第38話 街巡りと、『概念』の調合

翌朝。

 俺の店『アクア・リバイブ』の工房のテーブルには、レオルドさんが手配してくれた、世にも奇妙な『洗剤』の材料が並んでいた。


「……本当に、これであの呪いがどうにかなるっていうの?」


 リリアが、腕を組みながら訝しげな視線を送っている。

 テーブルの上には、ごつごつとした石の欠片。透明な水が入った小瓶。そして、小さなガラス瓶に収められた、朝露のように輝く三滴の雫。

 どれも一見すれば、変哲もないただのモノだ。


「昨晩の話を聞いただけでは、にわかには信じがたいですわ……」

 セナさんも、不安げな表情で小瓶を見つめている。

「……アラタを、信じる」

 クロエさんだけが、静かに、しかし力強く頷いてくれた。その信頼が、今の俺には何より心強い。


(まあ、無理もないか……)


 俺自身、この依頼がとんでもない大物であることは分かっている。

 だからこそ、中途半端な準備はできないのだ。

 最高の『洗い物』には、最高の『下準備』が不可欠なのだから。


「いえ、まだです」

 俺は、首を横に振った。

「まだ、準備は整っていません。皆さん、少しだけ、俺に付き合ってください」


 そう言うと、俺は石の欠片を手に取り、仲間たちを促して店の外へ出た。


 ◇


「ちょ、アラタ! 一体どこに行くっていうのよ!?」

「『下準備』です。この子たちの、本当の力を引き出してあげるんです」


 俺たちが向かったのは、王都の中央広場。

 大勢の人々が行き交う、この街で最も活気のある場所だ。

 俺は、広場の中心で足を止めると、そっと地面に膝をついた。そして、レオルドさんから預かった石の欠片を、元の場所であろう石畳の窪みに、そっとはめ込む。


「な、何してるのよ、アラタ……」

 リリアの困惑した声が聞こえるが、俺は構わず、石畳の上に両手をついた。

 目を閉じて、意識を集中させる。


(……そうだ。これだ)


 手のひらから、膨大な『情報』が流れ込んでくる。

 この国が建国された日。英雄たちの凱旋パレード。恋人たちの待ち合わせ。商人たちの喧騒。子供たちの笑い声。そして、時には戦乱の悲しみや、人々の涙。

 幾万、幾億という人々の足跡。喜び、悲しみ、希望、絶望。

 何百年ぶんもの歴史が、この石畳には刻み込まれている。


「……アラタ様? ただの石に触れて、一体何を……」

 セナさんの声で、俺はハッと我に返った。

 俺は立ち上がると、仲間たちに向き直り、真剣な眼差しで言った。


「これは、ただの石じゃありません」

 俺は、足元の石畳を指さす。

「ここは、この国の歴史そのものです。ここに刻まれた無数の足跡と、人々の想いの積み重ね……。これこそが、どんな頑固な『汚れ』をも削り落とす、最高の『研磨剤』になるんです」

「け、研磨剤……?」


 リリアたちが、ポカンとした顔で俺を見ている。

 その反応も無理はない。だが、俺の目には、石畳の一つ一つが、歴史の重みでキラキラと輝いて見えていた。


 ◇


 次に向かったのは、街で最も大きな大聖堂だった。

 荘厳なステンドグラスから差し込む光が、静謐な空間を彩っている。

 俺は、祭壇の前で静かに祈りを捧げると、聖水が入った小瓶を取り出した。


「これも、ただの水じゃありません」

 俺は、天井高くそびえる鐘楼を見上げた。

「この聖水が汲まれたのは、夜明けの鐘が鳴り響く、その真下です。夜明けの鐘の音は、人々の祈りを天に届け、そして神の祝福をこの地に降ろす合図。この一滴一滴には……何百年ぶんもの、人々の『信仰の純度』が凝縮されているんです」


 俺は、小瓶を光にかざす。

 きらめく水の中に、俺は確かに見た。

 病気の治癒を願う老婆の祈り。戦地へ赴く息子の無事を願う母親の祈り。愛する人との幸福を願う乙女の祈り。

 それらが混じり合い、至高の純度へと昇華されている。


「これこそが、どんな呪いの『染み』をも白く洗い上げる、最強の『漂白剤』なんですよ」

「ひ、漂白剤……」


 リリアは、もうツッコむ気力もないのか、乾いた笑みを浮かべていた。

 セナさんは、ただただ目を丸くしている。

 俺の言動は、彼女たちにとっては、常軌を逸した奇行にしか見えないのだろう。


 だが、一人だけ。

 エリアーナさんだけが、違う反応を示していた。

 彼女は、青ざめた顔で、信じられないものを見るかのように、俺を凝視していた。

 その美しい瞳が、驚愕と、畏怖と、そしてわずかな恐怖の色に揺れている。


(まさか……。ありえませんわ)


 エリアーナの脳裏に、エルフの隠れ里に伝わる、神代の時代の古文書の一節が蘇っていた。


(石に宿る『歴史』、水に宿る『信仰』……。罪人の涙に宿る『悔恨』……。それらは全て、形なき力。いわば、『概念』そのもの……)


 普通の人間には、到底認識することすらできない領域。

 だが、この青年は、それをまるでスーパーで特売品を選ぶかのように、当たり前に口にする。


(物質に付随する、形而上の『概念』を抽出し、それを物理的な力を持つ触媒として調合する……? そんなこと、神話に登場する創造神の御業……。いいえ、それすらも、ただの御伽噺のはず……!)


 彼女の視線の先で、俺は最後の仕上げとばかりに、三滴の雫が入った小瓶を胸に抱いた。

 これは、罪人の涙に見立てた、特殊な薬草の雫。

 だが、俺には分かる。この雫には、罪を犯した者が、心から己を悔い、涙を流す、その『悔恨の念』と同じ波動が込められている。

 粘着質な『油汚れ』を、根本から分解する『乳化剤』として、これ以上のものはない。


「……ふぅ。これで、最高の『洗剤』を作る準備ができました」


 俺は、満足げに息をつくと、仲間たちに向かって、職人としての自信に満ちた笑みを浮かべた。

 その笑顔を見たエリアーナは、ゴクリと喉を鳴らし、無意識に一歩後ずさっていた。


(このお方は、一体……。一体、何者なのですか……?)


 彼女だけが、今から始まろうとしている『洗い物』が、ただの呪物浄化などという生易しいものではないことを、その魂で理解していた。

 それは、歴史と概念そのものを洗い流すという、神の領域への挑戦なのだと。


「さあ、店に戻りましょう。いよいよ、本番です」


 俺のその言葉は、これから始まる途方もない戦いの、静かなゴングのように、大聖堂に響き渡った。

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