第2話 月夜の元騎士と、心も温まるジャガイモのスープ

 森の奥から注がれる鋭い視線に、私の身体は凍り付いた。

 心臓が早鐘を打ち、背筋に冷たい汗が流れる。

 逃げるべきか、声をかけるべきか。ここは法も秩序もある王都とは違う。剥き出しの自然と暴力が支配する未開の地だ。相手が野盗なのか、あるいは言葉の通じない蛮族なのか、それとも人間でない何かかも分からない。


(落ち着きなさい、エレオノーラ。ここで慌てては、淑女の名が廃るわ)


 今はもう、淑女である必要もないのだけれど、長年の癖というのは恐ろしいもので、恐怖を感じれば感じるほど、私の背筋は無意識に伸びていく。

 私は深く息を吸い込み、震える手をドレスの陰で握りしめながら、平静を装って茂みの方へと向き直った。相手がこちらの様子を窺っているのなら、無闇に背を向けて逃げ出すのは、獲物としての弱さを晒すことになる。


 私は咳払いを一つして、できるだけ穏やかで、かつ威厳のある声で語りかけた。


「……そこに、どなたかいらっしゃいますか? 私はエレオノーラ。今日から、この土地で暮らすことになった者です」


 私の声に、茂みが再びガサリと揺れた。だが、相手が出てくる気配はない。視線だけが、なおもこちらを射抜いている。

 敵意、というよりは、強い警戒心と……そして、どこか力のない、縋るような気配を感じた。

 日が完全に沈み、森の影は濃紺の闇へと変わっていく。このまま睨み合っていても埒が明かない。

 私はもう一度、声をかけることにした。


「危害を加えるつもりはありません。もし、あなたがこの森の住人であるのなら、ご挨拶をさせていただきたいのです」


 それでも、返事はなかった。

 しかし、気配が遠ざかることもない。まるで、動きたくても動けないかのように、その場に留まっている。


(怪我をしている……? それとも……)


 ともあれ、今日のところはこれ以上深追いするのは危険だ。暗闇の森へ入る勇気は私にはない。まずは自分の寝床と食料の確保が先決だ。相手が動かないのなら、こちらも動かないでいよう。


 私は振り返り、目の前の奇跡の産物——すくすくと育ったジャガイモの株を見つめた。

 まずは夜を越すための場所を探さなければ。幸い、少し歩いた先に小さな岩山があり、雨風を凌げそうな浅い洞窟を見つけることができた。私は騎士たちが置いていってくれた荷物を、何度も往復してそこへ運び込んだ。

 洞窟の中は埃っぽく、冷たかったが、獣の糞などの痕跡はなく、とりあえずのシェルターにはなりそうだ。一番奥の風が当たらない隅を選び、枯れ草を集めてその上に毛布を敷き、当面の寝床を作った。

 泉の水で顔を洗い、泥で汚れた手を拭う。水面に映る自分の顔は少し疲れていたが、その瞳は以前よりも生き生きとして見えた。


 とっぷりと日が暮れ、頭上には満天の星空が広がっていた。王都の空とは違う、圧倒的な星の数。天の川が、白く輝く帯となって夜空を横切っている。

 お腹が、くぅ、と可愛くない音を立てた。そういえば、朝からろくに食べていない。

 私は鍋と火打ち石を手に、再び外へ出た。洞窟の前で枯れ枝を集めて火を起こす。慣れない作業に手間取ったが、パチパチと音を立てて燃え上がる炎を見ていると、心細い心が少しだけ温まるようだった。


 そして、いよいよ初めての収穫だ。

 ジャガイモの根元に手を入れ、土を掘り返すと、ごろん、と驚くほど大きな芋がいくつも姿を現した。一つ一つが、私の握りこぶしよりも二回りは大きい。土の匂いが芳しい。


「……すごいわ」


 私のスキルで育てた作物は、ただ成長が早いだけではない。大きさも、そして内包する魔力量も、通常のものとは比べ物にならないようだ。

 私はその場で芋を洗い、小さなナイフで皮を剥くと、乱切りにして鍋に入れ、水から煮込み始めた。味付けは、持参した荷物の中にあった岩塩の塊を少し削って入れるだけ。王宮のディナーとは比べるべくもない、質素極まりないスープだ。

 しかし、鍋から立ち上る湯気と共に香る、芋の甘くほっくりとした匂いは、どんな高級な香水よりも私の嗅覚を刺激した。


 コトコトとスープが煮えるのを待つ間、私は膝を抱えて炎を見つめていた。

 これから、ここで生きていくのだ。一人で、この美しい星空の下で。

 そう思うと、不思議と寂しさはなかった。むしろ、自分の手で何かを作り出す喜びで胸が膨らむのを感じる。

 ようやく煮えたスープを木製の器によそい、ふーふーと冷ましながら一口すする。


「……! おいしい……!」


 口の中に広がる、濃厚なジャガイモの甘みと旨み。ただ塩で煮ただけなのに、これほどまでに深い味わいが出るとは。芋が舌の上でほろりと崩れ、温かい滋養となって身体に染み渡っていく。

 これが、私の力。私の作物。

 私は夢中でスープを飲み干した。身体の芯から温まり、疲れていた心がじんわりと解けていく。これなら大丈夫。明日からも、きっとやっていける。


 満足感に浸りながら鍋に残ったスープをどうしようかと考えていた、その時だった。

 ——ズルッ、ズルッ……。

 先ほど視線を感じた森の茂みから、今度は何かを引きずるような、重苦しい音が聞こえてきた。

 そして、ガサリと茂みが割れ、這い出るようにして現れたのは——全身ボロボロの、一人の男だった。


「……あ……」


 男は、幽鬼のように痩せこけていた。

 伸び放題の黒髪と無精髭に覆われているが、その隙間から覗く灰色の瞳は、狼のように鋭く、しかし高熱に浮かされたように虚ろに光っている。

 年の頃は二十代半ばだろうか。腰には長く使い込まれた剣を差しているが、それを抜く力もなさそうだ。

 何より目を引いたのは、彼の脇腹に巻かれた、どす黒く変色した包帯だった。古傷が開いたのか、あるいは毒を受けているのか。そこから漂う腐臭と血の匂いが、彼が瀕死の状態であることを告げていた。


(この人、死に場所を探して……?)


 男は私と鍋を交互に見比べ、激しく葛藤しているようだった。その喉が、渇きで張り付くような音を立てる。

 彼はおそらく、スープの匂いに、朦朧とする意識の中で本能的に引き寄せられてきたのだ。


 私はゴクリと唾を飲み込み、燃え残った焚き火の明かりを頼りに、そちらへ向き直った。


「……あなた、お怪我をされているのね」


 私の言葉に、男は警戒するように身体を強張らせたが、すぐに激しい咳き込みと共にその場に崩れ落ちそうになった。


「警戒しなくても大丈夫。私はただの追放者です。……お腹が空いているのでしょう? 毒など入っていませんから」


 私は意を決して、スープの入った鍋を手に、ゆっくりと男の方へ歩み寄り、その前にそっと置いた。


「さあ、どうぞ。食べて。……生きる気力がないのなら、食べてから考えなさい」


 私の言葉が最後の引き金になったのか、男は震える手で鍋を掴むと、まだ熱いそれを両手で抱え、器も使わずに直接口をつけて、がむしゃらにスープを飲み干し始めた。

 ごくごく、という喉を鳴らす音が響く。その様は、必死に命を繋ぎ止めようとする獣のようであり、見ていて胸が痛くなるほどだった。


 鍋が空になるまで、そう時間はかからなかった。

 男は最後の汁一滴、底に残った芋のかけらまで舐め取ると、ふぅ、と長く深い息をついた。

 すると、不思議なことが起きた。

 男の顔色が、見る見るうちに良くなっていったのだ。土気色だった肌に赤みが差し、虚ろだった瞳に、理性の光が戻ってくる。

 私の作った野菜には、微量だが回復の魔力が宿っている。それが、弱り切った彼の身体に劇的に作用したのかもしれない。


「……助かった。礼を言う」


 初めて聞く彼の声は、少し掠れていたが、低く落ち着いた、心地よいバリトンだった。


「どういたしまして。お口に合ったのなら良かったわ」


「ああ。……身体の芯が、焼けるように熱い。こんなに力が湧いてくる飯は、初めてだ」


 男は自分の手のひらを見つめ、驚いたように握ったり開いたりしている。

 やがて、彼は脇腹の傷口を押さえながら、ゆっくりと、しかし確かな足取りで立ち上がった。その立ち振る舞いには、先ほどまでの瀕死の気配はなく、手練れの戦士特有の鋭い雰囲気が戻っていた。


「……俺は、ここで野垂れ死ぬつもりだった」


 男は、自嘲気味に呟いた。


「古巣の連中に裏切られ、毒を受け、森へ逃げ込んだが……高熱で身体が動かず、狩りもできず、ただ腐っていくだけだった。……だが、あんたのスープが、俺を死の淵から引き戻した」


 彼は私を真っ直ぐに見つめ、腰の剣に手をかけた。


 シャラリ、と涼やかな金属音が鳴る。

 私はビクリと身構えた。


(ま、まさか、回復したから襲うつもり!?)


 しかし、彼の行動は私の予想とは全く違うものだった。

 彼は剣を構えると、私に背を向け、洞窟の入り口付近にどかりと腰を下ろしたのだ。そして、鋭い視線で闇の森をスキャンし始めた。まるで、見えざる敵から私を守る番犬のように。


「……何をしているの?」


「これは、スープの代金だ」


 男は、こちらに視線を向けないまま、ぶっきらぼうに答えた。


「夜の森は危険だ。獣も出るし、魔物も徘徊する。……あんたが眠るまで、見張りをしてやる。命を拾った礼くらいはさせろ」


 どうやら彼は、一杯のスープの借りを——そして命を救われた借りを、こうして身体で返そうとしているらしい。不器用だが、義理堅い人なのだろう。その背中には、どこか哀愁と、そして確かな信頼感が漂っていた。

 私は彼の背中を見つめながら、くすりと笑った。


「ふふ。ありがとう。助かるわ。私はエレオノーラ。あなたの名前は?」


 私の問いに、男は一瞬だけ動きを止め、ぽつりと呟いた。


「……レオン」


 それが、私と彼の最初の出会い。

 一杯の塩味だけの——彼にとっては命を繋ぐ——ジャガイモのスープから始まった、私と、訳ありの元騎士レオンとの奇妙な共同生活の幕開けだった。

 この時の私はまだ知らない。彼が受けた「裏切り」の正体が、やがて私自身の運命とも大きく交差することになるということを。

 ただ、一人きりのはずだったこの冷たい荒野で、背中を預けられる温かい隣人ができたことが、今はただただ嬉しかった。

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