第1話 起点

目を覚ました瞬間、世界は不気味なくらい静かだった。真夜中の空気は冷えきっていて、理由もないのに背筋をぞくりと何かが走る。……誰かに見られている。そんな気配だけが、肌の表面をそっと撫でていった。


 胸騒ぎを振り払うように外へ出ると、そこにはありえない光景が広がっていた。軍か警察か――とにかく大勢の人影が闇の中に整然と並び、まるで時間を止めた彫像のように一歩も動かず立ち尽くしていた。


 息を飲むほどの静寂。凍りついた空気。

 そのすべてを破ったのは、短く鋭い「指示」の声だった。


 次の瞬間、隊員たちが一斉にこちらへ向けて動き出す。


「は?」


 事態が理解できない。

 自分が何かやらかした? 

 頭の中で思考が渦を巻き、恐怖と混乱の境界が溶けていく。


 その刹那、夜を切り裂くような破裂音が響き、脚に氷の針を突き立てられたような痛みが走った。


「っ……意識が急に!」


 体の力が抜け、視界がゆっくり傾く。近づいてくる地面を、他人事みたいに眺めながら、俺はそのまま倒れ込んだ。


 揺れる視界の向こう――淡い光の粒が集まり、ひとりの人物の形を作りはじめる。白い髪がふわりと揺れ、空気に静かな波紋が広がった。


 ……本物じゃない。

 この世界とは別の層から滲み出てきた、そんな存在感。


 その人は月明かりのような柔らかい気配をまといながら俺に近づき、屈み込む。


「大丈夫か」


 その声は、驚くほど優しかった。


 うまく言葉にならず、俺はただ小さく頷く。視界の端が暗く染まり、まぶたが重く沈んでいく――


 そして意識は、静かに深い闇へと溶け落ちた。     「こんなところで、くたばってたまるか」その言葉を最後に、彼女はわずかに微笑んだ。

その静かな表情が闇に溶けるのを見届けた瞬間、意識は音もなく落下していった。


◆ ◆ ◆


 ――目を開けると、見知らぬ天井が真上にあった。


 微かに乾いた木の匂い。体の下には柔らかい寝具。

 状況を把握するより先に、脚に走る鋭い痛みが思考を奪う。


「イテ……」


 身じろぎしただけで、包帯の下から痛みがじわりと滲んだ。

 見れば脚には厚い布が幾重にも巻かれていて、とても日常の延長線とは思えない。


 そのとき、部屋の影がゆっくりと動いた。

 白い髪の彼女が、物音ひとつ立てぬまま近づいてくる。

 まるで淡い光そのものが歩いてくるような気配で、温度も存在感もどこか現実離れしていた。


「目が覚めてたか。私はアストランティア・アーベル。君の命の恩人さ」


 静かな声だった。淡泊なのに、不思議と胸の奥に余韻が残る。


 僕は痛みに慣れるより早く、頭の整理を優先した。


「あの、質問よろしいでしょうか」


 彼女は細い指先で顎に触れ、短く思案するような仕草を見せた。


「今、追ってに追われててな。手短にいこう。まず“君”というのも失礼だな。橘温君」


 心臓が一瞬だけ強く跳ねた。


「……っ、なんで僕の名前を知ってる」


「言ったろ、手短にいくって。まず――橘君のお父さんが禁術に手を染めてしまってね。軍に殺された。それで、秘密を知っているかもしれない君がターゲットになったわけさ」


 淡々と告げられた言葉はあまりにも重いのに、声音は揺れすらしない。

 その冷静さが逆に現実味を帯びさせる。


「ちょっと待て。親父が殺された? それはマジなのか」


 胸の奥がひどく静かだった。怒りでも悲しみでもない、ただ冷えた空白。

 そして――そこに微かな安堵が混じったことに、自分が一番驚いていた。


「落ち着いたか」


 彼女は俺の目を覗き込むように問いかける。

 白い髪に隠れるその瞳は、澄んでいるのにどこか深淵を思わせた。


「……落ち着いた。話を続けてくれ」


「驚くのも無理はないさ。逆に君は、お父さんが殺されたというのに落ち着きすぎている」


 感情を読み取ろうとしない声音。それがむしろ心地よかった。


「ところで、もう一つ質問いいか? あの場にいた軍は、アーベルさんが来てからどうなったんだ」


「生きてはいる。全員軽症程度で済んだはずだ。さて橘君、君には二つの選択肢がある。今すぐ私と契約を結んで足を治してもらうか、今すぐ私に殺されるか。二つに一つだ」


 淡々と告げるその姿は、優しさとも冷酷さともつかない。

 ただ事実だけを差し出してくる透明な危うさがあった。


「選択肢一つしかないじゃん。詐欺まがいのことはやめろよな。……契約だ。それにする」


 僕が苦笑すると、彼女は口元だけで静かに笑った。


「そうだな。君にはそれしかないよな。なら、手を繋ごう。これで契約は完了する」


 差し出された手は冷たくも温かくもなかった。ただ、触れた瞬間、空気が震えた気がした。           

                       

「契約内容は」

     

「もう時間がない。ここを離れるぞ」


 その言葉に呼応するように、外から世界を押し潰すような轟音が響く。

 次の瞬間、建物は爆風に吹き飛ばされ、視界が瓦礫と埃で白く染まった。


「……生きてる」


 呆然と呟いた俺に、アーベルは横目で小さく笑う。


「えらい呑気な青年だな」


 淡い笑みなのに、どこか挑発するような色があった。


「話は後にしよう。足は治した。さあ逃げろ――あの女が来る」ストランティアは突然「逃げろ」と叫んだ。しかし、あまりにも唐突すぎて、僕は状況をまるで掴めなかった。


「逃げろって何処に!」


 思わず声を荒げると、アストランティアは肩をすくめるようにして、


「知らん」


 とだけ放り投げ、さっさと僕の前から姿を消してしまった。


「ああ…わかったよ、とにかく逃げればいいんでしょ」


 自分でも半ば投げやりだとわかる声を漏らしつつ、僕は槍でも投げるように勢いだけで走り出し、彼女の後を追った。                     

◆◆◆

 アストランティアが向かったのは、山岳地帯の奥にひっそりと佇む、小さな山小屋だった。木の扉を押し開けると、彼女は薄暗い室内に向かって声をかける。


「会うのは50年ぶりだなええと……すまないが今の君の偽名を教えてくれないか」


 その言葉に応えるように、白い髪を揺らしながら見た目が10代半ばの左耳に独特のピアスをした女性が現れた。顔立ちはアストランティアと瓜二つで、まるで鏡写しのようだった。


「今の名前は小鳥遊睡蓮だ」


 名を聞いたアストランティアは、表情を引き締める。


「二つ質問いいか」


 彼女は少しだけ考え、淡々と宣言する。


「……30秒やる」


「一つなぜあそこ爆撃なぞした」


「二つあのさっき逃げた少年と”君たち”は無関係か」


 彼女はその問いに、言いにくそうに視線を逸らしながら口を開く。


「あそこからあんたを狙ったほうが効率が良かったのと私たちとあの少年は無関係だ」


 「もう質問はいいかと」と彼女が確認すると、アストランティアは軽く首を振った。


「問題ない。一つ言うならば、この喧嘩が終わったら彼を保護してくれないか」


 「メリットは」と問われ、アストランティアは淡々と告げる。


「7日後、この日本海付近に大規模な小惑星が降る」


 その一言に、ユカリの表情が僅かに揺れた。


「……わかった。要件を飲もう」


 そう言うと、彼女は懐から小型の無線機を取り出し、スイッチを押し込む。


「A般、B般に次ぐ。足の巻いた青年がいたら速やかに保護しろ」


 アストランティアはその様子を見て、肩をすくめる。


「お前、余計なことしたな」


 その非難めいた声に、アストランティアは「だな」とだけ言い返し、静かに空を見上げた。


 次の瞬間――空一面を覆い隠すほど巨大な魔法陣が展開される。

 一般の術式など比にもならない規模。魔力が世界の空気ごと震わせる。


「どうせ私には排除命令が出てるんでしょ。さぁ、やり合おう」


 挑発に応じるように、彼女は「キャストオフ」と呟いた。

 肩にぶら下げていた一・五メートルほどの巨大な金属板が、内部機構をむき出しにしながら変形していく。


「フルスロットルだ」         


◆◆◆


その掛け声と同時に、彼女の背後で静止していた金属板が、爆ぜるような金属音を響かせて歪み、刀と銃へと一瞬で姿を変えた。空気が震えた――次の刹那、視界が白く跳ね、刃がこちらの首筋へ滑り込んでくる。


 挨拶代わりの致命打。アストランティアは反射より速くバリアを展開し、鋭い衝撃音とともにそれを受け止めた。

 火花が散る。衝撃で揺れた空間を押し戻すように、アストランティアは無詠唱の火魔術を叩き込んだ。灼熱の奔流が相手を包む――が、軍服が高温を遮断し、焦げ跡すら残さない。


 次の瞬間、攻撃が“嵐”に変わった。

 斬撃、弾丸、踏み込み、跳躍。殺意だけを純度高く凝縮した動きが、間断なく押し寄せてくる。空気が裂け、地面が抉れ、衝撃波が波紋のように広がる。その中心で、彼女は微動だにしない。むしろ楽しんでいるかのように、柔らかく、滑らかに、舞うような軌跡で攻撃をいなし続けた。


 アストランティアが舌打ちをまじえて「クソ当たらん」と吐き捨てると、

 彼女は攻撃の最中、視線もよこさず「前より精度落ちたんじゃないの」と軽く言い放った。


 その一言にアストランティアの眉がぴくりと動く。


「ならこの一面すべてをガラス化しよう」

 

静かな怒気を孕んだ声とともに詠唱が紡がれる。


 詠唱中も休む暇など与えられない。刃が風を裂き、銃弾が地を穿ち、衝撃がアストランティアの足元から爆ぜ上がる。防御がわずかでも遅れれば即死。そんな間合いの攻防が続くなか――


 「アストランティア」


 その名が呼ばれた瞬間、空気が重く沈み、周囲の大気が引き絞られた。

 裂け目のように空間がめくれ、そこから巨大な槍が生まれ落ちる。落下と同時に破裂する勢いで、彼女へ一直線に射出された。


 彼女は深く息を吸い、銃を手から離して宙へと回転させ、刀を両手で構え直す。

 わずかな体重移動。風が細く鳴る。


 次の瞬間――

 襲いかかる巨槍の質量が、音すら置き去りにしてふたつに割れた。

 その斬撃は、まるで天界の秘蹟。神々の御業を連想させる静謐な一刀だった。


 「チッ、これも駄目か化け物め」


 怒気を含んだ舌打ちが、戦場の空気を震わせる。だが、焦げつくような緊張の最中――不意に、闇の底から声が滲み出た。


 「あれはそう何発も撃てるものでもないだろ」


 その言葉が終わるより早く、殺気が背を裂いた。アストランティアの左腕が、稲光に貫かれたかのような速度で斬り飛ばされる。切断面から零れる光が散り、彼女は一瞬で体勢を崩した。


 何が起きたのか理解する暇さえない。まさに“隙を突かれた”というより、“隙を作らされていた”。


 「チッ、油断した」


 悔しさを噛み潰すように吐き捨てた瞬間、視界が急激に揺れた。天地が反転し、空と地面の境が溶け合うまるで逆さ眼鏡をかけたように。時間そのものが伸び、押しつぶされるような感覚。


 その歪みの中心で、刃が一直線に心臓へと突き立てられた。


 容赦も、ためらいもない。ただ、”殺す”という完璧な殺意だけ。


 瞬間、アストランティアの身体は砂状に崩れ、音もなく舞い散った。残ったのは淡い光の尾だけで、彼女の存在は風に攫われるように消え去る。


 「逃げられたか」


 静かながらも、敵を逃した者の苛立ちが滲んだ声を残し、彼女は影のようにその場から姿を消した。

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