第2話
ポツリ、ポツリと落ちていく血の雫があの子が綺麗にした床を汚している。
こんなんじゃ死ねない、ただ痛いだけ。
やがて血は止まり固まって新しい傷跡が完成する。
今日もやっぱりダメだった。
死にたい死にたいと心で思っても自然と湧き上がる恐怖が邪魔をする。いつかこの恐怖を克服することができるのだろうか?
死にたいと思う自身の弱さよりも死への恐怖という本能的な感情を克服しようとしていた。
今のアリアにとってそちらの方が遥かに楽に思えたから。
♢
少女は次の日の朝もその家を訪れた。
チャイムを鳴らし出てくるのを待つ。
今日も一回では出てこない、ならばと何度も何度も繰り返す。
しかし今日はそれでも出てこない。
これは少女にとって想定済み、昨日のアリアの反応は明らかに自分の訪問を嫌がっていた。
家にあげることを拒む人間が取るべき行動は完全なる無視。
そして同時に全ての鍵を施錠し侵入経路を塞いでくる。
おそらく昨日の事で二階の窓もしっかり施錠されているだろう、かといって破壊行為は固く禁じられている。
対策を講じられ打つ手なしかと思えたが少女に焦りの色はない。
この程度の警備を破れなければ仕事など務まらなかった。
少女は持ってきた鞄に手を伸ばす。
♢
しつこいチャイムの音がようやく止んだ。諦めたようだ。
まさか今日も来るなんて。念のため家の全ての鍵を閉めといて良かった。
安心したからか大きなあくびが出た。
結局昨日は眠れず今までずっと起きていた、眠気が今になって濁流のように押し寄せて来る。
ただ眠って、ぼうっとして、無意味な時間だけが過ぎていく。
それに焦りを覚えることすらせずどっぷりと浸かってしまっている。
なんて自堕落な生活だろうとアリアは自嘲気味に笑った。
こんな生活をしていても叱ってくれる人はもういない。少し前まではこんな事してればすぐに親に叱られて反発して、喧嘩して、仲直りしてなんていう当たり前過ぎて記憶にも残らない展開を繰り広げていたのだろう。それはこの先人生で何度もあったはずの取るに足らない出来事。
煩わしさしか生まないはずのそんな事さえ今となっては恋しい。
小言を言われてもいい、怒られてもいい、褒めて欲しいなんて望まない、もう一度声が聞きたいだけなのにこんな些細な願いは絶対に叶わない。
この先ずっと孤独だ。
そんなアリアにとって死は唯一の救いに見えた。
いけない、くだらない感傷に浸っていた。
アリアは頭を数回振って思考を頭から追い出そうと試みるもこびりついて離れない。
なんでもない事が過去を想起させその度に心を抉っていく。
耐えられない‥‥‥。
早く眠ろう。
夢の世界に逃げ込む為にアリアはソファーから重い腰を上げ二階の自分の部屋に向かおうとした時、ガチャリと玄関の扉が開く音がした。
そして眩しい日差しを背に姿を現したのはあの子。
「なんで‥‥‥どうやって!?」
アリアは驚きを隠せないでいた。
そんなアリアを少女は涼しく見やって一言。
「玄関の鍵を開けた。あの程度簡単に解錠できる」
アリアは呆気にとられた。解錠できると悪びれる事なく言ってるけどそれは紛うことなき犯罪だ。
目的の為なら犯罪行為までも平然と行う少女に少し恐怖していた。
やっぱりこの子はおかしい。
あんな手を使ってまで侵入してきたその子のやる事は今日も変わらない。
掃除道具を手に家の中を徘徊、といっても昨日の今日でそんなに汚れているはずもないのだが気にせず昨日と同じ行動を取る。
アリアがつけた唯一の汚れである血の跡はその子に綺麗に消された。
昨夜の恐怖との戦いの痕跡、アリアの苦痛や嘆きの証明とも言えるそれを綺麗に、まるで無かったかのように拭き取られた。
顔色一つ変えず。
向こうは仕事をしているだけ、なのに少しだけ腹立たしく思ってしまう自分がいる。
別に聞いて欲しいわけじゃないが血痕なんてものがあれば普通理由ぐらい聞いてきそうだが‥‥‥。
変に詮索されるのも嫌だからとアリアも何も言わないでいた。
関わりたくもないし好き勝手やってるのでアリアは今日も自分の部屋にこもろうとしてふと昨日気になったことを聞いてみた。
「あのサンドイッチ作ったのあなた?」
そう聞くとその子は手を止めこちらに向き直る。
「そうだ、食べたか?」
いつもなら淡々と掃除し続けるのにこの時ばかりは大きな目でアリアを見つめてくる、緋色の虹彩と奥にある黒い瞳、初めて見たときは変だなと思ったがこうしてまじまじと見つめられると抱く感情は綺麗に変わった。
異常というよりは特別。
周りから浮いているんじゃなくて手の届かない高いところにいる様な羨ましさを感じる。
その眼に見つめられて数秒惹きつけられた後ハッと我に帰る、そして答えることを忘れかけていた少女の質問に答える。
「あんな美味しくなさそうなの食べるわけない、嫌がらせのつもり?」
「お前が眠ってばかりで料理もしようとしないから出来ないものだと判断して私が代わりに作っただけだ」
「あんなの料理って言わない、まともな料理を見た事ないの? あなたの親が作ってくれたものにあんなものが一度でもあった?」
「‥‥なかった」
「綺麗で美味しい料理を出されるのが当たり前、感動せず感謝もしない、ただお腹を満たすだけのものだとしか思ってない、だからこんなのが出来るのよ。料理っていうのは本当は食べる人の事をいっぱい考えて作られてるのに幸せに埋もれてるから些細な気遣いに気づかない。そういうのは幸せを失ってから分かるものだから。私もそう、お礼だってちゃんと言ったこともなかった」
「私は‥‥」
「━━とにかくもうあんなもの作らないで。目障り」
とても不愛想にアリアは答える。
それが心からの言葉なのかと問われれば・・・・・・違うのかもしれない。
正直その子のことが嫌いだった、勝手に入ってきて勝手なことをする。好きになれる道理がない。
でもいくら嫌いでもあれは自分の為に作ってくれたもの、それを食べもしないで酷いことを言って、良心が痛まないほど心が死にきってにもいない。
人に当たり散らしているだけ、そんなのは分かっている、分かっているけど今はとにかく一人になりたい。その為の方法として拒絶が最も楽な手段だった。
たとえいくら相手の心を傷つけたとしても。
「そうか」
怒って出て行くかと思ったがその子は驚くほどあっさり答えて仕事に戻る。
少しも気にしていないようだった。
少女を傷つけて遠ざけようとするアリアの試みは崩れた。それが良かったのか悪かったのかアリアにもよく分からない。
部屋に戻ったアリアは窓越しに外の様子を伺う。
雑草に侵食された庭を侵食していく少女の姿を。
家の中はある程度終わったから今度は庭に目を向けたのだろう、草に覆われながら手作業で雑草を引っこ抜いていく。
真っ白だったシャツは土によって所々に茶色い汚れをつけられとても残念なことになっている。
その光景がアリアにもたらす感情は不快感だった。
自分と同じ年頃の女の子が必死に働いている姿、それをみているだけで何もしていない自分が駄目な人間なんだと思い知らされる。
その度にアリアはあの子は自分みたいに不幸じゃない、恵まれているから頑張れるんだと自分に言い聞かせ心を守る。そして見ないようにする。
カーテンを閉め布団に入り目を閉じる。
そうして夜中に起きて、死のうとして、失敗して、朝まで無気力のまま過ごす。
悲しいことにこれがアリアの日課なのだ。
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