雨粒レター

放課後の図書室は、雨の日だけ少し混む。


 運動部の人たちが部活を中止にされて、時間を持てあましているからだ。

 でも、奥の窓ぎわだけは、いつも静かだった。


 そこが、私と湊くんの席だから。




 最初に話したのは、たぶん三か月前の雨の日。


「それ、好きな本?」


 隣の席から聞こえた声に顔を上げると、紺色の前髪が少しだけ濡れた男の子が、覗き込むようにこちらを見ていた。

 クラスは同じだけど、ほとんど話したことがなかった、窓際の席の人。


「どれ?」


「その付箋だらけのやつ」


 彼が指さしたのは、私が何度も読み返している短編集だった。

 ページの上には、色違いの付箋が花びらみたいに散っている。


「……好き。台詞が、どれも、やさしくて」


「へえ。おれもそれ、今度読んでみようかな」


 それだけ言うと、彼はまた自分のノートに視線を落とした。 英単語と、ところどころに書かれた小さなギターの絵。

 その端っこに、雨の日付と「図書室」の文字が並んでいた。


「日記?」


 思わず聞くと、彼はシャーペンをくるくる回しながら答えた。


「メモ。忘れっぽいからさ。今日の天気とか場所とか、ちょっとだけ書いとくと、あとで思い出せる」


「どんなこと、思い出したいの?」


 自分でも少しずるい質問だと思った。

 でも、聞きたくなってしまった。


「こういうのとか」


 そう言って彼がノートの隅に書き足したのは、


 「雨/図書室/付箋の多い本を読む人」


 という走り書きだった。




 それから、雨の日だけ、私たちは図書室で隣同士に座るようになった。


 テスト勉強をしたり、各自で本を読んだり、音楽の話をしたり。

 ときどき言葉が途切れても、気まずくならない沈黙が、そこにはあった。


「晴れてる日も来ればいいのに」


 あるとき私がそう言うと、湊くんは苦笑した。


「晴れてる日はさ、部活のやつらに捕まるから。バスケの助っ人」


「人気者なんだね」


「違う違う、背ばっかりあるから便利なんだよ」


 そう言って笑う彼を見ながら、私は心の中で、こっそり付箋を増やす。

 ――今日の湊くん、晴れの日みたいに笑ってた、って。




 六月の終わり。

 チャイムが鳴るころには、外はすっかり本気の雨になっていた。


「あ、やば」


 窓の外を見て、湊くんが小さく声を漏らす。


「どうしたの?」


「傘、部室に置きっぱなし」


「また?」


「“また”ってなに」


「この前も、体育館に忘れてびしょぬれになってたじゃん」


 からかうと、彼は耳たぶをかいて笑った。


「記憶力は悪くないんだけどな。傘だけ、どっか行く」


「傘に嫌われてるのかも」


「それは困る」


 私は少し迷ってから、自分の鞄の中を見た。

 今日の傘は、昨日コンビニで買ったばかりの、透明なビニール傘。


「ねえ」


「ん?」


「一緒に、入る?」


 言ってから、頬がじわっと熱くなる。

 図書室の蛍光灯の明るさが、急に恨めしい。


 湊くんは一瞬きょとんとしてから、ゆっくり笑った。


「それ、普通“入れてあげよっか”じゃない?」


「……失礼しました」


「いや、いい。今の、ちゃんとノートに書いとこ」


 そう言って、彼は例のメモページを開く。


 「雨/図書室/相合傘“入る?”」


 さっきより、字が少しだけ丁寧だった。




 下校時間の昇降口。

 人の波が落ち着いたころ、私たちは並んで外に出た。


「お先にどうぞ」


「レディーファースト?」


「いや、雨が本命だから。先にあたられたら困るし」


「ひど」


 苦笑しながら傘を広げる。

 透明なビニール越しに、街灯の光が丸くにじんだ。


「入るよ」


「どうぞ」


 肩と肩が、想像していたより近い。

 傘の内側の空気が、少しだけ温度を上げる。


 駅までの道を、いつもよりゆっくり歩く。

 アスファルトに跳ねる雨粒が、靴の先をちょんちょんと叩いていく。


「ねえ」


 しばらくして、湊くんが言った。


「付箋ってさ、なんでそんなに貼るの」


「好きな言葉があるページに、印をつけてるの」


「全部覚えちゃえばいいのに」


「覚えたくないの」


「なんで」


「忘れかけたころに、また出会いたいから」


 自分で言っておきながら、少し恥ずかしくなる。

 でも、湊くんはふっと笑って、空を見上げた。


「じゃあさ」


「うん」


「今日の雨も、忘れかけたころに思い出してよ」


「どういう意味?」


「そのうち、また降るから。そしたら、今日のこと思い出すでしょ」


 その“そのうち”が、明日なのか、一年後なのか、分からないまま。

 でも、そうやって未来の話をする声が、心地よかった。




 駅前で別れる前、湊くんがふと立ち止まった。


「ここでいいよ。ありがと、送ってくれて」


「どういたしまして」


「……あのさ」


 言いよどむ声。

 一瞬、駅前の喧騒が遠くなった気がする。


「何?」


「傘、貸して」


「え?」


「返すから。ちゃんと」


「いつ?」


「次の雨の日」


 彼はそう言って、透明な傘の柄をそっと引き寄せた。


「だめなら、いいけど」


「……ずるい」


「え」


「次の雨の日、絶対会いたくなるじゃん」


 口に出した瞬間、自分でも驚くくらい素直な声だった。

 湊くんは、少し目を丸くして、それからゆっくり笑う。


「それが狙い」


「そういうとこだけ、頭いいよね」


「褒め言葉として受け取っとく」


 私が傘から一歩外に出ると、雨粒が前髪にふわりと触れた。

 冷たいはずなのに、不思議と嫌じゃない。


「じゃあ、持ってく」


「うん」


「次の雨の日、返すから」


「忘れたら?」


「絶対忘れない。傘には嫌われてるけど」


「じゃあ、私には?」


 聞いてから、心臓が変な音を立てる。

 駅前のアナウンスが、やけに遠く聞こえた。


 湊くんは、少しだけ真面目な顔になって言った。


「まだ嫌われてないなら、いいなって思ってる」


「まだ?」


「これから、もっと“いいな”を増やしたいから」


 その言い方が、付箋を一枚ずつ増やしていくみたいで、胸がきゅっとなる。


「……嫌ってないよ」


 それが精一杯だった。

 それ以上言うと、雨より先に涙がこぼれそうだったから。


「じゃあ、よかった」


 彼は傘を軽く持ち上げる。

 ビニールに当たる雨音が、少しだけ優しくなった気がした。


「おやすみ。またね」


「うん。また」




 それから一週間、晴れの日ばかりが続いた。


 青空が嫌いになりそうだった。

 洗濯物がよく乾くニュースに、ちっとも共感できなかった。


「今日は、降らないか」


 放課後、窓の外を見ながらつぶやくと、友達に「珍しいね」と笑われた。

 でも私は、ただ一つの予報だけを信じていた。


 ――次の雨の日、返すから。




 二週間目の木曜日。

 昼休みの終わりごろから、空がゆっくりと曇り始めた。


 五時間目の途中で、窓ガラスに最初の一粒が当たる。

 国語の教科書の文字が、急に遠くなる。


 チャイムが鳴ると同時に、廊下がざわついた。


「やば、洗濯物!」


「折りたたみ傘持っててよかった〜」


 そんな声の中をすり抜けて、私は図書室に向かう。

 心臓の音が、階段の一段一段と同じテンポで鳴っていた。




 図書室のドアを開けると、窓際の席に、もう湊くんがいた。


 机の上には、透明なビニール傘。

 取っ手のところに、小さな青いリボンが結んである。


「それ」


 私が近づくと、彼は照れくさそうに首の後ろをかいた。


「返却。ちょっとだけ、勝手にアップデートしちゃったけど」


「アップデート?」


「見分けやすいように、印つけた。嫌だったら、取っていいよ」


「……嫌じゃない」


 むしろ、胸の奥が夏の前みたいにざわざわする。


「あとさ」


 湊くんはノートを一枚、破って差し出した。


「これも、返す」


 そこには、見覚えのある文字で、こう書かれていた。


 「雨/図書室/付箋の多い本を読む人  傘“入る?”って言う人

  忘れかけたころに、また会いたい人」


 紙の端が、ほんの少しだけ濡れているのは、雨のせいか、彼の手のせいか。


「それ、どういう意味?」


 聞きながら、声が小さく震える。


「そのまんまの意味」


 彼は、あの日と同じ言葉で、今度はまっすぐ私を見る。


「おれさ、たぶん、ずっと前から君のこと、いいなって思ってたんだと思う。

 でも付箋、貼るのが遅かった」


「付箋……?」


「“好き”って気持ちの印。やっと貼れたから、渡そうと思って」


 そう言って、もう一枚、小さな付箋を差し出した。

 そこには、幼い字でひとことだけ。


 「好き」


 胸の奥で、何かが静かにほどけていく。

 あの日、付箋だらけの本を見て笑った顔が、重なって見えた。


「……忘れかける前に、渡してくれてよかった」


 やっと、それだけ言えた。


「これからはさ」


 彼は少し息を吸って、続けた。


「雨の日じゃなくても、一緒に帰ってくれたら嬉しい。

 晴れの日も、曇りの日も、どんな天気でも」


「それって」


「そういう意味」


 曖昧さを許さないくらい、はっきりとした声だった。


「じゃあ」


 私も、ポケットから一枚の付箋を取り出した。

 それは、いつも本に貼っているのと同じ、淡い黄色。


「この付箋、湊くんのノートに貼ってもいい?」


「なんて書いてあるの?」


「内緒」


「ずる」


「忘れかけたころに、もう一回読んで」


 そう言って、彼のノートの一番新しいページに、そっと貼る。

 湊くんは、不満そうにしながらも、嬉しそうに笑った。


「分かった。忘れかけたころに読む」


「もし、その前に気づいたら?」


「そしたら、そのときもう一回、ちゃんと告白する」


 窓の外で、雨が少し強くなった。

 透明な傘を広げる音が、図書室の静けさに溶けていく。


 次の雨の日、また一緒に傘に入る。

 そんな約束もしていないのに、なぜか自然にそうなる気がした。




 ――その日の帰り、湊くんのノートの付箋を、こっそり想像する。


 そこにはきっと、こう書いてある。


 「雨/図書室/付箋の多い本を読む人  傘を貸してくれた人

  忘れたくなくて、“忘れかけたころ”なんて言い訳をした相手」


 そして、私が貼った黄色い付箋には、たった一言。


 「こちらこそ」


 雨音は、今日も誰かの気持ちを運んでいる。

 図書室の窓に落ちる小さな雫ひとつひとつが、静かなラブレターみたいに思えた。

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