第4話 死肉の契約

 故人が残した札束を、笑みを浮かべながら盗む。


 つまり、生きた人間は死体よりも腐っている。


 私は、興奮しながら作業を続ける神山と柳田の醜悪な光景を、冷めた目で見つめていた。


 盗んだ金を盗む。これは法治国家を謳うこの星において、正義だろうか。


 いや、そんなことよりも、あの金があれば、衣食住の確保はもちろん、より高度な社会的地位へのアクセス権が得られる。


 この下等な群れの中で、私が捕食されずに生き延びるための、最強の防具になり得る。


 私は、黙々と清掃する神山の背後に音もなく近づいた。


「あんたの背中にウジが」


「あぁ? マジかよ、気持ち悪りぃな」


 神山が足を止め、体をよじった。


 その一瞬の隙。


 私は視覚野の処理速度クロックを上げた。


 世界が泥のように停滞する。


 神山の着ている作業着の綿繊維の編み目が、荒い網のように拡大されて見えた。


 ――計算開始。


 布の張力、歩行による振動、風向き――全ての変数を演算。


 私の右手が、神山の死角を滑る。


 指先の指紋すら平滑化させ、繊維の隙間をすり抜けるように封筒を引き抜いた。


 所要時間、〇・二秒。


 神山の末梢神経が『接触』の信号を脳へ送るよりも速く、私の作業着の内側に厚みのある封筒が移動した。


「取れた。もう大丈夫だ」


「おう、サンキューな新人。気が利くじゃねぇか」


 神山が何も気づかず、上機嫌で清掃を再開した。


 高度な知性。

 超常的な身体能力。

 それらを駆使して行ったのが、下等生物からの『掏摸スリ』とは。


 虚しさを覚える。


「おら、星野だっけ? お前もさっさと手を動かす」


 柳田から、尻に蹴りを入れられた。


 その後の作業は、驚くほど単調な物理運動だった。


 私は、特殊清掃という業務に対して、異常なほどの適性を示してやった。


 腐敗した肉をビニールに詰め、ウジの湧いた畳をバールで剥がし、強力な薬剤で床を洗浄する。


 柳田が吐き気を理由に休憩を挟む間に、私は部屋の八割を処理し終えた。


 作業を終えた神山が、汗をかいた作業着を柳田に向かって放り投げた。


「丁寧に畳んどけ。丁寧にな」


「へいへい、分かってますって。それにしても、臭いが取れないから嫌っすよねぇ。残りは新人の仕事ってことで」


 死臭、汚物。


 そんなものは関係ない。私の目には、それらが単なる原子の配列にしか見えなかった。


 有機物が分解され、土に還ろうとするエントロピーの増大。それを逆行させ、整頓する。


 パズルを組み立てるような虚無感と爽快感があった。


「すげぇな、星野って。お前、ロボットかよ」


 柳田が感心したように吐き捨てた。


 ――ロボット。


 人間が作った、感情を持たない労働機械。


 あながち間違いではない。今の私は、この社会における優秀な部品パーツだ。


          ◇


 日が暮れる頃、私たちは事務所に戻っていた。


 地下の空気は相変わらずよどんでいる。


「お疲れさん。おらよ、日当だ」


 神山が、万札を一枚ずつ私と柳田に渡した。


 私はそれを受け取り、作業着の内ポケットにねじ込んだ。


 その奥には、現場で神山から抜き取った分厚い封筒が眠っている。


 皮膚一枚、隔てた場所にある罪の証拠。だが、私の心拍数はまるで変わらない。あるのは、効率的にリソースを確保できたという、冷たい満足感だけだ。


「さて、俺は飲みに行くか……」


 神山が柳田から作業着を受け取り、上機嫌で広げ始めた。


 その時だった。不意に、神山の手が止まった。


 広げた作業着のポケットを、裏返し、叩き、床に広げる。


 爬虫類の目が、点のように収縮していく。


「……ねぇぞ」


 低い、地を這うような声。


 事務所の空気が凍りついた。


 柳田が不思議そうに首を傾げる。


「どうしました? 社長」


「ねぇんだよ! さっきの現場の金が!」


 神山が吠えた。


 血走った目が、室内を巡回し――そして、柳田に固定された。


「テメェか。柳田」


「ちょっと、何言ってるんすか。社長がポケットに入れたの、俺、見てましたよ」


「あぁ、入れたさ。だが、今はねぇんだよ! てめぇ、休憩中に何してた」


「何もしてませんって!」


 単純な推理だ。そして、間違っている。


 だが、神山の脳内では『新人の星野よりも、金に汚い古株の柳田』というバイアスが働いているらしい。


 あるいは、私が整形と演技で作り上げた虚無の顔が、容疑者リストから外させたか。


「違いますよ! 俺、触ってねぇっすよ! もしかして現場に落としたんじゃ……」


「てめぇが作業着を畳んで待ってたんだろうが! 嘘つくんじゃねぇぞ、コラ」


 ――ゴッ。


 鈍い音が響いた。


 神山が、机の上に置いてあった重厚なガラスの灰皿を掴み、柳田の側頭部を殴りつけた。


 私は観察を続ける。

 同種の争いは、やはり醜い。


「社長……やめ」


 柳田がよろめく。


 だが、神山の怒りは収まらない。金の喪失というストレスが、理性を焼き切っていた。


「返せよ、オラ! 俺の金だろ」


 二発、三発。


 灰皿の角が、柳田の頭蓋骨を砕く音。


 柳田は、糸が切れた人形のように崩れ落ちた。


 床に広がる赤黒い液体。

 痙攣する手足。


 そして、先ほどまで嗅いでいたような、失禁の臭い。


 数秒の静寂が訪れた。


 神山が肩で息をしている。

 手にした灰皿から、血が滴り落ちた。


「死骸になったようだ」


 私の一言で、神山が我に返った。


 足元の柳田を見下ろし、恐怖で目を見開いた。


「おい……柳田。冗談だろ……?」


 動かない。

 呼吸も停止している。


 即死だ。人間という生物は、なんと脆いのか。


 神山が震える顔を上げた。

 その視線の先には、私が立っている。


 一部始終を、瞬きもせずに観察していた目撃者として。


「おい、てめぇ。見たな……」


「それが何か?」


 神山が灰皿を握り直した。


 ――殺意。


 恐怖からくる、口封じのための殺意か。安っぽい動機で、こうも喜怒哀楽が傾くようでは、種として危うい。


 神山が私に向かって一歩踏み出した。


 普通なら、ここで悲鳴を上げて逃げ出すか、命乞いをする場面だ。


 だが、私は溜息をつきたくなった。


 非効率だ。


 ここで私を殺せば、死体は二つになる。運搬も処分も手間が増えるだけだ。


 私は、内ポケットの中の封筒の重みを感じながら、静かに口を開いた。


「社長」


 あまりにも平坦な声に、自分でも驚く。感情を操るのは難しい。


「ここも、になったようですね」


「……何を言ってやがる?」


 神山の足が、虚をつかれたように止まった。


 私は、床に転がる柳田の死体を指差した。


「特殊清掃の新規依頼と考えていいのか? さすがに、追加料金は貰いたい」


 神山は口を半開きにして、私と死体を交互に見た。


 意味が理解できないのだろう。


 目の前の男が、殺人の目撃者ではなく、ただの業者として振る舞っていることが。私には至極、当然の発言なのだが。


「お前……警察に垂れ込まねぇのか?」


「通報? くだらない。そんなことをしたら、私の稼ぎが減るだけだ」


 金が必要だ。何より、神山は、まだ利用価値がある。


「本当にやれんのか?」


 論より証拠だ。


 私は近くにあったブルーシートを広げ、手際よく柳田の死体を包み込み始めた。


 さっきのアパートでやった作業と同じ。すでに完璧に頭に叩き込んである。


 対象が腐った老人から新鮮な同僚に変わっただけのこと。


「手伝え。血が床に染み込む前のほうが、搬出が楽だろう?」


 神山は灰皿を取り落とし、へたり込んだ。


 その目には、私に対する明確な畏怖が浮かんでいた。


 神山は気づいたのだ。


 自分が殺した柳田よりも、目の前で淡々と死体を梱包しているこの新人の方が、よほど、化物であることに。


 構わない。

 化物同士、仲良くやろうじゃないか。


 私は虚空の目で、へたり込む神山に青いビニールの端を放り投げた。

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