八話目 傷ついた熊、響きの聖域

 旅の終わりを告げる朝が、静かに訪れた。

 

 僕は荷造りを終えた後、どうしてももう一度だけ、あの森の響きに触れたくて、出発までのわずかな時間、再び森の入り口へと足を向けた。昨日、あれほどの体験をした後だ。この身体が、この魂が、別れを惜しむように、あの場所を求めていた。感謝を伝えたかったのかもしれない。この星が奏でる、ありのままの交響曲に対して。そして、僕自身の内なる響きと、初めて本当の意味で向き合わせてくれた、この場所に対して。

 

 鳥居をくぐり、再び聖域へと足を踏み入れる。昨日と同じ、肌を撫でる空気の質感の変化。しかし、今日はそこに、昨日とは違う親密さのようなものが感じられた。まるで、一度心を通わせた相手と再会する時のような、心地よい緊張感と安らぎ。この森の全てが、僕を覚えていてくれている。そんな、あまりにも詩的な感傷が、僕の胸を静かに満たした。

 

 昨日、滝へと向かった道とは違う、細い脇道へと誘われるように歩を進める。どこへ向かうというあてもない。ただ、この身体が感じる響きの、最も心地よい方角へ。それは、太陽の光が木々の天蓋を抜け、地面に美しい光の斑点を描いている、小さな開けた場所だった。中央には、苔むした巨大な岩が、まるで森の主のように鎮座している。僕はその岩にそっと腰を下ろし、目を閉じた。まるで、全身の皮膚が呼吸をするかのように。僕という個体の輪郭が、ゆっくりと森の響きの中に溶け出していく。

 

 風が木々を揺らす、寄せては返す波のような響き。地中深くを流れる水脈の、途切れることのない脈動。そして、無数の生命が、それぞれの場所で呼吸し、営みを続ける微細な振動の集合体。それら全てが完璧な調和を保ち、僕の身体を通り抜けていく。昨日、僕が書き留めた言葉――。



 『森は、一つの巨大な心臓だった』



 その言葉が、今、現実の感覚となって僕の全身を包み込んでいた。これだ。僕が求めていた響きは、これだったのだ。

 

 その、完璧な調和の世界に、突如として、異質な響きが割り込んできたのは、まさにその時だった。

 

 それは、不協和音、という言葉が生ぬるく感じるほどの、あまりにも暴力的で、不規則で、そして苦痛に満ちた響きだった。地面が、小刻みに、そして力強く震える。調和していた森の音楽が、悲鳴を上げて乱反射する。僕の肌が、その危険信号を捉え、粟立った。穏やかな水面に、巨大な石が投げ込まれたかのような、激しい波紋。それは間違いなく、純粋な「怒り」と「苦痛」の波動だった。

 

 僕は咄嗟にその響きがする方に目を開けた。そして、息を呑んだ。

 

 僕が座っている岩からそう遠くない、木々の向こうから、一頭の巨大な熊が姿を現したのだ。黒く、艶のある毛並み。隆起した肩の筋肉は、その内に秘めた圧倒的な力を物語っている。しかし、僕の視線を釘付けにしたのは、その巨体ではなかった。その形相だ。剥き出しにされた牙、血走っているかのように見える瞳。全身から、猛り狂っているとしか表現しようのない、凄まじい威圧感を放っていた。


 

 ――恐怖。


 

 僕の全身の細胞が、その原始的な感情に支配された。心臓が、肋骨を内側から叩きつけるように激しく脈打つ。血の気が引き、指先が急速に冷えていく。逃げろ。脳が、本能が、全身の筋肉が、ただその一言を絶叫している。

 

 あまりの恐怖に、僕は岩から飛び降り、背を向けて駆け出そうとしてしまった。本来なら絶対にやってはいけない行為だ。だが、その瞬間。ふと、僕の足は地面に縫い付けられたように動かなくなった。

 

 なぜだろう。あれほどまでに猛り狂う熊の瞳の、その奥の奥に、僕は別の響きを感じ取ってしまったのだ。怒りの奔流の下に、隠しようもなく流れ続ける、深く、そして悲痛な響き。それは、助けを求めるような、どこにもぶつけようのない痛みに喘ぐような、悲哀の旋律だった。

 

 それは、僕自身がよく知っている響きに似ていた。かつて、静寂の世界で、誰にも届かない声を、ただ身体の内側で叫ぶしかなかった頃の、僕自身の魂の響きに。

 

 気がつけば、恐怖に全身が支配されながらも、僕は逃げることをやめていた。代わりに、ゆっくりと、熊の方へと向き直った。熊は、僕のその予期せぬ行動に戸惑ったように、唸り声を上げながらも、その場に立ち尽くしている。

 

 大丈夫。大丈夫。絶対に大丈夫だ。僕は心の中で、何度も、何度も繰り返した。それは熊に対してというよりも、震える自分自身に言い聞かせるための、祈りのような言葉だった。僕は、詩織さんが僕にそうしてくれたように。あるいは、僕が森の響きに身を委ねた時のように。全ての抵抗を捨て、ただ、目の前の存在が発する響きを、全身で受け止めようと試みた。

 

 一歩、また一歩と、慎重に距離を詰める。熊の荒い呼吸が起こす空気の震えが、僕の頬を打つ。その獣の匂いが、鼻腔を刺す。それでも僕は、歩みを止めなかった。そして、手を伸ばせば触れられるほどの距離まで来た時、僕はそっと、右手を差し出した。

 

 熊の瞳が、僕の手を睨みつけている。その全身の筋肉が、次の瞬間には僕に飛びかかれるように、極限まで緊張しているのが分かった。生と死の境界線が、僕と熊の間に、髪の毛一本ほどの細さで引かれている。

 


 僕は、その境界線を越えた。


  

 僕の指先が、熊の硬い毛に覆われた、その額に触れた。その瞬間、熊の身体が大きく震えるのが、指を通して伝わってきた。しかし、それは攻撃の予兆ではなかった。驚きと、戸惑いの震え。

 

 僕は、恐れる心をねじ伏せ、その手に全ての想いを込めた。大丈夫。僕は、敵じゃない。君の痛みが、分かる。言葉にならないそのメッセージを、手のひらから熊の魂へと直接、響かせるように。

 

 そのまま、僕はゆっくりと、その巨大な頭を撫で始めた。ゴワゴワとした硬い毛並みの下で、確かな生命の熱が脈打っている。僕の手の動きに合わせて、熊の身体から、少しずつ、力が抜けていくのが分かった。肩の筋肉の強張りが和らぎ、荒れ狂っていた呼吸のリズムが、次第に穏やかなものへと変わっていく。猛り狂う怒りの響きの奥から、悲痛な喘ぎの響きが、より鮮明に、僕の全身へと伝わってきた。

 

 落ち着きを取り戻した熊の形相を、僕は改めて見つめた。やはり、何かおかしい。その視線はどこか虚ろで、苦痛に耐えている者の"それ"だった。僕は、その視線を追うように、熊の全身へと目を移した。そして、見つけてしまった。

 

 後ろ足だった。左の後ろ足の、太腿のあたり。そこに、僕の腕ほどもある、先端が鋭く裂けた太い木の枝が、深く突き刺さっていたのだ。傷口の周りの毛は、血で黒く濡れそぼっている。あれが、この巨大な森の主を、これほどまでに苦しめていた原因だったのだ。

 

 これを、僕が、抜くのか――。

 

 再び、恐怖が鎌首をもたげた。しかし、僕の目の前で、苦痛に喘ぐ巨大な生命体は、今、僕に全てを委ねるように、その身をじっとさせている。僕がやるしかない。

 

 僕はゆっくりと、その傷ついた足元に膝をついた。そして、突き刺さった枝に、両手をかけた。ひやりとした、血で湿った木の感触。僕の覚悟を試すかのように、それはずっしりと重かった。

 

 覚悟を決め、一息、吸い込む。そして、全身の力を込めて、枝をゆっくりと、慎重に引き抜き始めた。

 

 その瞬間、熊の身体が、再び激しい痙攣を起こした。

 

「グオオオオオッッ!!」

 

 音にならない咆哮が、僕の身体を芯から揺さぶった。それは、僕が昨日滝で感じた地響きなど比較にならないほどの、剥き出しの「痛み」そのものの衝撃波だった。熊は、再び猛り狂い、僕を振り払おうと暴れ始める。

 

 僕は枝から片手を離し、咄嗟に、その血に濡れた傷口の上に、そっと手のひらを置いた。熱い。焼けるように熱い、命の奔流。大丈夫だ。もうすぐ終わる。もう少しだけ、耐えてくれ。言葉の代わりに、僕はただ、その一点に、僕の全ての意識を集中させた。僕の穏やかな響きが、この痛みの奔流を、少しでも和らげられるようにと、祈りながら。

 

 すると、奇跡のように、熊の動きが再び鈍くなった。僕の手のひらの下で、激しく脈打っていた筋肉が、ゆっくりと鎮まっていく。僕はその隙を逃さず、残された力を振り絞り、一気に木の枝を引き抜いた。

 

 ずるり、という生々しい感触が手に伝わる。枝が抜かれた傷口から、どっと新しい血が溢れ出した。しかし、熊はもう暴れなかった。ただ、ぜいぜいと苦しげな呼吸を繰り返しながら、その場にぐったりと身を横たえている。

 

 僕は、血塗られた木の枝を傍らに放り投げ、しばらくの間、その傷口に手を置いたまま、熊と共に、浅い呼吸を繰り返した。僕と熊との間に、言葉を介さない、不思議な絆が生まれたのを、確かに感じていた。

 

 どれくらいの時間が経っただろうか。やがて、熊はゆっくりと身体を起こした。そして、僕の顔をじっと見つめると、その大きな鼻先を、僕の頬に優しく、一度だけこすりつけた。ざらりとした、温かい感触。それは、僕が今まで受け取った、どんな感謝の言葉よりも、深く、そして確かに、僕の心に届いた。

 

 熊は、名残を惜しむように、もう一度だけ僕の顔を見ると、くるりと身を翻し、元いた森の奥へと、ゆっくりと歩き始めた。傷ついた足を少し引きずってはいたが、その足取りには、もうあの苦痛の響きはなかった。

 

 その背中を見送りながら、僕は、なぜだか、その熊が僕に「ついてきて」と語りかけているような気がした。それは、何の根拠もない、完全な直感。しかし、この森で僕が学んだのは、その直感を、身体が感じる響きを、信じることだった。

 

 僕は、汚れた手をズボンで拭うと、ためらうことなく、その巨大な背中の後を追い始めた。

 

 熊は、僕を先導するように、獣道とも呼べないような、木々の密集した場所へと入っていく。僕は、枝を避け、木の根を乗り越え、必死にその後を追った。

 

 やがて、熊はある巨大な岩壁の前で立ち止まった。そこには、人が一人、ようやく通れるほどの、闇に包まれた洞窟の入り口が、ぽっかりと口を開けている。熊は、その闇を一度振り返り、そして僕の顔を見て、静かにその中へと消えていった。

 

 僕は一瞬ためらったが、ここまで来たのだ。意を決して、その洞窟へと足を踏み入れた。

 

 ひんやりとした、湿った空気が身体を包む。中は、完全な暗闇だった。僕は壁に手をつき、慎重に、一歩ずつ奥へと進んだ。

 

 そして、数メートルも進んだだろうか。洞窟の出口らしき場所から、柔らかな光が差し込んでいるのが見えた。僕は、その光に導かれるように、歩みを速めた。

 

 洞窟を抜けた瞬間、僕は、自分が今、どこにいるのかを、完全に理解できなくなってしまった。

 

 なぜなら、そこには、あまりにも壮大で、幻想的な世界が広がっていたからだ。

 

 すり鉢状になった、巨大な窪地の底。四方は、切り立った崖に囲まれており、外界から完全に隔絶されている。そして、その窪地の中心には、鏡のように澄み切った、翠玉の湖が、静かに水を湛えていた。

 

 だが、僕の目を奪ったのは、その地形ではなかった。この場所を、この世のものとは思えないほど美しくしている、その光景だった。

 

 窪地の至る所に、淡い光を放つ苔が、まるで星空のようにびっしりと自生しているのだ。その光は、湖の水面に反射し、乱反射を繰り返し、空間全体を、柔らかな青緑色の光で満たしていた。

 

 そして、崖の上からは、幾筋もの細い滝が、まるで光の糸のように湖へと流れ落ちており、その水面を叩くたびに、光の波紋が、ゆっくりと、そして優雅に広がっていく。

 

 僕は、言葉を失っていた。ここは、昨日僕が訪れた森の、さらに奥深く。この星が隠し持っていた、最も神聖な場所。この森の、本当の心臓部。

 

 先程の熊の姿は、もうどこにもなかった。あの熊は、この聖域の、番人だったのかもしれない。そして、僕が示した、ほんのわずかな善意と共感に対して、この場所を見せることで、応えてくれたのだ。

 

 僕は、湖のほとりにゆっくりと膝をついた。ここを満たしている響きは、昨日僕が感じた、あの荘厳な交響曲とは、また違っていた。

 

 

 ――これは、"祈り"だ。

 

 

 全ての生命が生まれる前の、原初の地球が奏でる、どこまでも静かで、清らかで、それでいて慈愛に満ちた、祈りの響き。

 

 僕は、この響きを、僕の言葉に翻訳することができるだろうか。いや、すべきではないのかもしれない。この場所は、この響きは、ただ、感じるためだけに存在している。

 

 僕は、この旅で、新しい物語の種を見つけに来た。しかし、僕が見つけたのは、そんなちっぽけなものではなかった。僕が見つけたのは、全ての物語が、全ての音楽が、全ての生命が、生まれてくる場所そのものだった。

 

 僕は、そっと目を閉じた。僕の小さな心臓が、この巨大な地球の、最も清らかな祈りの響きと、完全に共鳴していく。

 

 過去も、現在も、未来も、全てがこの光の中に溶けていくような、永遠とも思える一瞬。

 

 僕の旅は、今、ここで、本当の意味で終わった。そして、ここから、全く新しい物語が、新しく始まろうとしていた。

 

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