第3章 肉の坩堝(るつぼ)

第14話 あるべき場所へ

 飼育員専用エリアの中は、表の華やかさとは無縁のコンクリートと鉄格子だけの冷たい空間だった。


 生臭い血の匂いと、消毒液の臭気。


 通路の奥で、男が一人、バケツに入った肉塊を切り分けていた。


 さっきの飼育員だ。


「……あ? 誰だ、あんた」


 男が作業の手を止め、怪訝けげんな顔でこちらを向いた。腰には鍵束がジャラジャラとぶら下がっている。


「ここは関係者以外、立ち入り禁――」


 男が言い終わるより早く、私は間合いを詰めた。


 〇・二秒。


 男が私を侵入者と認識し、脳が警戒信号を発するまでの隙間。


 私は男の首筋――耳の後ろにある迷走神経そうへ、人差し指の先を軽く押し当てた。


 打撃ではない。


 脳への血流と電気信号を司る、人体の急所スイッチを正確に押すだけだ。


 必要な圧力は数グラム。


 指先が男の皮膚の感触を捉えた瞬間、男の意識が途絶えた。

 白目を剥き、糸が切れた人形のように崩れ落ちる。


 私は倒れる寸前の男を、片手で支えた。


「……脆い。この程度の電気信号阻害でフリーズするとは」


 私は男を引きずり、目の前に空いている檻の中へと放り込んだ。


 外から鍵をかける。


「立場が変われば、お前もただの飼育される側だ。再起動した時、世界は変わっている」


 私は踵を返し、奥の猛獣エリアへと歩を進めた。


 異物の侵入に気づき、檻の中の猛獣たちが低い唸り声を上げる。


 ライオンにジャガー。


 目を見れば分かる。私を警戒している。


「騒ぐな。安心して欲しい。私は飼育員ではない」


 視線で制して、淡々と歩を進める。


 目的は――全ての檻の開放だ。


 しばらく歩くと、スマトラトラの個室にたどり着いた。


 頑丈な油圧式のロック機構。


 人間が知恵を絞って作った、猛獣を閉じ込めるための封印。


 だが、構造を知れば解除は容易たやすい。制御盤に手を当て、電子回路に干渉する。


 信号を書き換える。


 『閉鎖(CLOSE)』を『開放(OPEN)』へ。


 空気が抜けるような音と共に、重い鉄扉がスライドした。


 トラが身を低くし、喉を鳴らす。


 目の前に、遮るものがなくなったことに戸惑っているようだ。長年の飼育生活で、野生の勘が鈍っているのだろうか。


「行け」


 私は、出口を指差した。


「そこから先は、ジャングルではない。コンクリートの森だ。だが、少なくともここよりは広いし、食糧となる肉も歩いている」


 命令はしない。

 襲えとも、逃げろとも言わない。

 ただ、選択肢を与えるだけだ。


 それが、長年囚われてきた生命への畏敬の念。


「何を迷っている? お前たちは、私だ。狭い箱の中で、餌を待つだけの生活に飽きていただろう」


 トラがゆっくりと檻から歩み出た。鼻をひくつかせ、風の匂いを嗅ぐ。


 通路の奥――光の方へ、音もなく走り出した。


「……サンプル①、解放」


 私は静かに呟き、次の檻へ向かった。


 ライオン。

 ゴリラ。

 ヒグマ。


 次々とロックを解除していく。これはテロリズムではない。是正措置だ。


 命は、拡散し、拡大する性質を持つ。それを物理的に遮断することは、エントロピーの法則に反する。


 私はただ、詰まっていた栓を抜いただけのこと。


 檻の外に出た彼らが、人間と共存するか、あるいは捕食するか。


 それは私が関知することではない。


 強き者が生き、弱き者が死ぬ。ただ、それだけの、あるべき世界に戻るだけだ。


          ◇


 数分後。

 園内に、最初の悲鳴が上がった。


 私はバックヤードを出て、人混みの中に紛れ込んだ。


 坂本も放心している。


 何を騒いでいるのか分からないが、いわゆるパニック状態に陥っているように見えた。


 将棋倒しになる人間。

 ベビーカーを捨てて逃げる親。


 先ほどまで、可愛いねと笑っていた顔が、恐怖で歪み、よだれと涙で汚れている。


 私は、売店に入った。黒い液体の炭酸水を買おうとレジカウンターに置いたが、店員が慌てて去っていった。


 仕方なく、肖像画の描かれた紙幣を一枚、置いた。


 視界の隅で、虎が男の喉笛に喰らいついた。


 鮮血が噴き出す。

 別に残酷だとは思わない。


 人間は、牛や豚を殺して食う。

 虎は、人間を殺して食う。


 そこにあるのは『食物連鎖』というシンプルなルールだけだ。


 檻という安全地帯が消えれば、人間もまた、ただの蛋白質たんぱくしつに過ぎない。


「司さん! どこに行ってたんですか。大変です、猛獣の脱走事故が発生しました。今すぐ、逃げましょう……!」


 売店を覗き込む、坂本の間抜けな声が聞こえた。


「逃げたいなら、勝手に逃げればいい。私はもう少し見学していく」


 売店から出る。


 喧騒の中で、黒い炭酸水を飲み干した。


 喉を焼く刺激と共に、眼下で繰り広げられる実験結果を観察する。


 東園の通路。

 スマトラトラが、逃げ遅れた家族連れの背後に忍び寄っていた。


 咆哮ほうこうなど上げない。彼らは本来、密林の暗殺者だ。


 音もなく肉球でコンクリートを捉え、家族の中の一人が転倒した瞬間――頭部に食らいついた。


 骨が砕ける乾いた音。

 鮮血がアスファルトに撒き散らされる。


 周囲の人間は、死の静寂と生命流出の速さに腰を抜かし、動くことすらできていない。


 獲物を見定め、急所を一点突破する。

 美しいまでの捕食行動だ。


 西園の方角からは、重低音の破壊音が響いている。


 シルバーバックが、興奮してドラミングを行い、展示用のキッチンカーを軽自動車のようにひっくり返した。


 ガラスが砕け、熱湯と油が飛び散る。

 ゴリラは人を食わない。


 だが、その圧倒的な筋力による威嚇行動だけで、脆弱な人間たちは将棋倒しになり、互いの体重で肋骨をへし折り合っていた。


 単なる力の差が、そのまま絶望の差となっている。


 極め付けは――。


 混乱を平定しようと叫ぶ警備員の身体を、ホッキョクグマの剛腕が薙ぎ払った。


 地上最強の肉食獣。


 愛らしい白い毛並みは、返り血で瞬く間に赤く染まっていく。


 彼らにとって、動くものはすべて餌であり、遊具だ。


 時速四十キロで走る白い絶望が、逃げ惑う親子連れを、ボウリングのピンのように弾き飛ばした。


 阿鼻叫喚。

 糞尿と血の混じった臭気。


 炭酸水のゲップを、一つ吐き出した。


「……これが自由だ」


 檻という安全地帯セーフティが消えれば、人間もまた、ただの動きの遅いタンパク質の袋に過ぎない。


 何者かが次々と園内に雪崩れ込んで来る。


 乾いた破裂音が、悲鳴を切り裂いた。

 続けて、二発、三発。


 見れば、重装備に身を包んだ特殊部隊SATとおぼしき集団が、盾を構えて前進していた。


 手には、麻酔銃ではない。実弾が装填された自動小銃が握られている。


「……なるほどな。排除か。極めて野蛮な思想だ」


 乾いた破裂音。


 先ほど男の喉を食い破ったトラが、横腹から血を吹いて崩れ落ちた。


 痙攣し、動かなくなる。


 あっけない幕切れだ。

 野生の王も、組織化された国家の暴力の前には無力だ。


「お前ら、確保だ!」


 隊長の怒号が飛ぶ。


 園内は動物園から戦場へと変貌していた。


 これ以上の長居は無用だ。


 私はペットボトルをゴミ箱に捨て、避難誘導される群衆の流れに紛れた。


 出口のゲート付近は、封鎖線を張った警官隊で埋め尽くされている。


 一人一人、顔を確認しながら外へ出しているようだ。


 目撃情報の収集と、万が一の動物の脱走を防ぐためだろう。


 私は、極力気配を消してゲートを通過しようとした。


「次の方、どうぞ。怪我はありませんか?」


 若い警官が誘導灯を振る。


 通過できる――そう思った。

 その時だ。


「あいつです!!」


 鼓膜をつんざくような女性の叫び声が響いた。


 警官たちの動きが止まる。

 封鎖線の脇にある救護テント。


 そこで震えていた母親が、私を指差して絶叫していた。


 その腕には、怯えきった子供が抱かれている。


「あいつが! あいつがさっき、勝手に『関係者以外立入禁止』の扉に入っていくのを、この子が見たんです!」


「だから、どうした?」


 吐き捨てた私に向かって、警官たちの視線が一斉に突き刺さる。


 殺気か。


「おい、君。止まれ」


 数人の警官が、警棒に手をかけながら距離を詰めてきた。


 背後からは、まだ銃声と獣の断末魔が聞こえている。


 この極限状態で不審者として指名される意味。それは、敵性存在としての認定と同義だ。


「子供に見られていたか」


 監視カメラでも、AI認証でもない。私を見ていたのは、あの純粋な視線だ。


 強い力で両腕を掴まれ、その場に押さえつけられた。


 抵抗なら簡単だが、野生の王たちを流して何の罪に問うつもりなのか興味があった。


「建造物侵入、および威力業務妨害の現行犯で確保する」


 ――カチャリ。


 私の手首に、冷たい金属がまとわりついた。

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