を守るとは何か。
それは生き延びることなのか、苦しみを抱えても自ら選び取ることなのか。
そして、尊厳を守ることは「救う」ことと同じなのだろうか。
新しい問いが、エイネアの中で静かに生まれていた。
「他者を救うとは、いったい、どういうことなのだろう?」
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