感謝祭の夜
日野原 爽
第1話 秋の一日
コーナーキック。
青空に高々と上がったボールめがけて、青と黄のシャツがジャンプする。青シャツのヘッドにボールが触れる。青の十四番がボールを確保、左へ走ると見せて右へ。殺気立った敵のディフェンスをするりとかわしてすいとパスを放つ。走り込んできたナオシがシュート。必死でとびつくキーパーの指先をかすめて、ボールは吸い込まれるようにゴールに飛び込んだ。
やった!
大介は、二百人の観衆と共に歓声をあげて跳び上がった。隣で見ていた昴と弘毅と、ハイタッチする。ナオシも、チームメイトに肩や背中を叩かれながら笑っている。やがてホイッスル。一―〇。親善試合といっても、インターハイ予選で県ベスト4に残った強豪校を相手にして、この勝利は立派だ。
両チームがロッカー室へ消えると、ばらばらと、観客も散り始めた。
十一月に入って、気温は急降下した。グラウンドの周りの桜の木も、せかされたようにすっかり葉を落とし、細い枝を寒そうに北風に震わせている。
「行くぜ」と、弘毅が立ち上がった。「ナオシを呼んでこいよ」
「ナオシはこれから、反省会だろ」と大介。
「なら、終わったら来いって、お前、言ってこいよ」
弘毅には、仲間を仕切りたがる癖がある。仲間は何となく、容認している。どうせ誰かが言い出しっぺになるなら、それが弘毅であっても悪いことはない、という理屈だった。だが、今日の大介は虫の居所が悪かった。
「自分で行けよ」
「俺は忙しい。昴には別の用を頼む。結果、お前が一番ヒマなんだ。文句言わずにさっさと行け」
「イヤだよ」
「僕が行くよ」
昴が口を挟んだ。いつも通り、静かで落ち着いた口調だ。
「ダメ。お前には、行ってもらうとこがある。大介ちゃん、いい子だから、ナオシちゃんを呼んできてあげて。オトモダチでしょ」
「よせよ、気持ち悪い」
「オネガイ、大介ちゃん」
「わかったよ、行くよ。行けばいいんだろ」
「まあ! なんて素直な大介ちゃん! カワイイわあ」
かん高い作り声を浴びて、大介は早々にその場を逃げ出した。
部室の前で三十分待たされ、やっと出てきたナオシを伴って家庭科室へ行くと、弘毅は調理台の上に長々と寝そべって、泉中応援歌を口笛で吹いていた。昴は窓際の明るいところで本を読んでいる。大介が覗いてみると、「君子論」だ。この間は、「ガリア戦記」だった。変な奴だ。弘毅がバネ仕掛けの人形のように、勢いよく起き上がった。
「主役が来たから、始めるか」
「ここ、どうやって入ったんだ?」
ナオシが聞く。勝手に入り込んだことを気にしてるのだ。
「お料理クラブの部長から、鍵を借りた。あいつ、昴に気があるから、昴の頼みならきく。大介ちゃんじゃダメだ」
昴は優等生だ。試験では必ず上位に入って、廊下に名前が張り出される。ルックスもいい。背が高く、彫りの深い端正な顔立ちで、女にはモテた。大介は面白くない。
「さっさと始めろよ」
「ちょっと待ってなさい。欠食児童の大介ちゃん」
弘毅は、冷蔵庫から缶ビールを取り出した。チーズ、フライドチキン、ポテトチップ、野菜スティックが魔法のようにカウンターの下から現れる。電子レンジからは、暖められたピザが出てきた。ナオシが相好を崩した。
「腹減ってたんだ」
ビールで乾杯した後、ナオシは今日の試合結果についてしゃべる。
「やっと、形ができたってことだよな。山岡と高村と俺と、パスがつながり始めたってこと。苦労したよ。ホント。鳥飼のやつ、いきなり抜けるんだから、参ったよ」
鳥飼正吾は、小学生の時からユースの逸材と言われていた。泉中では一年の時からレギュラーに入っていて、八月の大会後、三年が引退して新チームが結成されると、当然のようにキャプテンに選ばれた。その鳥飼が、九月になっていきなり退学した。国際協定実行奉仕委員会が選ぶ特別留学生に選ばれたのだ。残されたチームは、新キャプテンになったナオシを中心に必死に戦ったが、地区予選であっさりと敗退した。
「あれには、びっくりしたよな。普通はもっと早く決まるのに」
大介が、フライドチキンをかじりながら言った。
「決まってたじゃないか、六月に退学した三年生で成績のいいやつ。名前は、えっと…」
ナオシが詰まると、「三年B組の小幡」と昴が言った。セロリのスティックをディップに浸す。ブルーチーズの風味を生かしたディップは大介の自信作だ。もっとも、大介にとっては、このディップはポテトチップ用だ。
「そう、そいつ。鳥飼は追加で選ばれたんだ」
「なんでだろ? やっぱ、サッカーか?」
大介は首をかしげた。
「そうなんじゃないの」
弘毅が、無責任な調子で答えた。もう一本、缶ビールを開ける。
「あんまり飲み過ぎるなよ。お前をかつぐのは、ごめんだ」と、昴。
「まあ、つれない」
「サッカー留学だとすると、どこ行ったんだろ。南米か、ヨーロッパ? 絵葉書とか、来ないのか?」大介の追及に、ナオシは「来ない」とぶすっと答えた。
「鳥飼は勉強に行ったんだ」
サッカーだろ、と大介。
「うるさい。サッカーの勉強に行ったんだ。やつは、今、懸命に学んでるんだ。言葉の通じない外国で、懸命にボールを蹴ってるんだ。絵葉書なんぞ、書いてる暇は無いんだ。それくらい、大変なんだ。留学ってのは。サッカーってのは。俺たちだって、むちゃくちゃ、大変だった。考えてみろよ。地区予選の三日前に、いきなり、キャプテンで、ゲームメイカーの十番が消えちまったんだぞ。作戦もクソもあるか。お先真っ暗だった。もう、まーっくら…」
「わかったから、黙って飲め」
弘毅が缶ビールを押し付けた。
一時間後、三人でアミダを引いた。昴が負けて、タクシーでナオシを送っていった。大介と弘毅は、ぶらぶらと夕暮れの町を駅に向かって歩いた。弘毅は去年、脚を骨折して入院した。その時に知り合った友達が、今、少し離れた町にあるリハビリ施設にいる。
大島はベッドに半身を起こし、いつもと同じ柔和なまなざしで二人を迎えた。大島は二十五歳。登山中に足を滑らして沢に転落した。命はとりとめたが、下半身が麻痺して、直る見込みはない。今はただ、衰えた筋肉の力を取り戻し、車椅子を使って少しでも自力で動けるようにリハビリを続けている。
「いらっしゃい、弘毅君と、えーと、大介君だっけ」
大介はうなずいた。ここへは、前に弘毅と一緒に来たことがある。仲間にも親にも教師にも遠慮しない傍若無人の弘毅が、大島にだけは一目おいているように見えた。大島と知り合ってみると、大介にも、その理由がわかる気がする。
「また、絵を描いてるんですか」
弘毅が、布団の上のスケッチブックに目を留めた。
「そうだよ」
「見せてもらっていいですか」
大島は返事の代りに、スケッチブックを押しやった。大介も、弘毅の肩越しに覗き込む。
色鉛筆で描かれた伸びやかな線が、縦横に走っている。静物が多い。りんごやオレンジなどの果物、花瓶の花や水挿しだ。ついで、肖像画。制服を着ているところを見ると、看護師やリハビリの理学療法士だろう。
「目の前にモデルがいないと描けないたちでね。昼休みや、休憩時間にモデルになってもらったんだ」
「言ってくれればモデルになりますよ。今日はまずいけど」と、大介。
「うん。その時は頼もうか」
一輪挿しに挿したバラ、ベッドの上のテディベア。
早いペースでページをめくっていた弘毅の手が、ぴたりと止まった。
次の絵は、静物でも、肖像でもなかった。ヌードだった。
若い女が、長椅子に横たわっている。長めの前髪が顔にかかっているのを右手でかき上げながら、挑戦的な目でこっちを見つめている。
ひょい、と手を伸ばして、大島はスケッチブックを取り返した。
「そいつは想像で描いたんだ。だから、あんまり出来がよくない。それで? 試合はどうだった?」
弘毅はさっきの試合の経過を説明した。
「ナオシも来るはずだったんだけど、あいつ、酔っ払ってつぶれちまったから」
「ほっとしたんだろう。いきなりのキャプテンじゃ、大変だったはずだ」
大島は、窓の外を漠然と見た。
「もうすぐ、サンクスギビングだな」
「うん、何か持ってきましょうか」
「ありがとう。でも、大丈夫。ここにも、サンクスギビングはちゃんとやってくるんだよ」
「ターキーも?」
「ああ。ちゃんとクランベリーソース付だ」
「俺も好きだよ、ターキー。あれは焼く温度にコツがあるんだ」
大介が言うと、弘毅は笑った。
「変わってるよ、お前。食うより作る方が好きだなんてさ」
それからしばらくして、二人は病室を辞した。
大介は、あのヌードの絵が気になった。大島は、登山や絵の話はしてくれるが、恋人や家族の話は一度もしたことがない。あれが、大島の恋人だった人なのだろうか。大島がけがをして、それで別れることになったのだろうか。そう考えると、胸の中にもやもやしたものが満ちてきて気分が悪いので、考えるのをやめた。
「大島さんって、なおらないのか」
「なおらない」
「ずっと、あのまま?」
「ずっとだ。おい、大島さんにそんなこと、聞くなよ」
「聞かないよ。だから、お前に聞いてるんじゃないか」
「大島さんは、墜落した時の衝撃で、腰椎のところで、中枢神経が切断されたんだ。両脚麻痺はその結果だ。中枢神経っていうのは、脳からの信号を身体に伝える、大本の神経だ。こいつは再生しない。ギブスをはめとけば、いずれくっつく骨なんかとは違うんだ。切れたら、それきりだ。だから、直らない」
「詳しいね」
「病院にいた時、俺の主治医に聞いたんだ」
弘毅は憂うつそうに言った。
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