第25話 あなたを信じる、私たちの戦い

怨霊の骨張った指先が、俺の額に触れようとしていた。

 ひんやりとした死の気配が、肌を粟立たせる。

 もう、ダメだ。

 俺の生命力も、ここまでか――。


「させないわよッ!」


 絶望に染まりかけた俺の耳に、リリアの鋭い声が突き刺さった。

 彼女は怨霊と俺の間に滑り込むと、渾身の力で剣を振るう。

 だが、その刃はまたしても、虚しく霧のような体をすり抜けるだけだった。


「くっ……!」

「……ダメ!」


 クロエさんも、俺を庇うように神護の大盾を構えるが、怨霊は嘲笑うかのようにその盾を透過し、俺への歩みを止めない。

 仲間たちの必死の抵抗が、この怨霊の前ではあまりに無力だった。


(終わった……。俺のせいで、みんなまで……)


 恐怖と絶望で、目の前が真っ暗になる。

 だが、その暗闇の中で、俺は確かに感じていた。

 俺が両手で支える、桶の中の杖から伝わってくる、微かな『満足感』を。

 飢えと渇きに苦しんでいた魂が、今まさに満たされようとしている、その穏やかな気配を。


(あと、もう少し……! 本当に、あと少しなんだ……!)


 この怨霊は、杖そのものじゃない。

 杖から剥がれ落ちた、『飢え』の記憶の残滓だ。

 本体である杖の『食事』が完了すれば、きっとこの怨霊も――!


「お願いしますッ!」


 俺は、喉が張り裂けんばかりに叫んでいた。


「もう少しなんです! あと少しで、この子の『食事』が終わります! だから……それまで、なんとか時間を稼いでください! お願いします!」


 俺が、誰かに、こんなに必死で何かを頼んだのは、生まれて初めてだったかもしれない。

 俺の悲痛な叫びに、一瞬、工房の空気が凍りついた。

 怨霊の動きさえも、ピタリと止まる。


 最初に沈黙を破ったのは、リリアだった。

 彼女はすり抜けた剣を握り直し、不敵な笑みを浮かべて、くるりと俺の方を振り返った。


「……聞いたでしょ、二人とも! あのアラタが、あたしたちに『お願い』なんて言うなんて、よっぽどのことよ!」

 その瞳には、恐怖も絶望もなかった。

 ただ、俺への絶対的な信頼だけが、炎のように燃え盛っていた。


「やるわよ! あいつには指一本触れさせない!」

「はいっ! アラタ様を信じます!」

 セナさんも、涙を拭って強く頷く。

「……了解。アラタを、信じる」

 クロエさんも、盾を構え直し、その瞳に静かな闘志を宿した。


 三人の覚悟が、びりびりと空気を震わせる。


『……クレ……』


 怨霊が、再び俺に向かって腕を伸ばす。

 だが、その行く手を、今度は赤い閃光が阻んだ。


「物理攻撃がダメなら、これならどうよ! 《フレイム・ソード》!!」


 リリアの剣が、灼熱の炎に包まれる。

 彼女は怨霊を斬りつけるのではなく、その周囲の空間を薙ぎ払うように剣を振るった。

 ゴウッ! と熱波が巻き起こり、怨霊の霧でできた体が、陽炎のように揺らめく。

 完全に消し去ることはできない。だが、明らかにその動きが鈍っていた。


「ナイスよ、リリア! 私も!」


 セナさんが、杖を天に掲げる。

「闇が相手なら、光で対抗しますわ! 《サンライト》!」

 彼女の杖の先から、小さな太陽と見紛うほどの、強烈な光球が生み出される。

 光が工房内を白く染め上げ、怨霊はまるで光を嫌うかのように、苦しげに身をよじった。


『……ギ……ィ……』


 怨霊が、初めて苦悶の声を上げる。

 その隙を、クロエさんが見逃すはずもなかった。


「……今!」


 彼女は怨霊の懐に踏み込むと、神護の大盾を力強く突き出す。

 それは物理的な打撃ではない。盾の表面から放たれた魔力の衝撃波が、怨霊の体を内側から揺さぶったのだ。

 怨霊の輪郭が、一瞬、大きく崩れる。


「やった! 効いてるわ!」

「このまま続けますわよ!」


 効果がないと分かっていた攻撃ではない。

 三人は、この実体のない敵に対して、自分たちの持てる力の限りを尽くし、有効な対抗策を瞬時に編み出してみせたのだ。

 これが、Aランクパーティー『クリムゾン・エッジ』の、本当の実力。


(すごい……)


 俺は、三人の戦う背中を見つめながら、ただただ圧倒されていた。

 そして、胸の奥から熱いものがこみ上げてくるのを感じていた。

 俺のために、俺を信じて、命を張ってくれている。

 その信頼に、応えなければ。


「うおおおおおっ!!」


 俺は雄叫びを上げ、ありったけの浄化エネルギーを、桶の中の杖へと注ぎ込んだ。

 銀色に輝く聖水が、黄金の光を帯び始める。

 杖を覆っていた黒い茨に、ピシッ、と微かな亀裂が入ったのが見えた。


 だが、怨霊も、このままやられるつもりはないようだった。


『……オ……オオオオオオッ!!』


 怨霊が、咆哮を上げた。

 工房全体が、まるで地震のように激しく揺れる。

 怨霊の体から、これまでとは比較にならないほどの、濃密な黒い霧が噴き出したのだ。


「きゃっ!?」

 セナさんの《サンライト》が、闇の力に押し返されてかき消される。

「しまっ……!」

 リリアの《フレイム・ソード》の炎も、風前の灯火のように揺らめき始めた。


 仲間たちの魔力も、体力も、もう限界に近い。

 体勢を立て直した怨霊は、もはや彼女たちに見向きもせず、一直線に俺へと向かってくる。

 その速さは、先ほどまでとは比べ物にならない。


「アラタ、危ない!」

「……ダメ!」


 リリアとクロエさんが、最後の力を振り絞って俺の前に立ちはだかろうとするが、もう間に合わない。

 再び、死の指先が、俺の額へと迫る。

 万事休す。

 誰もが、そう思っただろう。


 だが、俺の口元には、いつの間にか笑みが浮かんでいた。

 最高の『洗い物』が、今、完璧に仕上がろうとしているのだから。


「――今です!」


 俺は、集まった全ての視線の中で、高らかに宣言した。


「『ごちそうさま』の時間ですよ!」


 その言葉が、合図だった。

 桶の中の『死喰らいの茨杖』が、工房の全てを白く塗りつぶすほどの、神々しい光を解き放ったのだ。

 ピシッ、ピシッ、と。

 杖を覆っていた黒い茨が、まるでガラスのように砕け散る音が、工房中に響き渡っていた。

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