第36話 血と裏切りの染み

「つまり……追加料金が、発生しますけど」


 俺の、あまりにも場違いな一言が、工房の重苦しい空気にポツンと響いた。

 全員が、凍りついている。

 リリアも、セナさんも、クロエさんも、エリアーナさんも、そして目の前のレオルドさんでさえ、鳩が豆鉄砲を食ったような顔で俺を見ていた。


(あ、やべ……。やっぱり、このタイミングで言うことじゃなかったか……!?)


 俺は内心で滝のような冷や汗を流す。

 だって、しょうがないじゃないか。

 相手はギルドマスターで、依頼内容は国家レベルの呪物浄化。どう考えても、普段の短剣一本とはわけが違う。プロとして、対価を明確にするのは当然のことだ。俺は洗い物屋なんだから。


「ちょ、アラタ! あんた、こんな真剣な話の時に、お金の話!?」

 最初に我に返ったリリアが、慌てて俺の脇腹を肘でつつく。


「……いや、いいんだ」

 静かにそれを制したのは、レオルドさんだった。

 彼は、驚きの表情から一転、ふっと口元を緩めた。それは、安堵にも似た、不思議な笑みだった。


「そうか……そうだな。君は聖人でも、神の使いでもない。一人の、プロの職人なのだな」

 レオルドさんの目に、確かな光が宿る。

「むしろ、安心した。その揺るぎない矜持こそ、君の力の源なのだろう。よかろう。報酬は君の言い値で構わん。我がアークライト家の全財産を賭けても、この依頼を君に託したい」


「ぜ、全財産!?」

 俺は思わず叫びそうになるのを、ぐっと堪えた。危ない危ない。そんなにもらったら、俺のコミュ障ハートが爆発四散してしまう。


「い、いえ、そこまでは……。ただ、今回の『汚れ』は、これまでとは比較にならないほど特殊で、複雑です。これを洗い上げるには、相応の準備が必要になります」


 俺は、テーブルの上の小箱に再び視線を落とす。

 俺の【万物浄化】の目には、その『汚れ』の構造が、はっきりと見えていた。

 それは、単一の汚れじゃない。


「これは……油汚れと、水垢と、サビと、カビ……。これら全てが、何百年という時間をかけて、ミルフィーユのように重なり合った、史上最悪の『複合感情汚染』です」

「ふ、複合……?」

 リリアが、怪訝な顔で聞き返す。


「はい」と俺は頷いた。

「一番外側には、始祖を裏切った親友一族の『憎悪』が、赤黒い『サビ』となってこびりついている。その下には、歴代当主たちが積み重ねてきた『後悔』が、拭き取れない『水垢』のように染みついている。そして、そのさらに奥……全ての元凶である始祖自身の『裏切り』が、最も洗い流しにくい、粘着質の『油汚れ』として、呪いの核に絡みついているんです」


 俺の、あまりにも生活感あふれる解説に、仲間たちはポカンとしている。

 だが、俺は至って真剣だった。

 これほどまでに複雑で、歴史の重みが詰まった『汚れ』は、生まれて初めてだ。

 歓喜で、体の芯が震える。


「だから、これを洗い上げるには、それぞれの汚れに合わせた、特殊な『洗剤』が必要になります」

「特殊な、洗剤……ですの?」

 セナさんが、おずおずと尋ねる。


「はい。というわけで……」

 俺は、懐から羊皮紙の切れ端とペンを取り出すと、そこにサラサラと必要なものを書き連ねていった。そして、それをレオルドさんに手渡す。


「これを、至急ご用意いただけますでしょうか。これが揃わなければ、最高の『洗い物』はできませんので」


 レオルドさんは、訝しげな顔でそのリストを受け取ると、そこに書かれた文字に目を走らせた。

 そして、彼の表情が、再び固まった。

 横からリストを覗き込んだリリアも、同じように目を丸くしている。


「はぁ!? な、なによこれ……!」

 リリアが、信じられないといった声でリストの内容を読み上げた。


「『王都で最も古い石畳の欠片を一つ』……」

「『夜明けの鐘の音が染み込んだ、教会の聖水を一瓶』……」

「『罪人が流した、心からの悔い改めの涙を三滴』……!?」


 リリアは、わなわなと震える指で俺を指さした。

「あ、あんた、本気で言ってるの!? なによこの買い物リスト! ふざけてるでしょ!?」

「ふざけてなんかいません。大真面目です」


 俺は、きっぱりと言い切った。

 仲間たちは、完全に俺を奇異の目で見ていた。エリアーナさんだけが、何かに気づいたようにハッとして、信じられないという表情で俺とリストを交互に見ている。


(分かってもらえないか……)


 まあ、無理もない。

 だが、俺には分かるのだ。

 幾万もの足跡が刻み込んだ石畳の『歴史の重み』は、最高の『研磨剤』になる。

 人々の祈りが凝縮された教会の聖水は、何よりも純粋な『漂白剤』だ。

 そして、罪人の後悔が詰まった涙は、頑固な『油汚れ』を分解する、特殊な『乳化剤』として機能する。

 これらは、俺が最高の『洗い物』をするために、絶対に欠かせない『洗剤』なのだ。


 俺の真剣な眼差しに、レオルドさんは何かを察したようだった。

 彼は、リストを握りしめると、深く、力強く頷いた。


「……分かった。アラタ殿。常人の物差しで君を測ろうとした、私が愚かだったようだ」

 彼は立ち上がると、再び俺に深々と頭を下げた。

「必ず、揃えてみせる。我が一族の……いや、息子の未来は、君のその腕にかかっている」


 そう言うと、レオルドさんはフードを深く被り直し、誰にも見つからぬよう、静かに店を後にして行った。

 嵐のようなギルドマスターの訪問が終わり、工房には、俺たち五人と、テーブルの上に置かれた禍々しい小箱だけが残された。


「…………」

「…………」


 重い沈黙。

 リリアとセナさんは、まだ信じられないといった顔で俺を見ている。


「ねえ、アラタ……。さっきのリスト、本当に、本気なの……?」

「はい。あれがないと、始まりません」

「そんなオカルトみたいなもので、本当にあの呪いが……?」


 不安そうな仲間たちをよそに、俺はそっと小箱を手に取った。

 ずしり、と。手のひらに、何百年ぶんもの歴史の重みが伝わってくる。

 俺の口元に、自然と笑みが浮かんだ。

 それは、途方もない大物を前にした、職人だけが浮かべることのできる、歓喜の笑みだった。


「大丈夫ですよ」


 俺は、まるで愛しい我が子をあやすかのように、小箱の表面を優しく指でなぞった。


「見ててください。俺が、あんたにこびりついた、何百年ぶんもの頑固な『染み』を……一点の曇りもなく、完璧に洗い上げてやりますから」


 こうして、俺の店『アクア・リバイブ』を舞台にした、アークライト家の宿痾を巡る、奇妙で、そして途方もない浄化の準備が始まった。

 その裏側で、俺の力を巡るカインの陰謀が、さらに加速していることなど、この時の俺はまだ、知る由もなかった。

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