D+4d AM(第3話)
次の日の朝、裕也は葉月の車に乗った、オレンジ色のルノーだった。葉月は敢えてこの車を残していったのだろうか。葉月が導く旅は葉月の車で行く。裕也にはそれしかないように思えた。辿るべき道は葉月によって全て用意されていて、自分たちは、ただそれを歩かされるだけなのではないか。裕也にはそうとしか思えなかった。
拓磨のマンションの前では、既に、拓磨が綾の肩を抱いて支えて待っていた。綾の肩にはストールが掛かっていた。裕也は二人を後部座席に乗せた。
「おはよう。寒かっただろ。綾さんはどう?」裕也は斜め後ろを振り返って言った。
「...うん、変わりないよ。」裕也には、運転席の後ろに座った綾の表情がルームミラー越しに見えた。確かに、綾は無表情で視線はどこに向っているのか分からなかった。そして、瞳の金色の環は少し薄かった。
裕也は、車を暫く下道を走らせた後、高速道路に入った。料金所から先は大した渋滞もなく、順調に車は進んだ。裕也は走行車線を選び、先を急がなかった。葉月は全てを計算しているはずだった。だから、葉月が考えているお膳立ては全て済んでいるだろうし、ましてや、軽井沢で葉月が待っていることなどあり得ない。裕也はそう考えていた。裕也と拓磨は話をしなかった。拓磨はぼんやりと窓の外を眺めていた。裕也も次々と後ろに流れていく景色に意識を委ねていると、その想念は葉月の記憶で占められていった。
彼女の記憶は、裕也の最も古いそれかもしれない。いつどこでの記憶なのかは定かではない。裕也は、歩き始めたばかりで、おぼつかない足取りの小さな葉月と手を繋いでいた。裕也は彼女の足取りに合わせ、よちよちと歩き、時々バランスを崩す彼女の手を優しく引きながら支えていた。裕也はそのあどけない少女が自分を頼り、そして、自分がその支えになっていることが嬉しく、子供ながらに誇らしいような気持ちを抱いていた。その時から、裕也は葉月を守る者としての心を持ち始めたのかもしれない。それでも、この右手の甲の傷を負うまでは、その気持ちと葉月が好きで彼女に好かれたいという気持ちが半々だった。傷つくこの手の痛みに耐えて、渾身の力で葉月を引っ張り上げたとき、そして、葉月が絆創膏に書いた言葉を読んだ時、裕也の彼女に対するその二つの気持ちは一つになった。それからは、裕也は葉月を守るためにできるだけそのそばにいようとした。葉月が進むはずの大学付属の中学高校、そしてその大学に入った。葉月も予定通りそのコースを進んだ。しつこい男は追い払ったし、したい冒険には付き合った。そうしてずっと葉月を見張っているうちに、裕也は彼女を一番知る人間になった。葉月は姿形は美しく、他人に優しい気持ちを示していた。だから、葉月に魅了されない人を裕也は見たことがなかった。しかし、裕也は彼女の歪みも知っていた。葉月はどんな時、どんな場所でも、主人公になった。周りが自然にそれを認めるた。そして、葉月はそれに酔うこともなく、当たり前のようにそこに収まった。しかし、年を経るにつれて、それは変化していった。葉月が周りをそうさせていたものが、周りが葉月を規定するようになり、彼女はそれに合わせて、演技するようになった。もちろんすべてが演技ではない。外見に伴った麗しい心も持ち合わせている。しかし、葉月はそれを越えて自分のありたい姿を求めるようになってしまった。
おそらく、あの時だ。葉月の試合を応援に行った時。本当は拓磨に会わせたくなかった。しかし、体育館の近くで時間を持て余している拓磨に、ついてくるなとは言えなかった。それに、会わせたといっても、チームメイトに肩を借りて退場する葉月に声を掛けたときに、遠くにいる拓磨を指差しただけだった。だが、あの時、葉月は拓磨に何かを見てしまったに違いない。あの時からだ。あの時から葉月の狂いは始まったのだ。今は、こう想像してしまう。もし、あの時、自分が葉月に拓磨をちゃんと紹介し、二人に自然な付き合いが始まっていたとしたなら、我々四人の今は、全く違ったものになったのではないか。裕也は、自分が葉月を守るということを建前にして、本当は彼女が拓磨に奪われてしまうことを恐れていただけだった。裕也は自分が、葉月が拓磨のものになるのを邪魔したことが今に繋がっているのだという、苦い思いを抱いていた。
自分がそうしたことが、葉月を無用に苦しめていたのかも知れない。自分と拓磨の最後のラグビーの試合が終って、葉月と綾は控え室に戻る通路の側まで駆けつけて来ていた。その時、拓磨と綾が視線を合わせたのはほんの瞬間だった。それは、お互いがお互いの瞳の中の何かを認め、強く求め合う気持ちを交歓しているように見えた。そして、その一瞬を葉月も見ていた。葉月は裕也には目もくれず、それを見て、そのまま、視線を動かさず、その光景を目に焼き付けているように見えた。裕也にはただその三人を眺めていることしか出来なかった。
裕也は、葉月の、拓磨が自分に振り向かないことへの苛立ちも分かっていた。拓磨と綾の結婚式の時、二人は葉月一人を除いて全ての来賓に心からの祝福を受けていた。教会の入り口に向う階段の上に立った二人は見つめ合っていた。彼らはその瞳の光で繋がっているように見えた。葉月もそれを見ていた。彼女は拍手を送っていたが、笑顔を保てていなかった。裕也は、それを見て、拓磨を求める強い気持ちもついに折れたのではないかと思った。帰りに家まで葉月を送った別れ際に、葉月が裕也に結婚しようと言った。葉月はその時、車の助手席に座って、真っ直ぐ前を見ていた。彼女は裕也を見ていなかった。裕也は、葉月の目の前には、今日の蓼科での光景が広がっているのだろうと思った。そして、葉月が自分にしたプロポーズは、拓磨への想いが遂げられないなら、自らピリオドを打ちたいという葉月らしい行為なのだと思った。そのために、拓磨への想いを断ち切り、抑えつけるための道具として、自分を選んだのだと思った。
十年間、葉月は拓磨のことを忘れて過ごしているように見えた。たまに、綾と拓磨と四人で会うこともあった。その時の素振りも、葉月の中に何かがくすぶっている事を覗わせることはなかった。しかし、裕也は知っていた。葉月はこれまでに、こんな形で手にできなかったものはない。欲しいものは手に入れてきた。物でも、人の心でも。だから、拓磨のことはそうならなかったものとして、忘れられるはずはない。それはただ深く沈んでいるだけなのだ。裕也はこう理解していた。しかし、それについて裕也は何かしようとは思わなかった。なぜなら、今の葉月は、自分で選んだ道を進んでいて、それが彼女のあるがままだからだ。その葉月のあるがままを修正させることは、葉月を守る者としての自分がすべきことではなかった。何より、裕也には為す術がなかった。
裕也は、葉月が拓磨と会い始めたことにも気づいていた。来るべき時が来たと思っていた。裕也には、夫として、葉月を止める選択肢はあったが、やはり、葉月のあるがままを守ってしまった。葉月が拓磨への想いを遂げ、自分から羽ばたいていくものと思っていたし、それを受入れるのが自分の役割だとすら思っていた。しかし、そうはならなかった。そうならずに、葉月は少しずつ変わっていった。その美しさは変わらなかったが、いつも、主人公としてあらゆる主導権を握ってきた堂々とした雰囲気は少し薄れ、何かに身を任せているようになった。裕也の、葉月を失うことを覚悟し、ジリジリとした気持ちは、葉月が拓磨を自分のものにすることが決して上手くいっていないのではないかという期待になり、安堵になった。
裕也はあの時、ロゴシス遺伝子のことを葉月に話した。それは一つの賭けだった。あのテレビのニュースを聞く前に、自分はロゴシス遺伝子の事は知っていたし、それまでの拓磨では考えられない仕事のミスを犯したりする彼の変わり様とその遺伝子を結びつけてもいた。葉月の拓磨への想いが成就していないという自分の直感が当たっていれば、この事実は、拓磨がかつての輝きを失い二度と戻らない事を決定づけ、それが葉月の諦めに繋がるのではないかと考えたのだった。
結局、自分は葉月を守るという建前のもと、何もできなかった。自分が守ったのは葉月の狂いへの道だった。一体、自分はいつ何をすれば良かったのだろう。自分には人の幸せのことは分らない。自分が守ろうとしたのは、葉月の幸せではない。葉月は何かに突き動かされ、彼女が思い描いた道を進んだ。それは、人が言う幸せではないのかもしれない。葉月が想いを遂げた先には破滅しかないのかも知れない。しかし、その時、葉月はこの上ない満足を味わうのだろう。自分はそれを守ってきてしまった。果たして、それが自分のすべきことだったのだろうか。もし、今、葉月がその満足を得てしまっているのだとしたら、葉月は、生きているのだろうか。
裕也はそう考えてしまった。流れていく景色に委ねていた裕也の意識は、心の奥底で眠らせておきたい考えまで浮き上がらせてしまうのだった。
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