第13話
一晩休むと気持ちはすっきりとしていた。
外は雨が降っている。大学へ行くまで少し時間があったのでだらけていると、余裕があって元気そうだからと母の芳子に皿洗いを頼まれてしまった。
大学生になったら一人暮らしをしてみたいと高校生の時に思った夢も、大学が実家から近いために叶わなかった。
小学校にいた長い時間を勉強に費やし、中学受験をして私立に行ったのは親に言われるがままで、親からの無言の期待と圧力があったために逆らうことはできなかった。
逆らえない性格だった。そしてその期待と圧力の先で、欲しいものを手に入れることはできなかった。
小学生の時のトラウマから気配を消してしまった自分のミスとはいえ、ぼっちの六年間は長く、辛かった。
いつもなにかの圧力に負けて負けつづけて、妥協していくのが人生なのだろうかと、時々疑問に感じる。
それが人生なのだろうか。それも人生なのだろうか。
それでも大学に入ってから友達を作ることはできたから、少しは救われているのだが。
「行ってきます」
食器を洗い終えて荷物を持つ。芳子に紫陽花の咲く庭先まで見送られる。
家の敷地内を出ると突然「あの」と声をかけられた。振り返ると細身で髪をひとつにまとめた女性が立っていた。
女だ、おっしゃあ、昨日の今日でいいことがあったぜと内心で叫んだ。自分の倍以上は生きていると思える女性だが、よく見ればなかなかの美人だ。
もう声をかけられるだけでも嬉しいのだ。
「突然すみません。松田さんのお宅を御存知ないですか。この辺りのはずなんですが道に迷ってしまって。私、光川俊子というものなんですが」
近所に松田姓はいなかったように思う。それとも、自分の知らない間に松田という名字の人が引っ越してきたのだろうか。
「え、え、っと。えっと、ち、ち、ちょっとわかりません……」
女性とあまりに久しぶりに話すのでどもってしまいそんな自分に絶望する。
やっぱり模擬演習は必要だ。
「そうですか……」
「あ。えっと、あの。母ならわかるかも。そこにいるので聞いてみます」
言って庭に戻る。母が怪訝そうな顔をしていた。
「あんた、誰と話しているの」
「誰って、そこで女の人が聞いているじゃん。松田っていうお宅はどこですかって」
「誰が聞いているの」
「だからいるじゃん、そこに女の人」
母の表情は益々険しくなる。
「誰もいないわよ」
高史は再び庭先の通路を見つめる。俊子はうっすらと微笑みを浮かべ、申し訳なさそうに会釈し去っていく。怖い表情をしている母に怯えたのだろうと思った。
「かわいそうに」
「なにが」
「だから……」
人がいるのにいないもののように扱うなんて、と言おうとして口を閉ざした。自分は空気として扱われてきた。だから人というのは誰もがある程度他人に対してそのような態度を平然と取ることがあるものだと思いこんできた。
例えば路上でチラシを配っている人を無視する人がいるし、見知らぬ怪しげな人から話しかけられるとその人がいないかのように振る舞い歩き続ける人もいる。
しかしそれらは彼らを空気のように扱っているのではなく、身を守る方法であるのだと最近漸くわかるようになってきた。
だが、母はただ道に迷っている人を一度でもいないものとして振る舞ったことがあるのだろうか。そういうことができる性格ではない。
となると、高史にとってはいる人に見え、母にとっては誰もいない、ということになる。
母と高史で見えている世界が違うのだ。
体が反射的に反応し、すぐに女性のあとを追った。
しかし女性はどこにもいない。雨足が強くなり、傘を激しく打ちつける。
今のは。
静かに顔をあげ、駅に続く路地を見つめる。
普段人の少ない通りは、やたらと人が多く感じられた。
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