第20話 国家の犬
勾留期限満了の日。
「2574番。釈放だ」
看守が鉄格子の鍵を開けた。
私はゆっくりと立ち上がり、薄いせんべい布団を見下ろした。
――三週間。
ここでの生活は、思いのほか有意義だった。所持品を受け取り、重たい鉄の扉を抜ける。
無機質な廊下を歩き、裏口の通用門へ。
重厚な音がして、最後の扉が開いた。
――午前十時。
圧倒的な光量が、私の網膜を焼いた。
排気ガスとアスファルトの臭い。
遠くで響くクラクション。
「これで自由だ。あの家が待っている」
私が歩き出そうとした瞬間、背後から、漆黒の高級セダンが音もなく滑り込んできた。
警察車両ではない。官公庁の公用車だ。
後部座席のドアが開き、一人の男が降りてきた。
仕立ての良いダークスーツ。隙のないオールバックの髪。
四十代だろうか。
眼光は、冷徹な支配者の色をしていた。
「釈放おめでとう。一国司君だね?」
男が落ち着いた声で言った。
「誰だ?」
「警察庁警備局、公安課の
真島の次は堂島。この星は、日本列島に生まれただけで、国土全域を名乗りたがる。
「公安警察が何の用だ。国家の転覆を防ぐためなら、法をも無視して動くと言われる組織だろう? 私には、身に覚えがない。動物解放については、書類送検も見送られたところだ」
「知ってるさ。折り入って、君に提案がある」
堂島は懐からタブレットを取り出し、私に向けた。
面会室の映像だ。
私が真島弁護士の額に手を
「……盗撮か。趣味が悪いな」
「必要な記録だよ。誤解しないでくれ。でね、君の能力は極めて危険だ。本来なら、一生監視対象としてマークするか、何らかの理由をつけて別件逮捕し、社会から隔離すべき劇薬なんだ」
「だから、どうした? また、逮捕するのか。留置場の暮らしは、私にとってさほど苦ではないが」
堂島がタブレットを消し、私を真っ直ぐに見据えた。
「そんなんじゃない。我々の上層部が、君の催眠能力と異常な論理的思考を高く評価した」
「頼んだ覚えはないが」
「そう邪険にするな。我が国には今、法では裁けない悪が
堂島が一歩、私に近づいた。
「結論から先に話せ。私は腹が減っている」
「単刀直入に言おう。我々の
意味が分からない。留置場から解放されて、公安の犬になれと。
「断る」
「そう言うと思った。我々は君の経歴を洗浄し、衣食住、なにより相応の権限を与える。その代わり、我々が指定する『処理困難な案件』を解決しろ。君のような怪物にしかできないやり方でな」
なるほど。
要するに、非公式な掃除屋を命じたいわけだ。
「それでも、断ると言ったら?」
「君は一生、公安の監視下だ。就職もできない。銀行口座も作れない。政治家になる夢も、当然、
強引だが、脅しではない。事実としての通告だ。
私は、数秒間沈黙し、鼻で笑った。
「何がおかしい」
「いや、実に合理的だな。ちょうど、総理大臣になるための足場を探していたところだ」
堂島が口角を上げながら、片手を突き出す。
私は堂島の手を握り返した。
「賢明な判断だ」
「ただし、勘違いするな」
私は握った手に力を込めた。
このまま粉々に砕くことだって、造作もない。
「私が国家の犬になるのではない。私が、国家の飼い主になるんだ」
堂島の眉が少しはねた。
だが、堂島はすぐにポーカーフェイスに戻り、車のドアを開けた。
「……乗れ。職場へ案内する」
私はセダンの後部座席に乗り込んだ。
快適すぎるシート。冷房の効いた車内。
車が動き出す。
行き先は、霞が関。日本の権力の中枢だ。
私は窓の外を流れる東京の街並みを眺めた。
留置場を出て、次は、国家の闇組織。
悪くない。
この国のシステムのど真ん中に潜り込み、内側から食い破るには、最高のポジションだ。
「それで? 最初の案件は何だ?」
運転中の堂島が無言でタブレットを操作し、新しいファイルを表示させた。
映し出されたのは、都心にある清潔なオフィスの外観だ。
後部座席にタブレットが放り投げられる。
『NPO法人・救済の
「ホームレス支援か何かか?」
「表向きはな。多重債務者、家出少女、身寄りのない老人……いわゆる、社会的弱者を保護し、自立支援を行う慈善団体だ」
「結構なことじゃないか」
「だが、この団体の保護を受けた人間は、高い確率で蒸発する」
堂島が冷淡に告げた。
「なぜだ」
「日本には年間、約八万人の行方不明者がいる。そのうちの数千人が、この団体の門をくぐり、戸籍を抹消され、物理的には生きているが法的には死んだ存在――産業廃棄物として処理されている」
「理解できなくもない」
「公安の人間になるんだ。不用意な発言は、私と二人切りの時だけにしてくれ。行方不明者は在庫として管理され、必要に応じて切り売りされると噂されている」
「在庫か。人間も所詮、臓器の塊だ。法整備が追いついていないだけで、売買しようが問題ないと思うが」
「君が総理になったら、世界は変わるかもな。現在は、その考えは御法度だ。だが、NPOの実態は全く掴めていない。富裕層のための臓器ドナー、未認可新薬の
画面をタップした。
「なるほどな」
画面には、目元に黒い線の引かれた集団が映っている。救済の灯の幹部らしい。
脳内で線の透過率を上げ、全員の顔を記憶した。
「組織の周辺を徹底的に捜索したが、死体も出ない。つまり、NPOの手によって、行方不明者が社会から完全に抹消される温床になっていると、我々は考えている」
「救済の灯が、人間の焼却炉というわけか」
私は、画面の中に映るNPO代表の優しげな笑顔を見た。
「警察は動けない。顧客名簿に、与野党の大物政治家や官僚の名前がズラリと並んでいるからな。下手に突つけば、永田町がひっくり返る」
「だから、私か?」
「そうだ。毒には毒を。この組織を解体しろ。手段は問わない」
人間を資源として扱い、消費し、焼却するシステム。
あまりに非倫理的で、それでいて美しいほど合理的だ。
私の最初の仕事にふさわしい、極上の
「まずは組織の体内に侵入しよう」
私は、窓の外を流れる東京の街並みを見下ろした。
無数の人間が歩いている。
あの中の何人が、明日にはゴミとして焼却炉に放り込まれるのかもしれない。
「心強いよ」
車は首都高に乗り、灰色の東京を駆け抜けていく。
窓に映る私の顔は、すでに政治家のものでも、学生のものでもなかった。
私が、国家の飼主。
悪くない。
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