第6話 2008〜2011:社会人の壁と、東日本大震災

2008年4月。

 初めて支給された名刺を手にしたとき、

「僕はもう、学生じゃないんだ」

 そんな実感がじわりと胸に広がった。


 入社したのは情報関連の中小企業。

 社員数は100名ほどで、街のビルの7階に本社がある。

 フロアに入ると、コピー機の音と電話のベル、

 そしてキーボードを叩くリズムが雑然と混ざり合っていた。


 新入社員の僕は、研修の名のつくものなら何でも必死に食らいついた。

 でも、現場に出た瞬間、研修の知識が通用しないことを思い知る。


「これ、今日中にまとめておいて」

「数値が違うだろ」

「報告は“結論ファースト”って言ったよな?」


 先輩の言葉は冷たくはないが厳しく、

 僕の未熟さを容赦なく浮き彫りにしていった。


   *


 2008年の秋、リーマンショックが起きた。

 ニュースのテロップに「世界同時不況」の文字。

 会社でも、取引先が次々と契約を縮小し始めた。


「今年の新卒はまだマシだよ。来年以降はもっと厳しくなる」


 昼休み、先輩が弁当を食べながらそう呟いた。

 僕の中にも漠然とした不安が生まれた。

 “働くこと”は学生の頃に思っていたよりずっと重く、

 そして脆いものだった。


   *


 プライベートでは、大学時代に仲の良かった尚美と自然と離れ、

 距離が空いたまま時間だけが過ぎていった。


 連絡を取ろうと思えばできたのに、

 僕の中で「社会人になった自分」を見せることへの気恥ずかしさが邪魔をした。

 それは今思えば、幼さ以外の何ものでもない。


   *


 2010年。

 僕は2年目の壁にぶつかっていた。

 仕事にも慣れ始めたはずなのに、

 「慣れたからこそ分かる自分の限界」に落ち込む日が増えていた。


 そんなある日、上司に呼び出される。


「一(はじめ)、来期からプロジェクトのサブリーダーを任せたい」


「僕が……ですか?」


 驚きしかなかった。

 僕より出来る先輩はたくさんいる。

 でも上司は言った。


「お前は慎重だが、その分だけ仕事が丁寧だ。

 “速さ”で勝負してる連中ばかりじゃ、プロジェクトは回らない」


 胸の奥が熱くなった。

 僕には僕の役割があるのだと、少しだけ自分を誇れた。


   *


 そして、2011年3月11日。

 忘れられない日がやって来る。


 午後2時46分。

 会議室で資料の打合せをしていたときだった。


 最初は小さな揺れ。

 すぐに、それが尋常じゃない揺れに変わった。

 蛍光灯が左右に大きく振れ、誰かの悲鳴が聞こえた。


 デスクの下に身を潜めながら、

 ただ祈るしかなかった。


 揺れが収まり、

 社内のテレビをつけると、信じられない光景が映し出された。

 津波が街を飲み込み、道路を車ごと押し流していく。


「これ……日本なのか……?」


 誰かの声が震えていた。


 その日の帰り道、交通網はほぼ麻痺し、

 会社から自宅までの約10キロを歩いた。

 夜の街は暗く、人々の顔には怯えと疲れが浮かんでいた。


   *


 翌日、会社の休憩スペースで、

 僕たちはテレビに映る被災地の映像を黙って見つめ続けた。


 自分の無力さが胸を押しつぶすようだった。


 仕事も、悩みも、日常も、

 すべてが一瞬で並べ替えられてしまった気がした。


 僕ができたのは、募金と物資支援、

 それから実家へ電話して

「ちゃんと避難袋とか用意しておいてよ」と母に強く言うことくらいだった。


   *


 この年、僕は強く思った。


――“当たり前の今日”は、永遠じゃない。


 働くことの意味。

 誰かと生きることの重さ。

 生かされているという事実。


 社会人になって3年。

 ようやく僕は“平成を生きるひとりの大人”として、

 少しずつ世界の見え方が変わり始めていた。

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