第4話「初戦」

山道をひとり歩きながら、アリシアはゆっくりと周囲を見渡した。


(……本当に、自然が豊かね。空気まで綺麗。)


 木漏れ日の下を抜けながら、深呼吸する。

 ところが、少し歩いたところでぴたりと足を止めた。


「ん? あれ……そういえば、王都ってどっちだっけ……?」


 自分で言って、ふっと笑う。


「当たり前みたいに歩き出してたけど……そうだった。私、八十年前の感覚のまま出てきちゃった……」


 アリシアは口元にそっと指を添え、

「うーん……」と小さく考え込む。


「……まさか、起きて最初に使う魔法が“これ”になるとは思わなかったけど」


 アリシアは手のひらを胸の下あたりにそっと持ち上げる。

 淡い光が集まり、魔法式が空中にふわりと浮かび上がった。


 魔法式がぱちりと光り、

 ガラス玉のような透明の球体が手のひらの上にぽん、と生まれる。


 アリシアはその球体に向かって、静かに言葉を紡ぐ。


「――王都ルミナリアへの道を、示して」


 球体は空へとふわりと上昇し、

 その頂でひときわ明るく“きらり”と光を放つ。


 そして再びアリシアの手へ戻ってくると、

 透明な内部に矢印の紋章がゆっくりと浮かび上がった。


「うん! こっちね」


 歩き出した瞬間、膝が少し震えた。


「……はぁ……はぁ……こんな簡単な魔法でここまで魔力が切れかかるなんて……。しばらく魔法は控えた方が良さそうね」


 アリシアは息を整えながら、球体の示す方向へ進んでいく。


◇◇◇


 山を下った開けた一本道の先に、

 小さな露店がひとつ建っていた。


 木の台には果物や焼きたてのパン。

 旅人が軽く立ち寄れるような、素朴な店だ。


(……あ、そういえば何も食べてなかったっけ)


 赤いリンゴが美味しそうに見えて、思わず足が止まりかける。

 けれど、すぐに財布も何も持っていないことに気づき、アリシアはそっと視線をそらした。


 何も言わず、そのまま店先を通り過ぎようとした、そのとき――


「お嬢さん、腹減ってるならひとつ食べてきな」


 露店の主人らしい中年の男が、にこやかにリンゴを差し出してきた。


「えっ……あ、その……いえ……お金がなくて……」


 アリシアは軽く苦笑しながら、そっと手を振った。


「気にすんな。腹すかせたままじゃ歩くのも大変だろ?

 ……よし、アップルパイにしてやろう。ちょっと待ってな」


「えっ、い、いえ! そんな……申し訳ないです! さすがにいただけません!」


 アリシアが慌てて止めようとする間に、

 男はもう生地を焼き、

 りんごジャムをさっと挟んで折り込み、袋へぽんと入れてしまう。


「ん? ほれ、もう出来ちまった。いいから持ってきな。……魔力、切れかかってるだろ?」


「……っ、わかるんですか?」


「まあな。こんな俺でも、少しくらいは魔法が使えるんでな。調理用の便利魔法ばっかだけどな、はっはっは!」


 アリシアもつられて笑う。


「ほんとに……ありがとうございます。なんてお礼を言えばいいか……。ありがたくいただきます」


 袋を両手で受け取り、深く頭を下げる。


「おう。美味かったらまた来な。気ぃつけて行くんだぞ」


「はい!」


 アリシアは胸元で袋を抱え、軽い足取りでまた歩き出した。


 しばらく進んだところで、ふと足を止め、

 紙袋の中から小さなアップルパイをそっと取り出す。

 焼きたての甘い香りがふわりと広がり、思わず頬がゆるんだ。


「おいしい……!」


 歩きながら静かに味わい、食べ終えた紙袋を丁寧に折りたたむと、

 服の腰あたりにある小さなポケットへそっとしまった。


 再び歩き始めようとした、そのとき——

 周囲の木々がざわざわと騒がしく揺れ始めた。

 風ではない。何かがこちらへ近づいている。


「……え? なに……?」


 アリシアは足を止め、肩越しに静かに視線を巡らせた。

 肌の奥に、言葉にできない“何か”が触れた気がした。


(魔物……? 違う……もっと邪悪……この魔力……一体、何……?)


 不安が胸に広がった、その瞬間。


「——っ!?」


 茂みから飛び出した影を前に、アリシアは左腰へ添えた剣にそっと手をかけた。

 いつでも抜けるように、静かに体勢を整える。


(……フェラルハウンド……?)


 見た目は、よくいる犬型の魔物——そのはずだった。

 だが、肌に刺さるような気配は、あまりにも邪悪で異質。


「……っ」


 低く、くぐもった唸り声が響き、

 フェラルハウンドの体が“ぐらり”と揺れた。


 次の瞬間、骨が軋むような音とともに——

 その身体がじわり、じわりと膨れ上がっていく。


 黒い瘴気のようなモヤが全身から立ち上り、

 毛並みは逆立ち、背はぐんと伸び、

 四肢は筋肉が膨張するように太く変形していった。


「……ガルルルル……ッ!」


 最初はただの犬ほどだった体格が、

 みるみるうちに小型の馬車ほどの巨体へと膨れ上がる。

 人と目線が並ぶどころか、わずかに見下ろされるほどだ。


「っ……! な、なに……この魔物……」


 アリシアは一歩だけ後ずさりし、

 剣に添えた手へわずかに力を込めた。


 小型の馬車ほどに膨れ上がった異形のフェラルハウンドは、

 一瞬だけ地を抉るように低く身構え——。


 ――次の刹那、轟音のような勢いで地を蹴った。


 襲いかかる黒い影が、空気を裂く。


 だが、アリシアは迷わなかった。

 胸奥に残った恐怖を静かに押し込み、剣を握る指先へわずかに力を込める。


(……来る……!)


 魔物が牙を剥いた瞬間、

 アリシアもまた地を蹴り、真正面へ向けて跳んだ。


 すれ違う一瞬——。

 白銀の軌跡が閃く。


 ザンッ。


 巨大な首が、音もなく宙へ舞い上がった。


 アリシアは空中でひらりと身体を捻り、

 剣についた血飛沫を一振りで払う。


 そして、滑らかな動作でさやへ剣を収め、

そのまま軽やかに着地した。


 背後で、首を失った魔物の肉体がゆっくりと崩れ落ち——

 ぼっ……と淡い灰となって風へ溶けていく。


 アリシアは振り返り、静かに目を細めた。


「……いったい、何だったの……あの魔物……」


 アリシアが小さく息を整え、前を向き直ろうとしたそのとき――。


「いやぁ、見事だ。その剣の腕前」


 ぱち、ぱち、と軽い拍手の音が前方から響く。

 木々の陰から、肩幅の広い大柄な男がゆったりと歩いてきた。


 アリシアは軽く会釈して、にこやかに返す。


「ありがとうございます」


 男が近づいてくると、アリシアの背後で灰へと消えゆく魔物を見やり、口を開いた。


「しかしよく倒せたものだな、ビッグワンコを」


「……ビッグワンコ? ですか」


「あぁ。前はただの犬の魔物だったんだがな。最近は急にでかくなる個体が出てきてよ。今みたいにな」


 男はそう言いながら、少し得意げに鼻を鳴らす。


「だから俺たちの間じゃ、とりあえずビッグワンコって呼んでる」


 アリシアはぽかんとした顔をしてしまい、返す言葉が出てこない。

 それを見た男が、灰の残滓へ視線を向け、顎をクイッとそちらに向ける。


「……“でかいワンコ”。最もだろ?」


「……なるほど。ビッグワンコ……。確かに、その通りですね」


 アリシアがそう言うと、男は満足そうにうなずいた。


「ところで嬢ちゃんは旅か? それとも冒険?」


「いえ、今は少し……王都を目指しているところです」


「そうか。道は分かるのか?」


 アリシアは首を横に振り、手のひらに乗る球体——導光珠ルミナスオーブをそっと見せた。


「地図を持っていないので、今はこの……ルミナスオーブに頼っているんです」


「ほぉ、それは魔法か?」


 男が指で球体を指す。


「はい。“導きを示す魔法”です」


「なるほどなぁ。嬢ちゃん、魔法が使えるのか。すげぇもんだ。俺なんか魔法はこれっぽっちで、あいつらとやり合う時も剣か弓でどうにかしてんだ」


「えっ!? あの魔物と、魔法なしで戦っているんですか!?」


「あぁ? 嬢ちゃんだって今、剣で倒しただろ? 同じだよ」


 その言葉に、アリシアははっと目を瞬かせた。

 思わず息をのみ、わずかに肩が揺れる。


 何も返せずに立ち尽くすアリシアを見て、

 男は楽しそうに豪快な笑い声を上げた。


「なぁに。俺らは昔っから、あんなのばっか相手にしてきてっからよ。慣れだ」


 アリシアは返す言葉が見つからず、ほんの一瞬だけ黙り込んだ。


 その様子を見て、男は肩をすくめるようにして口を開く。


「……ところでよ。魔法が使えるってことは、その……なんだ。魔力? ってのも感知できたりすんのか?」


「はい。ですが……今の個体からは、私の知るフェラルハウンドとはまったく違う魔力を感じました。とても……邪悪で、異質な魔力を」


 男の顔が少しだけ険しくなる。


「やっぱりか……」


「何かご存知なんですか!?」


「いや、詳しいことは分からん。だがな、突然変異する魔物はあいつだけじゃねぇ。他にもいる。何か原因があるとは思ってたが……もしかしたら、その“異質な魔力”ってやつが、やつらを強化させてんじゃねぇかとな」


「他にも……!?」


「なんだ嬢ちゃん、知らねぇのか? 今じゃ王都で有名な話題だぞ」


「あ……ごめんなさい。私、ずっと眠っていたので……」


「眠ってた……? ってことは最近の話題、まったく分かんねぇのか?」


「はい……。なので、それを知るためにも王都へ向かっているところです」


「そうか……。なら道中、俺の知る限りの話をしてやるよ。王都で今何が起きてんのか。丁度いい、俺ももう一匹だけ狩って帰るつもりだったしな。道案内も兼ねて一緒に行くか」


「えっ……いいんですか!? ……じゃあ、お願いします!」

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