受肉(じゅにく)

冬海 凛

第1章 肉の揺籃(ようらん)

第1話 肉の牢獄

 重力の鎖が、私の意識を奈落の底へと引きずり下ろしていた。


 抵抗するように、まぶたを持ち上げる。


 ――目覚めた瞬間。


 最初に感じたのは強烈な狭さだ。精神も思考も、窮屈な箱に押し込められている。


 これが肉か。


 肉体という名のおり


 私はベッドから起き上がり、部屋にあった大きな鏡を見た。


 不格好な突起物である手足。薄弱な境界線を形成する皮膚。何より、内臓が蠕動ぜんどうする不快で無駄な機能。


 私は、まさに肉の塊になっていた。


 ふと、視界の隅に違和感を覚えた。 両手が赤黒く濡れている。


 指先から手首にかけて、粘度のある液体が、べっとりと張り付いていた。鼻を近づける。酸化した鉄の臭気だ。


 ――血か。


 改めて、全身を眺めた。


 文献で見た『人間』という、この星で最も非効率で傲慢な炭素生命体。


 それが今、私のうつわらしい。


 どうして、こんな状況に陥ったのか思い出せない。だが、記憶の欠落は問題ではない。


 問題なのは、この肉体が発する絶え間ない警告だ。空腹、渇き、眠気。

 排泄の予感に、湧き上がる性欲。


 維持コストが掛かりすぎる。


 私は肉体を呪いながら、部屋の中を徘徊はいかいした。自分が何者なのか、どんな目的でこの星に来たのか。


 手掛かりは何もない。


 だが、知識だけは残っている。この星に降下する直前、人間の生態系データベースは脳裏に焼き付けてきた。


 意識の深層で無機質な警告ログが展開される。


【警告:汚染レベル・最大。有機素体へのダイヴは、記憶領域の不可逆的な欠損を招く】


 つまり、記憶喪失か。些末さまつなことだ。きっと時間が解決してくれる。


 私は、何もない殺風景な部屋の窓を開けた。


 ――夜だ。


 朝昼夜と区切られている、この星の曖昧な概念。一分、一時間、一日、一年。やたらと人間は区切ることに安心を覚えるらしい。


 生命としての寿命は一つなのに、意味がわからない。


 窓の外から、風が吹き込んだ。極彩色の光が、網膜を無遠慮にく。


 ネオン、喧騒、ビルの樹海。


 太陽が去った後も、無駄に活動を続けている。休むことを知らぬのか、あるいは静寂に耐えられないのか。


 早く安息が欲しい。


 今の状況を整理し、この下等な肉体の生理現象を鎮めるための清潔なシェルターが必要だ。


 私は部屋を出た。そこは血の海だった。


 白衣を着た人間が、無数に、床に転がっている。同族同士で争ったのだろうか。


 頭蓋の著しい破損、眼球の消失、切断された舌と耳。


 憎しみや恨みなどという、非効率な感情に任せて命を奪う。何と、野蛮な生物なのだろう。


 思わず、喉の奥から乾いた声が漏れた。恐怖ではない。同族殺しという生理的な嫌悪だ。


 あまりの吐気に、口元を覆った。こんな下等な生物に、私の魂がパッケージングされている事実に、眩暈めまいがした。


 建物を出て空を見上げると、『六道りくどうクリニック』の看板があった。


 それにしても暑い。


 四季でいう夏だ。ここでもまた、人間は季節を区切る。


 臭気に誘われるように路地裏に回った。雑居ビルに埋もれるように、奇妙な建物を見つけた。


『HOTEL NIRVANA(ホテル・ニルヴァーナ)』


 人間は看板が好きらしい。レッテルを貼り、社会を区分する。無意味な行為だ。


 ホテルを見上げる。


 城のような尖塔。派手なピンク色のネオン。


 入り口の看板には『休憩:6800円』とある。


 人間社会にも、休息を専門とする施設があるらしい。


 私は迷わず、自動ドアをくぐった。


 誰も居ない。


 支配者の不在とは不用心だ。タッチパネルで部屋を選ぶシステムらしいが、全てのライトが消えていた。


 効率的だ。人間にしては、無駄なコミュニケーションを省いた合理的な設計に思えた。仕方なく、エレベーターに乗る。


 三〇五号室。


 特段、この号室を選ぶことに意味はない。


 ドアノブの横には、旧式な電子ロックのパネルが埋め込まれていた。赤いランプが点灯しているのは、内部に先客がいる証拠だ。


 だが、関係ない。この肉体には休息が必要だ。


 私は右手をパネルにかざした。指先から微弱な生体電流を放出し、内部の磁気配列に干渉する。


 構造は単純だった。0と1の羅列。原始的なセキュリティに過ぎない。


 私は『施錠(1)』の信号を『解錠(0)』へと反転させた。


 ――カチリ。


 無機質な金属音が鳴り、ランプが緑に変わった。


 ドアを静かに開けた。


「――あんッ、ぁあ……!」


 解き放たれた扉の向こうから、熱気と、強烈な悪臭が吹き出した。


 獣の臭いだ。


 薄暗い部屋の中央、巨大なベッドの上で、二つの肉塊が複雑に絡み合っている。


 雄と雌。


 データベースによると種の繁栄に二種の個体が必要らしい。


 衣服という皮膚を剥ぎ取り、互いの粘膜を激しく擦り合わせている最中だった。


 この発汗量と呼吸数、充満するフェロモンの濃度。これは生殖行動だ。


 だが、理解に苦しむ。


 なぜ、これほど非効率な動きを繰り返す。単に遺伝子情報を交換するだけなら、体液を自分の意思で放出できるように進化すれば良いだけのこと。


 まるで、摩擦熱で互いの肉を溶かそうとしているようにすら見える。


 私は溜め息と共に、口を開いた。


「退去を命じる」


 自分の低い声に、少し驚いた。これが声帯を震わせて行う人間特有のコミュニケーションか。


「おい……誰だ、お前!」


 雄が、私に気づいて声を張り上げた。目は充血し、呼吸は荒い。


「嘘、なにコイツ。しかも、全裸だし。この変態!」


 雌はシーツを胸まで引き寄せ、嫌悪を露わにしている。


 ――変態。


『形態を変えること』を指す生物学用語だ。私が人間に擬態している事実に、瞬時に気付いたのだろうか。


 だとしたら、この雌の知性はあなどれない。


「言語が理解できなかったか? もう一度、言う。ここを退去してくれ。このシェルターは私が使用する。君たちのその非生産的な摩擦運動は、他所でやってくれ」


「はぁ!? 何言ってんだコイツ。警察、呼ぶぞ、コラ」


「国家権力による治安維持機構か。彼らが到着するまでには平均で七分。それまでに、君たちが退去しないなら次のフェイズに移る他ないが」


 私は一歩、部屋に踏み入った。


「やんのか、てめぇ!」


 雌が雄の手を慌てて掴む。


「やばいよ、アイツの手! 血だよ、血! よく見ると、口の周りにも薄らと」


 雄がひるんだ。


 両手を眺めた。血液の付着。口の周りの汚れは、吐き気を催した際の痕跡か


 だが、何がそんなに恐怖なのだろうか。

 警告色だろうか。


「赤や黒が、嫌いなのか?」


「コイツ、おかしいよ。もう、行こ。殺されたくない……」


 彼らが慌てて床に散らばった衣服を拾い集めた。


「雄の衣服は置いていけ。私の皮膚にする。それと、外部との通信手段も。なお、解約した時点で、次の通信手段を受け取りにもう一度、会いに行くから、了承されたし」


「なんで俺がてめぇのスマホ代まで……」


「ねぇ! ねぇってば。コイツ、やばいよ。勃起してる。犯される前に、逃げなきゃ」


 雄が苛立った様子で舌打ちをして、服とスマートフォンを投げ捨てた。代わりにガウンを羽織り、雌と逃げるように部屋を出ていった。


 ドアが閉まる。


 ようやく、静寂が訪れた。


 私はベッドに横たわり、大きく息を吐き出した。天井を見上げながら、これで安息を得られると思ったが、そんな予感も一瞬で消え失せた。


 彼らがいた痕跡が、あまりにもおぞましい。


 枕元に放置された、半透明のゴム製の袋。先端には、白濁した液体が溜まっている。


 次世代の生命情報の設計図を含んだ、高密度なタンパク質。なぜ、こんな薄いゴムの中に?


 種の保存を理解できないほど低脳なのか。


 生命の種と小さなゴミ袋。どう考えても、不整合だ。


 首をひねる。ヘッドボードに透明な粘液が入ったボトルが転がっている。


 手にとって、成分表示を見た。


『潤滑ゼリー』


 わざわざ摩擦を減らしながら、激しく摩擦を繰り返していたのか。


 ここにも、矛盾。


 吐き気がする。


 アクセルとブレーキを同時に踏むような、狂気の沙汰だ。


 私はそれらをゴミ箱に投げ捨て、シーツを剥ぎ取った。


 下等だ。

 あまりにも、下等すぎる。


 立ち上がり、雄が残したジーンズとスウェットを手に取った。


 洗面室に向かい、鏡と正対する。


 その瞬間、私は凍りついた。


 あんなに不快だったはずなのに、股間の突起物が、熱を持って膨張していた。


 ――機能不全バグか。


 いや、違う。


 この肉体は、さっきの摩擦運動を見て、勝手に反応しているのだ。


 私の意志とは無関係に。


 脳が拒絶しても、肉体は交尾を渇望していた。


 股間の突起物を引きちぎろうと思ったが、吐気に勝てず、胃の中身を吐き出した。


 空っぽの胃から、喉を焼き、顔を溶かすほどの強烈な酸が、止めどなく溢れ出していた。

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