VFRの紅い閃光 ― 夜峠最速、技術で魅せる走り屋譚 ―

クソプライベート

第1話 V4始動:峠前夜の点検と哲学

 閉店時間を告げるシャッターの音が、ゆっくりと整備場に響いた。

 客のバイクがすべて引き上げられ、床のオイル跡がモップで拭き取られたあと、ガレージには一台だけが残る。


 赤いカウルに白い蛍光灯が映り込んでいた。

 Honda VFR800F。

 布施玲央の、相棒だ。


「……今日も付き合ってくれよ」


 玲央はぼそりと呟き、VFRの左側に膝をついた。

 サイドスタンドでわずかに傾いた車体。その重さのかかり方で、チェーンの遊びがどの程度変化しているか、もう身体が覚えている。


 リヤホイールを軽く回しながら、チェーン上部を指先で持ち上げる。

 コツ、とした抵抗。

 目盛りを当てるまでもなく、おおよそ25ミリ前後――許容範囲。ただし、上りでラフに開けるには、ほんの少しだけ張りたい。


「一コマ分、詰めるか」


 工具箱から12ミリのメガネを取り出す。

 アクスルナットを緩め、チェーンアジャスターを左右均等に四分の一回転。

 その“わずか”を、玲央は知っている。スタートの一押し、シフトアップのタイミング、スロットルを戻した瞬間のショック――全部が変わる。


 リヤホイールを再び回す。

 ジャラ…という音はなく、油膜の乗ったローラーだけが静かに回転している。


「よし」


 次はフロントだ。

 タイヤのサイドウォールに手のひらを当て、軽く押し込む。

 空気圧計で測るまでもなく、少し高めの感触。街乗りにはちょうどいいが、今夜の目的を考えれば、もう少し“動かしたい”。


 コンプレッサーのホースを接続し、慎重にエアを抜く。

 空気圧計が指す値と、自分の手の感覚がぴたりと一致したとき、玲央はようやく息をついた。


「フロント、少しだけ落として……リヤはそのまま。初めての峠見学だし、攻めるつもりはない」


 そう言いながらも、整備は「見学」にしては明らかに行き過ぎていた。

 フロントブレーキレバーを握り、初期制動の出方を確かめる。レバーをわずかに引いたところで、パッドがローターをそっと挟み、そこから先はリニアに制動力が立ち上がる。


 客のバイクなら「十分ですよ」と笑って返すだろう。

 だが、これは自分の機体だ。

 峠の下りで、ブラインドの先が読めないとき、ほんの数ミリのレバーの違いが、自分の命を左右する。


「フルードの色……まだ大丈夫。タッチも出てる」


 マスターシリンダー越しに覗き込み、小さく頷く。

 工具を持つ手は淡々としているのに、胸の奥には、落ち着かない波が何度も押し寄せては引いていた。


 ――今日、ついに行く。


 ただの夜のドライブじゃない。

 噂でしか知らない“走り屋たちの峠”に、初めて足を踏み入れる。


 最後に、燃料計を確認する。

 メーターは既にキーオフで暗いが、玲央は昼休みに満タンにしておいたことを覚えている。

 残るチェックは一つだけだ。


 エンジン。


 右側に回り込んで、V4エンジンのシリンダーヘッドを見下ろす。

 冷えたアルミの質感。

 整備マニュアルで見飽きた図面と、目の前の現物が、頭の中でぴたりと重なる。


「VTECの切り替わり、今日は意識しておきたいな……」


 おおよそ6500回転前後。

 そこを境に、バルブの数が変わる。

 音も、トルクの出方も、別物になる。


 問題は、その“段差”だ。

 上りで切り替われば気持ちよく伸びるが、コーナー進入やバンク中で変身されると、トラクションの抜け方が変わる。その瞬間を、知らないまま走るのは危ない。


「知らない速さは、信用できない」


 玲央が整備士を志した理由も、そこにある。

 中学生の頃、動画サイトで見た“峠最速”たちは、誰もが軽々しく言っていた。


『バイクが勝手に曲がってくれる』

『気づいたら立ち上がってた』


 それが、どうしても嫌だった。


 なぜ曲がるのか。

 なぜ加速できるのか。

 自分の手と、機械の中身と、路面の状況。そのすべてが説明できない速さに、自分の命を預ける気にはなれなかった。


「だから、俺はこいつを理解する」


 ボルト一本、クリック一つ。

 サスの伸び減衰を二ノッチ締めれば、切り返しでの戻り速度がどう変わるか。

 リアのプリロードを一段上げれば、ブレーキング時のノーズダイブがどれだけ減るか。


 すべてに“理由”が欲しい。

 そのうえで、誰よりも速くありたい――と、思ってしまったのだから、どうしようもない。


「おーい、玲央。まだやってんのか」


 背後から、店長の声が飛んだ。

 レジの締めを終えたらしく、手にはレシートの束を持っている。


「はい、最終チェックだけです。チェーン張りと、ブレーキタッチと、空気圧をちょっと」


「また細けえな。客のバイクより自分のをいじってんじゃないか?」


「客のは、仕様どおりに戻すのが仕事ですから。

 自分のは……仕様を自分で決められるんで」


 そう言うと、店長はふっと笑った。


「……峠、行くんだろ?」


 一瞬、返事に詰まる。

 しかし誤魔化しても意味がない。店長は、玲央がこの一ヶ月、峠周辺の地図や気温、路面の写真をしつこく集めていたことを知っている。


「見学だけです。走り屋のラインとか、ブレーキのタイミングとか、実際どうなのか気になって」


「ま、そう言うと思ったよ。

 くれぐれも“理解してない速さ”に釣られるなよ」


「分かってます」


 即答すると、店長は少しだけ真面目な表情になった。


「昔な、うちの常連にもいたんだよ。理屈抜きで速いやつ。

 でもそういうのは、理屈抜きで消える。

 お前みたいなのがちゃんと残ってくれた方が、店としてはありがたい」


 その言葉に、玲央は苦笑する。


「店の心配より、まずは俺の心配してくださいよ」


「してるから言ってんだよ。

 あと、これ持ってけ」


 店長は、カウンターから小さなLEDライトを放って寄越した。

 ヘルメットの側面に貼り付けられる補助灯だ。


「トンネル出口とか、谷側で真っ暗なところもある。

 見えない路面は、いくら理解してても読めねえからな」


「ありがとうございます」


 ライトをつかみながら、玲央は心のどこかで、ひとつ区切りがつくのを感じた。

 これで、もう言い訳はできない。


 すべての工具を定位置に戻し、床を軽く掃く。

 タイムカードを押してから、最後にVFRの横に立った。


 赤いフルカウルに、シャッターの隙間から差し込む夕暮れの名残りが映り込む。

 この機体の中に、オイルが何リットル入っていて、冷却水がどこを回り、どのボルトがどのトルクで締まっているか――玲央はほとんど言える。


 それでも、まだ知らない挙動がある。

 知らない音、知らない揺れ、知らない限界。


「……教えてくれよ、今夜」


 キーを差し込む。

 ONに捻ると、メーターが一瞬だけフルスイープし、各部のインジケーターが点いては消える。


 スターターボタンを押す。

 セルモーターの回転音に続いて、V4が目を覚ます。

 低く、しかし芯のある鼓動。アイドリング回転が安定すると、わずかな振動がステップを通じて足裏に伝わってきた。


 この振動も、路面の情報の一つになる。

 滑りやすいペイントラインを踏んだとき、グリップの抜ける瞬間、タイヤが拾う小石の感触――全部がこのV4を通して、玲央に伝わる。


「行ってきます」


 誰に向けた言葉か、自分でもよく分からない。

 店長か、バイクか、それとも、まだ見ぬ峠の連中か。


 クラッチを握り、ギアを一速に落とす。

 わずかに前へと出ようとする車体を、ブレーキで抑える。


 シャッターを開けると、外は完全な夜になっていた。

 街灯の明かりが、アスファルトに黄色い円を落としている。


 玲央はVFRを押し出し、シャッターを閉めた。

 ヘルメットをかぶり、顎紐を締める。LEDライトの位置を確かめ、シールドを下ろした。


 軽くスロットルを煽る。

 回転針が、VTECの“境目”より下でふわりと揺れた。


「まずは、見て、覚える。

 速さの理由を、全部言葉にできるようになってからだ――本気を出すのは」


 そう言って、自分の中に線を引く。

 まだ、“見学”の夜だ。


 クラッチを丁寧に繋ぐ。

 VFR800Fは、するりと夜の街路へと滑り出した。


 これから向かう峠の名前を、玲央は胸の中で一度だけ呟く。

 そこは、噂で聞く。


 ――夜峠最速たちが、本気で走る場所だと。

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