北海道羆事件
@Nogishuya
第1話
北海道のヒグマ、人々はその存在を知りつつもその脅威を認識していないのではないか。成獣となると体長は1.5〜2.0m、体重90〜260kg、100mを7.2秒で走り、その殴打の威力は2トンを超える。これはそのヒグマが過去に起こしたと言われる事件である。
大雪山連峰の稜線が、夕陽を受けて銅色に染まっていた。深い森と清らかな川に抱かれた北海道・下富良野村幾寅は、自然の雄大さにあふれながらも、どこか人の暮らしを小さく感じさせるほどの静けさがあった。明治三十七年の夏、村の空気はその静けさをたたえ、麦の香りと川霧の匂いが、誰の胸にも穏やかさを運んでいた。
しかし、その日――七月二十日――その静けさは、取り返しのつかない闇に呑まれる。
Aの娘、十一歳のBは、両親が畑に出払ったあとの家で、いつも通りの朝を過ごしていた。囲炉裏の灰をかき、縁側の光の中を舞う埃を眺め、時おり小鳥の声に耳を澄ませる。見慣れた夏の光景だった。
だが、その光景は突然破られた。
家の外で、乾いた枝の折れる小さな音。風とは違う、重たくゆっくりした気配。Bが玄関に目を向けた瞬間、巨躯が影ごと家の中へ滑り込んだ。
ヒグマだった。
黒い毛並みの間に光る、獣の目。屋根を揺らすような呼気。そして、恐怖に動けなくなった少女へとまっすぐ迫る影。
家の中に響いた悲鳴は、森の奥へと吸い込まれた。ヒグマは少女をくわえ上げると、荒れた息を吐きながら林の闇へ消えた。
誰も、その瞬間を見てはいない。
夕刻、畑仕事を終えたA夫婦は、家に近づくにつれて胸騒ぎを覚えた。戸口は半ば開き、家の中に漂ういつもと違う匂い。娘の名を呼び続けても返事はなかった。
胸の奥に冷たいものが広がった。すぐに近隣の住民へ知らせ、村人たちが灯りを手に集まった。捜索が始まる。
家からほど近い道で、かすかな血の跡が見つかった。さらに五十メートル進むと、イバラに引き裂かれたように布の切れ端が絡んでいた。手に取ると、それは紛れもなくBの着物の一部だった。
Aはその場に膝をついた。「頼む……どうか無事でいてくれ……」と、祈りとも呪いともつかぬ声が漏れた。
だが、森は静かだった。空知川のせせらぎだけが、どこか遠く虚ろに聞こえた。
それからさらに六百メートル、捜索隊が笹藪の中をかき分け進んでいったとき、最初に息をのんだのは若い村人だった。
「……あった……」
彼が落とした灯りの炎が揺れ、笹の間に横たわる小さな影を照らした。少女の姿は、もはや言葉にできるものではなかった。自然が牙をむいた痕跡が、あまりにも生々しく残されていた。
A夫婦がその場へたどり着いたとき、誰も声をかけられなかった。母の叫びは夜の森を震わせ、父は震える手を拳に変え、空を仰いだ。沈みゆく陽が、二人の姿を赤く染めた。
その後、村総出でヒグマの捜索が行われたが、獣は山の奥深くへと戻ったのか、ついに捕らえられることはなかった。
幾寅の村はその日を境に、自然の厳しさを胸に刻んだ。清流は変わらず流れ、森もまた、何事もなかったかのように風を受けて揺れ続けた。しかし、人々の心には、永遠に癒えることのない影が残った。
――北海道の雄大な自然は、人を育み、同時に試す。
そのことを、あの日の森は静かに語り続けている。
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