研修医は一途に愛を囁く

蒼龍 葵

第1話 全てを奪い去った男


 夜の新宿は二つの顔を持ち、煌びやかな別世界へと変貌を遂げる。人気の少ない路地に入ると、一部の殿方を招き入れる楽園がある。


「──なぁ、堅祐けんすけ……お前初めてなんだろう? 飲み過ぎだって」

「うるさい。あの面倒な親なんて構ってられっか」


 待ちに待った二十歳。やっと酒が飲める、やっと煙草が吸える、やっと親に少しだけ背伸びができる──。そう思い、悪友達とハメを外してたどり着いた先がここ、新宿二丁目だった。

 初めての酒と、もてなしてくれる男同士の会話は、堅祐のつまらない家庭環境を綺麗に洗い流してくれた。


 花巻はなまき堅祐、二十歳。現在東京T大医学部ニ年生。両親は青山の一等地に本社ビルを構えるM銀行の本部長。

 幼い頃から厳格な父親の決めた道から外れることを一切許されず、毎日勉強、勉強と窮屈な暮らしを強いられてきた。

 仕事人間の両親に育てられた分、お金だけは一度も困ったことがない。

 世の中、金で回っている。そう思っていたし、金で買えないものなんて絶対にないんだと思い込んでいた。


「ねぇ、マヤさん……もうちょっと付き合ってくれる?」

「やれやれ、手のかかるお坊ちゃまだ。高くつくぞ?」


 堅祐の目の前で呆れたようにため息を吐いているこの人はゲイバー「EDEN」のスタッフ、マヤ。 勿論、それが源氏名なのか本名なのかは知らないが、プライベートに一切踏み込まないのがここのルール。

 色素が少し薄い茶色がかったマヤの瞳は、見る者を全て魅了する。

 くすりと微笑むその妖艶な表情に、一切のあどけなさはなく、甘い香りと共に大人の色香を漂わせている。

 栗色のショートヘアに小柄な体格。可愛らしい外見と相反する妖艶さがちらちら透けて見えた瞬間、堅祐の心は一瞬で彼に捕らわれた。


「俺、マヤさんともっと一緒に居たい……」

「じゃあ、ホテルでも行く?」


 耳朶にキスされそうな距離でそう囁かれた瞬間、相手が男であることもすっかり忘れその気になった。


 昔から付き合う女に関して散々言われ続けてきた反動で、悪友と色々悪いことをしてきた。

 高校にあがる前に女家庭教師から初めての手解きを受け、その後は女友達と悪友を交えて複数の乱交もした。

 手軽に遊べる金があることと、堅祐の見た目の華やかさで女達はすぐに溺れた。「堅祐は女を引き寄せる街灯のようだ」と悪友に言われたこともある。

 手軽に気分を払拭してくれる女は好きだが、みんな親の金をアテにするので結局、自分を見てくれるわけではない。

 親のように仕事人間で堅苦しく生きるしかないのであれば、今はこの二十歳という瞬間を楽しんで、自由に遊びたい。

 だからと言って、堅祐は完全にノーマルだ。遊びで男に溺れるようなことは一度もなかった。

 ゲイバーだって初めての体験。なのに、ここまで心を鷲掴みするひとに会ったのは始めてだ。


「もう、マヤさん上手すぎ……」

「ん……」


 あの時は、本当に余裕なんて微塵も無かった。

本当、すっげえ格好悪い。けれども、この人を今手放してしまったらもう永遠に会えないような気がしたんだ。


 手を繋いだまま気怠い身体を投げ出したままベッドで眠りについて、朝を迎えた時は既に彼の姿は消えていた。

 マヤはまるで堅祐の全てを奪い取った嵐のような人だ。

 しかし、初めて会ったあの日を境に、彼は店から忽然と姿を消した。何度も店を訪ねたが、誰も詳細を知らない。

 いや、──元々、プライベートには関与しないのがEDENのルールなのだから教えるはずがないのだ。

 初めての酒と、初めての男と、初めて結合した熱と身体が、あの甘い声、全てを欲して焦がれる程の情欲。

 幾度となく新しい女と肌を重ねても、この強烈な飢えを満たしてくれる者は一人もいなかった。

 

 あれから、四年。

 特に目的も無かった堅祐は親の敷いたレールに乗っかり、T大医学部をストレートで卒業して、附属の大学病院の医療センターで研修医に着任する。

 医者を目指そうと思ったのは、同じ新宿で働いていたら、何かのキッカケで彼が来るかも知れないという淡い期待があったからだ。


 もう一度あの人に会えるだろうか。

 この、飢えと渇いた心を満たしてくれるあの人に会いたい。

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