第28話 私が欲しかったもの

その日、翠川雅人の出版社の担当の人が来て、新刊の見本を持ってきた。


担当の人が帰った後、私は急いで橘さんの部屋の書斎に行った。


「私が最初の読者です!!」


「いや・・・まぁいいや」


私はそれを受け取って目を凝らして読んだ。


それは、会社員の男女二人のプラトニックで美しい恋愛ドラマだった。


「ああ…素敵です…私が求めていたのはこれだったんです」


翠川雅人の美しい純愛…


「やっぱりプラトニックな恋愛が好きです…」


「お前はプラトニックを捨てて俺と作ると自分で言ったんだろ…」


「でも二人でプラトニックな恋愛も書けますよ」


「それじゃ意味がない!」


橘さんはやや怒っている。


「俺は、お前が書いた、プラトニックを捨てた男と女の話が見たいんだよ。だから受けた。最後まで書け」


「うーん…」


今更引けない。


もう私はその世界を書くと決めた。


「ただ…賞を狙うなら、そういう描写はもうちょっと控えめにしたほうがいいな…」


「そうですね。色んな人に見せる前提で書いてないんで、ちょっと正直に書きすぎてますし」


「正直に書いたのと、人に見せるのと分けろ。正直に書いたのは俺に見せろ。」


「とりあえず、今書いてる途中のを最後まで書きます」


私は翠川雅人の新作を見れて満足して書斎を出ていこうとした。


「コンテスト調べてるか?自分で」


「はい」


「一番締め切りが近いやつは何?」


「えーっと、投稿サイトにあるやるですね」


「じゃあそれに応募してみろ。」


「え…あと一週間くらいで締め切られますが…」


「ダラダラ書くより、今の勢いで書ききれ」


「え!!」


「落ちるのを恐れるな。落ちても他にも応募できるし、書き直して再チャレンジもできる」


あと一週間なんて…仕事もあるのに。


──でも!


「書きます…!」


もう進むしかない。


◇ ◇ ◇


仕事の合間を縫って、やっと書き上げた、私なりの愛憎劇。


よくわからないまま、先輩の話も参考にして書いた。


恋人が既婚者だと発覚した時、主人公に静かに灯った炎が、まるですべてを焼き尽くすかのように広がり、その炎の中で、抱き合っている二人、という、自分でも複雑なストーリーだと思う。


でも、私にはこのストーリーしかなかった。


だから、どう言われても、それが今の私の実力なんだ。


完成したのは深夜だった。


私は橘さんに試しにメッセージを送った。


『完成しました』


そしたらすぐに返信が来た。


『今から来て』


まだ起きていた事への驚きと、嬉しさで、急いで橘さんの部屋に行った。


橘さんは玄関前に立っていて、私はすぐに小説を渡した。


そんなに長くはない小説。


だけど今の私のありったけを込めた。


橘さんはそれをじっくり読んでいた。


「…すごいストーリーだな。こういう展開になるとは思わなかった。」


「それは、褒めてるんですか?」


「褒めてるよ。ここまで深い、人の心の闇を描けるとは思わなかった」


「最初はわからなくて戸惑いましたが、色々な事で、感情を少し知れたんです」


「それをここまで膨らませられるんだな」


橘さんは私を褒めているんだけど、声は冷たかった。


「何か私、橘さんを不快にさせてしまいましたか…?」


「…いや、俺の嫉妬だよ」


「嫉妬?」


「俺にはここまで書けない」


「え?」


「賞がとれなくても、誰も認めなくても、俺だけは認めるよ。やっぱり美鈴は凄い。」


橘さんが真剣な瞳で私を見た。


「書き続けてくれ。お前はちゃんと書けている。それだけでもう、小説家だ」


その時、瞳から勝手に涙がこぼれた。


「そんな事言ってもらえると思わなくてびっくりしました。恐れ多いです」


「美鈴が賞をとったら、ライバルだな…」


「全くカテゴリー違うじゃないですか…」


「賞の席は少ししかないだろ」


なんとか完成させたストーリー。


応募しても何も起こらないかもしれない。


でも唯一認めてくれた。


憧れていた小説作家に。


これ以上の幸福なんてきっとない。


そう思えた夜だった。


そして、私はその作品をコンテストに応募した。

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