異世界でメイド喫茶を経営したら

竹見マサタカ

第1話 ルミエール開店!

 陽の光が傾きかけた市場の裏通りを、男がひとり歩いていた。

 名を店長という。かつて現実世界では、メイド喫茶の裏方として働いていた――給仕の影で動く、地味で誠実な男だった。


 だが今、彼の足元に広がるのは石畳の街路。

 異世界セリアの空気は、香辛料と鉄の匂いに満ちていた。


 ――ここで、もう一度“おかえりなさい”を言わせたい。


 そう心に決めてから、すでに十日が過ぎている。

 右も左も分からない街で、言葉を覚え、働き口を見つけ、少しずつ資金を貯めた。

 その日、ようやく見つけたのだ。古びた木造の空き家。軒は傾き、扉は軋み、窓には蜘蛛の巣。だが――彼の目には、これ以上ない宝物に見えた。


「ふむ……ここなら、光も入るし、風も通る。悪くない。」


 隣で腕を組む初老の大家が、訝しげに眉をひそめる。

「坊主、まさかここで商売をするつもりじゃないだろうな? しかも“喫茶”とやら、なんだそれは。」


「お茶とお菓子を出して、お客さんに休んでもらう店です。名前は――『喫茶ルミエール』。」


「ルミエール……聞いたこともねぇ言葉だ。」


 男はにこりと笑った。

「光、という意味です。暗い道でも、帰る場所に灯があれば人はまた歩けますから。」


 老人は呆れたように肩をすくめたが、その瞳の奥にはわずかに興味が光っていた。

 こうして、“ルミエール”は正式に生まれた。


 ――だが、夢の始まりとはえて、現実は甘くなかった。


 数日後。店の中には粉と煙が舞っていた。

「……焦げた?」


 異世界の食材は、どれも彼の知るものと微妙に違っていた。

 小麦は香りが強く、油は獣の匂いがする。火力も安定しない。

 かつてのようにホットケーキを焼こうとすれば、すぐに真っ黒だ。


 だが店長はへこたれなかった。焦げた皿を並べ、味を確かめ、改良し、また失敗する。

 その繰り返し。

 壁に貼られた試作メニューはすでに二十枚を超えていた。


 ある夕方、彼が厨房で粉をこねていると――

 かすかな物音がした。窓の向こうで、何かが動いた気がする。


「……ネズミか?」


 軽く扉を開けた瞬間、影が走った。

 小柄な少女だ。手には、店の金庫代わりの小箱。

 反射的に店長が声を上げる。


「おい、待てっ!」


 少女は慌てて走り出した。が、床に転がっていた鍋に足を取られ――

 ごとん、と派手に転ぶ。

 金貨が床に散らばり、少女は怯えた目で振り返った。


「……盗みか?」


 低い声に、少女の体がびくりと震える。

 髪は煤け、服はボロ布同然。年の頃は十七、八だろうか。

 瞳の奥には、飢えと疲れと、諦めがこびりついていた。


「す、すみません……! でも、食べるものが……」


 店長はしばし黙ったあと、ため息をついた。

 そして、散らばった金貨を拾いながら言う。


「腹が減ってるなら、盗むより食べさせる方が早いだろ。」


「……え?」


「座れ。皿は空いてる。」


 少女は呆然とした顔で立ち尽くす。

 だが、逃げる気力もなかった。

 しばらくして差し出されたのは、まだ焦げくさいスープだった。

 彼が初めて異世界で成功した――つもりの――試作品。


「……どうぞ。」


 少女は恐る恐るスプーンを口に運ぶ。

 その瞬間、わずかに目を見開いた。

 塩加減は強い。風味も粗い。けれど、温かい。

 胃の奥が、じんわりとほどけていく。


「……おいしい。」


 その言葉を聞いて、店長は初めて安堵の笑みを浮かべた。


「お前、名前は?」


「……レムリア。」


「レムリア。俺は店長。明日から、ここで働け。」


「は、働く? あたしが?」


「そうだ。盗むより、作る方がずっと楽しいぞ。」


 少女は困惑のまま、皿を見つめた。

 “働く”という言葉が、遠い響きに聞こえる。

 だが、その夜、彼女は店を出ずに残った。

 誰かに追われるように逃げてきたその足が、初めて止まったのだ。


 翌朝、ルミエールの厨房に二人の姿があった。

 レムリアは戸惑いながらも、手伝いを始めていた。

 粉をこね、皿を磨き、水を汲む――どれも不器用だが、真剣そのもの。


「店長、これで合ってますか?」

「うん、上出来だ。焦げてもいい、焦げるってことは火が通ってる証拠だ。」


「そんな理屈……聞いたことありません。」


「俺もだ。けど、そう思った方が楽しいだろ?」


 レムリアはふっと笑った。

 初めて見せた、年相応の笑顔だった。

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