第29話 種なき石牢、記憶を呼び覚ます緑の魔法

 石造りの廊下を、足音を忍ばせて進む。

 私とフィンは、まるで夜の影そのものになったかのように、マルドゥーク侯爵邸の深部へと潜り込んでいた。表ではレオンとヴォルフが派手な陽動を行ってくれているおかげで、屋敷内の警備は手薄になっている。遠くから聞こえる爆発音と怒号が、彼らの奮闘を伝えていた。

 目指すは地下。父様と母様が幽閉されていると思われる、古びた地下牢だ。


「……エレオノーラさん、この先です。微かですが、人の気配と、それ以上に濃厚な殺気を感じます」


 フィンが小声で警告を発する。彼のエルフとしての鋭敏な感覚は、分厚い石壁の向こう側にある気配さえも捉えていた。

 廊下の突き当たりには、重厚な鉄の扉があった。鍵はかかっているようだが、フィンの解錠魔法があれば問題ないはずだ。

 彼が指先で空中に複雑な紋様を描くと、カチリ、と小さな音がして扉のロックが外れた。私たちは視線を交わし、一気に扉を開け放って中へと踏み込んだ。


 ——ガシャン!!


 その瞬間、背筋が凍るような金属音が響き渡った。

 私たちが部屋に入った直後、天井から巨大な鉄格子が凄まじい勢いで落下し、退路を完全に断ってしまったのだ。

 罠だ。

 私たちは、誘い込まれたのだ。


「ようこそ、歓迎するぞ。エレオノーラ・フォン・ヴァインベルク」


 部屋の奥、一段高くなったバルコニーのような場所から、嘲るような声が降り注いだ。

 そこには、扇で口元を隠し、歪んだ笑みを浮かべるマルドゥーク侯爵の姿があった。そしてその隣には、巨大な戦斧を肩に担ぎ、下卑た視線をこちらに向ける大男、赤蠍団の頭目ザンガが控えている。


「マルドゥーク侯爵……! 父様たちはどこです!」


 私が叫びかけると、侯爵は芝居がかった仕草で肩をすくめた。


「焦らずとも良い。お前たちの悲鳴をたっぷりと聞かせた後で、あの世で再会させてやるゆえな。……それにしても、まさか本当にノコノコと現れるとは。飛んで火に入る夏の虫とは、まさにこのことよ」


 部屋の四隅にある隠し扉が開き、そこから武装した傭兵たちが次々と現れる。その数、およそ二十人。さらに、部屋の最奥部にある巨大な扉が開き、地響きと共に二体の異形が姿を現した。

 それは、全身が黒曜石と鋼鉄で構成された、古代の戦闘用ゴーレムだった。身長は三メートルを超え、その無機質な単眼には、標的を殲滅するまで止まらない殺戮の赤い光が灯っている。


「ひゃはは! どうだ、お嬢ちゃん! 今度は森の木も、変な虫けらも助けには来ねぇぜ! ここでテメェを八つ裂きにして、前の借りを返させてもらう!」


 ザンガが舌なめずりをする。彼らの配置は完璧だった。逃げ場のない密室。圧倒的な戦力差。


「ふふふ。ザンガからの報告で、貴様が植物を操る妖術を使うことは承知の上でしてな」


 マルドゥーク侯爵は、勝利を確信したように悠然と語り始めた。


「ゆえに、この部屋を用意したのだ。ここは地下深き石室。窓もなく、陽の光も届かず、土など一粒たりとも存在しない、死の世界。……さらに、貴様らが通過した入り口には、高感度の『物質探知結界』を張っておいた。もし植物の種子や苗木を持ち込んでいれば、警報が鳴り、即座に焼却される仕組みだったのだが……どうやら、隠密行動のために身軽さを優先し、丸腰で来たようだな?」


 侯爵の言う通りだった。

 種を持ち込めば、それが魔力反応源となって敵に探知されるリスクがある。植物はその場にあるものを利用すればいい、という私の判断が、ここでは裏目に出た形となった。

 この部屋の床も壁も天井も、すべて継ぎ目のない研磨された大理石で覆われている。植物が根を張る隙間など、どこにもない。

 文字通り、ここは植物にとっての不毛地帯。私の能力を封殺するために設えられた、処刑場だった。


「その絶望した顔が見たかった。……ゴーレムよ、やれ。ただし、殺すな。手足をもぎ取り、生かして捕らえよ。その女には、聖女を貶め、国を混乱させた罪をたっぷりと償わせねばならんからな」


 彼の非情な命令に応え、二体のゴーレムが重々しい足音を立てて前進を開始した。

 一歩踏み出すたびに、床が震える。その圧倒的な質量と破壊力の前では、人の身など木の葉のように脆い。

 フィンが私を庇うように前に出るが、彼の矢だけで、この硬度を持つゴーレム二体と傭兵たちを同時に相手にするのは不可能だ。


「エレオノーラさん、下がっていてください。僕が囮になって隙を作ります。その間に、何とかして脱出路を……」


 フィンの声には、悲壮な覚悟が滲んでいた。

 けれど、私の心は、不思議なくらいに凪いでいた。恐怖がないわけではない。ただ、それ以上に、侯爵の浅はかな知識に対する、静かな怒りと、確信があったのだ。


(種がないから、土がないから、植物は育たない? ……いいえ、違うわ)


 私はフィンの肩に手を置き、静かに首を横に振った。


「いいえ、フィン。逃げる必要はありません」


「えっ……? で、でも、ここではあなたの力が……」


「見ていてください。……侯爵は、一つ大きな勘違いをしています」


 私は、迫り来るゴーレムの前に、武器も構えず、ゆっくりと歩み出た。

 その無防備な姿に、ザンガが嘲笑を上げる。


「あぁ? なんだ、諦めて命乞いか? 今さら遅ぇんだよ!」


 ゴーレムが、その巨大な鉄の拳を振り上げる。風を切る音が、死の旋律のように響く。

 私は、両の手のひらを、冷たく硬い大理石の床に、そっと押し当てた。

 ひやりとした石の感触。生命の気配など、微塵も感じられない、冷徹な鉱物の塊。

 普通の魔術師ならば、ここで諦めていただろう。

 けれど、世界樹と同化し、『生命の宝珠』の管理者となった私には、聞こえるのだ。

 この石の奥底に眠る、遥か太古の記憶が。


(——聞こえるわ。あなたたちが、かつて生きていた頃の歌が)


 大理石。それは、遥か昔、海の中で生きていたサンゴや貝殻などが堆積し、長い時間をかけて結晶化したもの。……科学的に見れば、高熱と圧力による変成の過程で、元の形など跡形もなく消え失せているかもしれない。

 けれど、星の記憶を辿れる私には分かる。その結晶の奥底には、彼らと共に海を漂っていた太古の藻類や海草たちの『生命の痕跡』が、魔力の残滓として幽かに、でも確かに眠っているのだ。

 形は変われど、そこには『海に生きたもの』の魂が刻まれている。

 私の【神緑の恩寵】は、いまや種を育てるだけの力ではない。その微かな記憶を呼び覚まし、新たな命として再構築する『創造』の力。


「——目覚めなさい! 石に刻まれし、碧き海の記憶よ!」


 私が叫び、ありったけの魔力を床へと注ぎ込む。

 翠色の光が、私の手を中心に波紋のように広がっていく。

 次の瞬間、あり得ないことが起きた。


 パキ、パキパキパキ……ッ!!


 硬度を誇るはずの大理石の床に、無数の亀裂が走ったのだ。

 そして、その亀裂から噴き出したのは、土でも、水でもない。

 太古の海の記憶が具現化し、石そのものが変質して急激に成長した『石化植物』の蔦だった。

 それは、白いサンゴのような硬質さと、海藻のようなしなやかさを併せ持つ、白亜の古代植物。化石が命を取り戻し、深海を揺蕩うように空気を泳ぐ、幻想的で強靭な蔦。


「な、なんだと!? 石の床から植物が……!?」


 マルドゥーク侯爵が、信じられないものを見る目で絶叫する。

 無数の白い蔦は、まるで大蛇のようにゴーレムの足に絡みつき、その鋼鉄の装甲を締め上げる。


「ガ、ガガ……ッ!?」


 ゴーレムが動きを止めようともがくが、石化植物の強度は鋼鉄にも劣らない。さらに蔦は、関節の隙間へと強引に侵入し、内部の歯車を食い破っていく。

 瞬く間に、二体の巨人はその場に縫い付けられ、身動き一つ取れなくなった。


「種も土も必要ありません。この星にあるもの全てが、かつては命だったのですから」


 私が静かに告げると、ザンガは顔面を蒼白にして後ずさった。


「ば、化け物か……! こんなの、話が違うぞ!」


「——今です、フィン!」


 敵の動揺を、歴戦のエルフが見逃すはずがなかった。

 フィンは即座に弓を引き絞り、流れるような動作で三本の矢をつがえた。


「行きます……! 穿て、閃光!」


 ヒュン、ヒュン、ヒュンッ!

 放たれた光の矢は、正確無比な軌道を描き、動きを封じられたゴーレムの動力核である単眼と、傭兵たちが持つ武器を次々と弾き飛ばした。

 爆音と共にゴーレムが崩れ落ち、傭兵たちは武器を失って狼狽する。

 私たちは、たった二人で、この絶望的な状況を覆したのだ。


 その時だった。

 私たちが閉じ込められている部屋の、外の廊下から、激しい剣戟の音と兵士たちの悲鳴が聞こえてきた。

 ドォォォン!!

 凄まじい衝撃と共に、部屋の頑丈な鉄扉が、外側から爆破されたかのように吹き飛んだ。

 もうもうと立ち込める粉塵の中、一人の老紳士が、優雅に、しかし圧倒的な殺気を纏って現れた。

 その手には、白銀に輝く細身のレイピアが握られている。


「……お掃除の時間でございます」


 ヴァインベルク公爵家、筆頭家令セバスチャン。

 普段の温厚な彼からは想像もつかない、鬼神のような形相だった。その後ろには、すでに制圧された数名の見張りが転がっている。


「セバスチャン!?」


「お嬢様! ご無事でしたか! 遅くなり申し訳ございません」


 彼は私を見て安堵の表情を一瞬浮かべたが、すぐに鋭い視線をマルドゥーク侯爵へと向けた。


「公爵様と奥様は、すでに別働隊が屋敷の地下牢から救出いたしました。アラン殿下が密かに手配してくださった、王宮内の内通者の手引きでございます。……さあ、今のうちにこちらへ!」


 両親が無事だという報告に、張り詰めていた緊張の糸が切れ、膝が震えそうになる。

 私はフィンと共に、セバスチャンの切り開いた退路へと駆け出した。


「セバスチャン、筆頭執事のバルトルトはどうしたの? 彼もこの屋敷に来ていたはずだけど……」


 走りながら問うと、セバスチャンは冷徹な声で答えた。


「バルトルトでございますか。公爵様をマルドゥークに売った裏切り者……。先ほど、地下牢の見張り番をしているところを私が確保し、すでに王宮の近衛兵に引き渡しました。今頃は鉄格子の向こうで、自分の愚かさを噛み締めていることでしょう」


「そう……。ありがとう、セバスチャン」


 胸のつかえが一つ取れた。

 廊下に出ると、そこはすでに戦場と化していた。王家の紋章を掲げた近衛騎士たちが突入し、マルドゥークの私兵団を制圧し始めている。

 そして、その混乱の中心で、私は懐かしい姿を見つけた。


「……父様! 母様!」


 騎士たちに守られながら、気丈に立つ二人の姿。やつれてはいたが、その瞳には変わらぬ誇りがあった。


「エレオノーラ! 無事か!」


「まあ、エレオノーラ……! よくぞ、よくぞ無事で……!」


 私たちは駆け寄り、互いの無事を確かめ合うように抱き合った。母の温もりが、涙が出るほど愛おしい。

 父の後ろから、剣を構えたアラン殿下も姿を現した。


「マルドゥーク侯爵! 観念しろ! 屋敷は包囲されている!」


 追い詰められたマルドゥーク侯爵とザンガが、崩れかけた部屋から這い出してくる。

 ザンガは状況を悟り、舌打ちをした。


「ちっ、形勢逆転かよ。……悪く思うなよ、旦那。俺は沈む船には乗らねぇ主義なんでな!」


 ザンガは素早く懐から煙玉を取り出し、地面に叩きつけた。

 ボシュッ!という音と共に濃密な紫煙が広がる。


「へっ、ここまでだ! 首を洗って待ってな、お嬢ちゃん。この借りは、いつか必ず返すぜ!」


 視界が晴れた時には、ザンガの姿は消えていた。窓を破って逃走したのだろう。

 残されたマルドゥーク侯爵は、騎士たちに取り囲まれ、顔を歪ませていた。

 その表情は、恐怖から、やがて底知れぬ狂気へと変わっていく。


「……おのれ……おのれぇぇ……! ここまで来て……!」


 彼は血走った目で私を、アラン殿下を、そして父様を睨みつけた。


「終わらせはせん……! 私が築き上げてきた、この王国を……お前たちのような若造どもに、好きにはさせんぞ……!」


 彼は、壁に隠されていた奇妙なレバーへと、狂ったように駆け寄った。

 それは、ただの隠し扉のスイッチではない。そこから漏れ出す禍々しい魔力が、危険な装置であることを告げていた。


「私が手に入れられぬのなら、全て、破壊してくれるわ! この王都も、王家の歴史も、貴様らの未来も、全てなぁ!」


 制止する間もなく、彼が力任せにレバーを引き下ろす。

 ガコンッ、という重い音が響いた直後。


 ズズズズズズズ……ッ!!


 屋敷全体が、いや、大地そのものが悲鳴を上げるような、激しい縦揺れに見舞われた。

 壁に亀裂が走り、シャンデリアが落下する。地下の深淵から、低く、不気味な魔力の唸り声が響き渡ってくる。


「侯爵! 貴様、何をした!」


 アラン殿下が叫ぶ。

 侯爵は、崩れゆく壁を背に、狂ったように高笑いした。


「はははは! この屋敷の地下には、古代文明の遺産……都市の全機能を司る『魔力供給炉』の中枢が眠っているのだ! 私は、その安全リミッターを解除し、暴走させるスイッチを入れた!」


「なっ……!?」


「間もなく、この屋敷は木っ端微塵! そして、その爆発は、王都の地下に張り巡らされた魔力溜まりを次々と誘爆させ、連鎖的な大崩壊を引き起こすだろう! この王都全てが、火の海に沈むのだ!」


 父様の手紙の、途切れた最後の言葉が、私の脳裏に鮮烈に蘇った。

 『もしもの時は、彼らは王都そのものを道連れにするだろう』

 彼らが狙っていたのは、権力の奪取に失敗した際の、国そのものの破壊。

 自分たちのものにならないなら、壊してしまえという、あまりにも身勝手で幼稚な、しかし致命的な悪意。


 ゴゴゴゴゴ……!!

 揺れは激しさを増し、床からは紫色の毒々しい魔力の光が漏れ出し始めた。

 私たちは、個人的な復讐劇を超えた、都市の存亡をかけた最後の戦いへと、引きずり込まれようとしていた。

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