第42話 第二の層『憎悪のサビ』と、怨念のデュエット

息が、切れる。

 精神だけの存在のはずなのに、肺が酸素を求めて悲鳴を上げていた。

 目の前で、わずかに透明度を取り戻した川が、静かに流れている。あれほど分厚くこびりついていた『後悔』のヘドロは、俺の執念のタワシさばきによって、跡形もなく洗い流された。


(やった……。やったぞ……!)


 途方もない達成感。だが、それ以上に全身を支配するのは、魂の芯から抉り取られたかのような、凄まじい疲労感だった。

 現実世界に戻ったら、三日は寝込むかもしれない。

 だが、それでもいい。最高の『洗い物』ができたのだから。

 俺は、満足のため息と共に、その場にへたり込もうとした。


 ――そして、川底に広がる光景に、言葉を失った。


「な……んだ、よ、これ……」


 ヘドロの下から現れたのは、綺麗な川底ではなかった。

 そこに広がっていたのは、まるで悪性の腫瘍のように、あるいは大地の裂け目のように、川底一面を埋め尽くす、おびただしい量の、赤黒い『サビ』だった。

 ゴツゴツとした塊が、血管のように脈打ち、呪いの中心部へ向かって伸びている。

 先程までの後悔のヘドロが、ただの『汚れ』だとするなら、これは、この川そのものを内側から蝕み、殺そうとする、悪意の塊。

 俺の脳内に、直接、声が響いた。


『許さない』

『決して、許さない』

『我が一族の血の恨み、未来永劫、貴様らを蝕み続けてくれるわ……!』


 憎悪。

 純度100%の、呪詛と怨念。

 始祖アークライト公に裏切られ、全てを奪われた親友一族の、何百年ぶんもの憎しみが、この赤黒い『サビ』となって、呪いの第二層を形成しているのだ。


(まだ……まだ、終わりじゃなかったのかよ……!)


 一瞬、心が折れそうになった。

 だが、次の瞬間、俺の心に宿ったのは絶望ではなかった。

 それは、腹の底から込み上げてくる、どうしようもない歓喜だった。


(すごい……。本当に、すごい……!)


 後悔の水垢の下に、憎悪のサビ。

 なんてことだ。なんて洗い甲斐のある、ミルフィーユ構造なんだ!

 これほどの『大物』を前にして、へこたれるなんて、洗い物屋の名が廃る。


「上等だ……」


 俺は、口の端に浮かんだ笑みを隠そうともせず、再び立ち上がった。

 その目は、再び獲物を見つけた狩人のように、爛々と輝いていた。


「やってやる。あんたのその、何百年ぶんもこびりついた恨みつらみ……。俺が、ピカピカに磨き上げてやるよ!」


 俺は、現実世界の工房で作り上げた、二番目の『洗剤』を強くイメージした。

 寸胴鍋の中にあった、純白の、クリームのような液体。

 大聖堂で汲んだ聖水に、何百年ぶんもの人々の『信仰の純度』を凝縮させた、最強の『漂白剤』。

 だが、この憎悪のサビを洗い流すには、ただの漂白剤では生ぬるい。

 俺は、その『概念』を、さらに先鋭化させる。


(この憎悪は、鉄を腐食させる酸性雨のようなものだ。なら、こっちが使うのは……それを遥かに上回る、超強力な『酸』!)


 信仰の純粋さは、時として、どんな悪意よりも苛烈な力を持つ。

 俺は、その力を、汚れを溶かすためだけに特化させた。

 俺の右手に、新たな洗浄道具が出現する。

 今度は、頑丈な金属製のワイヤーブラシ。そして、左手には、霧状の液体を噴射する、業務用のスプレーボトル。

 ボトルの中身は、俺の精神力で作り出した、概念の『酸性洗浄液』だ。


「まずは、大まかなサビを削り落とす!」


 俺は再び川の中に入り、ワイヤーブラシを赤黒いサビの塊に叩きつけた。


 ガリガリガリッ!


 凄まじい手応えと共に、サビの破片が飛び散る。

 だが、その瞬間――俺の頭の中に、新たな声が、雷鳴のように轟いた。


『――許さんッ! アークライト! 貴様だけは、未来永劫許さんぞ!』


 それは、壮年の男の、血を吐くような絶叫だった。

 裏切られた親友、その一族の長の怨嗟の声だ。


「ぐっ……!」


 後悔の念とは比較にならない、直接的で、暴力的な精神攻撃。

 脳を直接、万力で締め上げられるような激痛が走る。

 だが、それだけではなかった。

 その声に重なるように、もう一つの、苦悩に満ちた声が響き渡ったのだ。


『――すまない、友よ……! だが、こうするしかなかったのだ! この国を、民を守るためには……!』


 初代アークライト公。

 全ての元凶となった男の、悲痛な弁明。


『貴様が国を語るな! 我が妻を! 子を! 民を! 全てを奪っておきながら!』

『お前たちの犠牲がなければ、この国の礎は築けなかった! いずれ、歴史が私の正しさを証明する!』

『戯言を! 貴様の栄光は、我らが血と涙の上に築かれた砂の城よ! いずれ必ず、この呪いが貴様の一族を根絶やしにしてくれる!』

『それでも……私は、この道を選ぶしかなかったのだ……!』


 憎悪と、大義。

 怨嗟と、後悔。

 二つの魂が、何百年もの時を超えて、俺の精神を舞台に、終わりなき口論を繰り広げている。

 怨念のデュエット。

 それは、聞いているだけで魂が削れていく、呪いの歌だった。


「う……ぐぅ……!」


 頭が、割れそうだ。

 吐き気がこみ上げてくる。

 一瞬でも気を抜けば、この二つの巨大な感情の奔流に、俺のちっぽけな自我など、一瞬で飲み込まれてしまうだろう。


(……うるさい)

(うるさい、うるさい、うるさい!)


 俺は、奥歯をギリギリと噛み締めた。

 そして、腹の底から、叫んだ。


「あんたらの痴話喧嘩なんざ、知ったことかァァァッ!!」


 俺は、二つの声を、意識の外へと無理やり追い出す。

 俺は、歴史の裁判官じゃない。

 ただの、しがない洗い物屋だ。

 俺の仕事は、目の前の汚ねぇサビを、洗い流すこと。

 ただ、それだけだ!


「俺の『仕事場』で、いつまでも喚いてんじゃねぇぞ、亡霊どもがッ!」


 シュゥゥゥゥッ!

 俺は左手のスプレーボトルを構え、赤黒いサビに向かって、概念の酸性洗浄液を、ためらいなく噴射した。


 ジュウウウウウウッ!!


 サビが、白い煙を上げて溶けていく。

 断末魔のような、甲高い音が響き渡る。

 それと同時に、俺の脳内で響いていた二つの声が、一瞬だけ、苦痛に歪んだ。


(……効いてる!)


 確信した俺は、無心になった。

 右手のワイヤーブラシで、頑固なサビを削り落とし、

 左手のスプレーで、こびりついた憎悪を溶かし去る。

 ガリガリ、シュゥゥゥ。

 ガリガリ、シュゥゥゥ。

 ただ、ひたすらに、その作業を繰り返す。

 どれほどの時間が経ったのか。

 一日か、一週間か、あるいは、一年か。

 精神の世界では、時間の感覚すら曖昧になる。

 ただ、確実に、俺の魂はすり減り、そして、川底の赤黒いサビは、その勢いを失っていった。


 ――そして、ついに。


 ゴリッ、という鈍い音を最後に、俺のワイヤーブラシが、硬い川底の感触を捉えた。

 俺は、ハッと顔を上げた。

 あれほど川底を埋め尽くしていた、禍々しい憎悪のサビが、跡形もなく消え去っている。

 脳内で響いていた、二つの声も、今はもう聞こえない。


「はぁ……はぁ……お、終わった……」


 今度こそ、終わりだ。

 俺は、安堵のため息をつき、その場に崩れ落ちそうになった。

 だが――

 サビの下から現れた、本当の川底を見た瞬間、俺の動きは、完全に停止した。


 そこに広がっていたのは、綺麗な砂利の川底ではなかった。


 ベットリと。

 まるで、何百年も放置された換気扇のフィルターのように。

 あるいは、決して洗い流すことのできない、罪の記憶そのもののように。


 黒く、粘着質で、底なしの絶望を感じさせる、『油汚れ』が、川底一面に、ねっとりと絡みついていた。


「……嘘、だろ……」


 俺の口から、乾いた声が漏れた。


「まだ……まだ、あんのかよ……!」


 史上最悪の『複合感情汚染』。

 その、最も厄介で、最も洗い流しにくい、呪いの核。

 全ての元凶たる『裏切り』の油汚れが、ようやく、そのおぞましい姿を、俺の眼前に現したのだった。

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