第3話 今何時?
すっかりと力の抜けた私の左腕から、するりとパチモンが抜け出る。それから私の正面、ちょうど両の太腿のあたりでお行儀よくこちら向きお座りをすると、にゃあと一鳴き――ではなく「あかね」と私を呼ぶ。
「おはよう。目は覚めた?」
「やっぱり、パチモンが喋ってる」
パチモンの問いかけは当然聞こえていたが、それよりも眼前にある事実が今一度私にそれを口にさせる。そして、パチモンはといえば明らかにそうだとわかるように項垂れ、改めてため息を吐く。それは、つまり会話が成立しているということに他ならない。
「あのね、さっきも言ったけど、僕はいつだって喋ってるんだよ。あかね達がそれを聞こうとしないだけでさ」
「聞こうとしないって、だって、そもそも猫が喋るだなんて」
「ありえない?」
言葉尻を言い切るより早くに、先回りしたパチモンがそれを捉えて訊ねてくる。おかげで語尾を奪われた私は言葉に窮し、口ごもってしまう。
パチモンの尻尾が右に、左に揺れる。
「大事なのはそんな常識や思い込みじゃないんだよ。本当に大切なのは、素直になることなんだ。今あかねが見て、聞いて、感じることにね」
パチモンが音もなくベッドから飛び降り、ゆっくりと歩いたかと思うやぴょんと素早く飛び上がり、机の上に着地する。
「あかねの常識から言えば猫は喋らないのかもしれないけど、今、僕とあかねはこうして会話をしている。なら、今はそれが真実なんだよ」
ね。とでもいうかのようにパチモンが尻尾を振り、首を傾ける。それも含めて今もって信じがたいことだらけなのだが、パチモンの言う通り、それが事実である以上そうであると受け入れるほかない。
「正直全然よくわかってないけど、わかったよ」
言葉通りまるで分っていない私だけど、意思表示としてしっかりと頷いて見せる。あれこれ考えたところでどうせわからないのならば、むしろ何も考えなければいいのだ。それこそパチモンの言う、目の前の真実に委ねよう。
「うん、どうやらその分ならすっかり目は覚めたみたいだね」
「どうだろう? むしろ目が覚めたからこそ、今は夢でも見ているんじゃないかって思えてきたよ」
もぞもぞと布団から抜け出し、ベッドに横向きに腰掛ける。
「そんなことないよ――と言いたいところだけど、夢を見ているっていうのは、言いえて妙な表現かもね」
「え? ちょっとパチモン、それってどういうこと?」
驚く私を尻目に、パチモンは机から一飛びでベッドに飛び移ってくると、私の背後に回って今度は背中をぺしぺしと叩いてくる。
「そんなことより、起きたのなら早く準備しないと。せっかく起こしたのに間に合わなくなっちゃうよ」
「パチモン痛いって。それに準備とか間に合わなくなるとか、いったい何なの?」
猫パンチを連打するパチモンを捕まえようと背に両手を回すも、パチモンはそんなのはお見通しとでも言うようにするりとすり抜けていく。それからベッドから降り、部屋のドアの前でお行儀よくお座りの姿勢を取る。
「準備っていうのはもちろん出かける準備のことさ。だからほら、あかねは早く着替えて。今じゃないといけないところがあるんだよ」
「今じゃなきゃいけないところって、そもそも今って真夜中でしょ?」
そう言ってからに、ベッドサイドの目覚まし時計に目をやる。果たして今は深夜の二時か、三時か――しかしてそれは、そのいずれでもなかった。
「え?」
追いつかない思考に、感嘆符だけが自然と零れ落ちる。だってそうでしょ? 私は今が何時か知りたいだけだったのに、その答えが「読めない」なんだから。
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