優しい掌篇小説集

髙橋P.モンゴメリー

『靴を脱いでくつろぐように』

駅前のカフェは、夕方になると少しだけ空気がやわらかくなる。

通勤客が帰るには早く、学生たちが宿題を広げるには遅い、そのあいだの時間。

由香は、いつもの窓側の席に座って、ノートを一冊ひらいた。

表紙はすこし角が丸くなっていて、ページの端には、失敗した小さな物語たちの跡が並んでいる。

「本日の日替わりコーヒーです」

カップを置いた店員の青年が、いつものように少しだけ会釈した。

名札には「杉山」と書いてある。知っているのに、一度も名前で呼んだことはない。

「ありがとうございます」

由香はそう言って、ペンを握った。

“今日は、なにも書けなかった話” でも書こうかと、冗談みたいな一行目を頭の中で転がす。

ことん、と、向かいの椅子に何かが置かれる小さな音がした。

顔を上げると、杉山が、白い紙ナプキンをそっと置いていた。

そこには、黒いボールペンで、ささやかな地図のような絵が描いてある。

──このカフェの簡単な見取り図。

入り口、レジ、窓側の席。

そして、由香の席だけ、ちいさな星マークがついていた。

「……これ、なんですか?」

思わず聞くと、杉山は少し照れたように笑った。

「よく、この席でノートを書いているので。ここだけ、特等席にしておきました」

冗談めかした声だったけれど、どこか本気の響きがあった。

「特等席なんて、そんな」

由香は笑いながら、指先で星マークをなぞった。

地図の端には、小さな文字が添えてある。

“ここは、靴を脱いでくつろいでいい席です”

「靴を、脱いで?」

「なんていうか、その……」

杉山は少し言葉を探すように視線を泳がせた。

「ここにいるときくらい、ちゃんと休んでほしいなって思って。いつも、ちょっと難しい顔でノート見てるので」

由香は、胸の奥が少しだけくすぐったくなるのを感じた。

自分では気づかないうちに、

“書かなきゃいけない”

“ちゃんとしたものにしなきゃいけない”

そんな靴紐を、きつく結びすぎていたのかもしれない。

「……じゃあ、今日は脱いでみます」

「え?」

「気持ちだけですけどね」

そう言って、由香は足元をそっとずらした。

実際の靴は履いたままなのに、少しだけかかとが軽くなる。

ノートの新しいページをひらいて、ペンを走らせる。

“今日は、靴を脱ぐみたいに、休む練習をした。”

それだけ書いただけなのに、ページがすこしあたたかく見えた。

カップの縁から立ちのぼるコーヒーの香りの向こうで、

杉山が別の席の注文を取りに行く後ろ姿が、小さく手をふるみたいに揺れた。

もしかしたら、物語は、

すごい事件や劇的な恋からじゃなくて、

こんなふうに、誰かがそっと差し出してくれた紙ナプキンから始まるのかもしれない。

由香は、星マークのついた席で、

もう一度ゆっくりと深呼吸をした。

今日も世界は、

大きくは変わらない。

でも、ほんの少しだけ、やさしくなった気がした。

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