人人生

うにたこ

第一章 旅路にて揺れる影

 列車の窓に映る自分の横顔を、総悟はぼんやりと眺めていた。


 磨かれきっていないガラスはうっすらと曇り、外の景色と自分の像とを半分ずつ混ぜ合わせて映し出している。そこに浮かんだ顔は、どう見てもこの国だけの血ではなかった。


 黄金色の髪色。

 彫りの深い鼻梁。

 睫毛がやたらと長いせいで、伏し目がちになると女のように見えると、子どもの頃から何度言われてきたことか。


 自分でも、整っていると分かってしまう顔つきだった。


 分かってしまうからこそ、腹立たしい。


 ――面倒な顔だよな、本当に。


 唇をわずかにゆがめ、総悟はガラスから視線を外した。窓の外には、薄茶色に焼けた田畑と、ところどころに瓦屋根の家々が点在している。屋根の端には龍をかたどった飾りが据えられ、朱塗りの門や提灯が、どこか中華の盆景を思わせた。


 だが、線路脇に立つ木製の電柱や、遠くに見えるコンクリートのビルの輪郭、車内に流れる歌謡曲は、紛れもなくこの国の昭和という時代のものだった。


 がたん、ごとん、と規則正しく揺れる車体。

 天井の扇風機が、もう止められたまま惰性のようにわずかに回っている。

 通路を挟んだ向かいの席では、作業着姿の男たちが新聞を広げ、炭酸飲料の瓶を指で弾きながら今日の景気をぼやいていた。


 そんなありふれた光景の中でも、チラチラとこちらへ向けられる視線だけは、嫌でも分かる。


「見てみろ、あの子」

「顔が違うねえ。どこの生まれだろうね」

「避難民の子かもしれんよ。最近は、ああいうのも多いって話じゃないか」


 小声のつもりなのだろうが、車内の揺れと共鳴して耳に届くささやき。言葉のひとつひとつが、針のように皮膚に刺さる。


 総悟は、聞こえないふりをすることに慣れていた。


 初めて聞く言葉じゃない。

 何度も何度も、違う町で、違う列車で、違う人間の口から、同じような響きの言葉を浴びてきた。


 ハーフだの、異国の血だの。

 避難民の子だの。


 まとめてどうでもいい。


 そう思えたら、どれだけ楽だったろう。


 窓ガラスに額を軽く当てると、ひんやりとした感触が伝わってくる。外の風を切る冷気がガラス越しに伝わり、頭の中の熱を少しだけ鎮めてくれるようだった。


 視界の端で、古びたラジオがかすかな音を漏らしている。歌手の名も知らない女の声が、失くした恋だの、帰らぬ人だのと歌っていた。安っぽいオルガンの伴奏と、ひずんだ音質が、かえって妙な哀愁を帯びている。


 歌詞の意味なんぞ、まともに追ってはいない。

 だが、そういう歌が流れるたび、総悟はなぜか、遠い日を思い出す。


 ――母さん、歌うのが好きだったな。


 まだ幼かった自分の手を握り、縁台に腰かけて夜空を見上げながら、どこの言葉か分からない鼻歌をよく口ずさんでいた。意味の分からない歌詞。それでも、母の声はやわらかく、胸の奥に不思議な温かさを残した。


 あの夜空は、今もどこかで同じように瞬いているのだろうか。


 総悟はゆっくりと目を閉じかけ、すぐにやめた。

 まぶたの裏に浮かぶ光景は、いつも心地よいところで終わらない。


 暗闇。

 赤い炎。

 崩れ落ちる瓦。

 泣き叫ぶ声。

 母の手が、自分の手から離れていく感触。


 ――昔は避難民だった。


 そう口に出したことは、一度もない。

 ただ、事実として胸のどこかに沈んでいるだけだ。


 町が焼け、霊災と戦火とで世界がひっくり返ったあの日。

 総悟は、人々と共に列車に詰め込まれ、何もかも置き去りにしてこの国の片隅へ流れ着いた。母は、その途中で姿を消した。


 それ以上でも、それ以下でもない。


 引き出しを開ければ痛みが出てくる。

 だから、滅多に開けない。


 そのかわり、どこか別の場所へと足を向ける。

 理由など、あとからついてくればいい。


 車輪の音が少しずつ変わっていく。鉄橋を渡る重い響きから、やがて街中の線路を走る軽い振動へ。車内アナウンスががらがらのスピーカーから流れた。


『まもなく、黄梁――黄梁。お降りのお客様は、お忘れ物のないよう……』


 くぐもった声が、同じ地名を二度繰り返す。その響きがどこか、遠くの寺で鳴る鐘の音のようにも聞こえた。


「黄梁、ね……」


 口の中でつぶやき、総悟は上着のポケットを確かめた。指先が古びた切符の端に触れる。角が少し折れ曲がり、手汗で湿っている。


 切符は一枚きり。片道分しかない。


 戻るつもりがない旅だった。


 目的がはっきりしているわけではない。

 ただ、知り合いのつてを頼って、この町での住み込みの働き口を紹介されただけだ。そこへ転がり込めば、とりあえず寝る場所と飯には困らないだろう。父の二郎は、「好きにしてこい」と言いながら、ちゃっかり少しばかりの金を握らせてくれた。


 変な親父だ。

 ちゃらんぽらんで、ハゲで。

 けれど、肝心なときには背中を押してくれる。


 ――まあ、いい親父なんだろうな、多分。


 認めるのが気恥ずかしくて、心の中でだけそう付け足す。


 列車が速度を落とし、ぎしりと車輪が悲鳴を上げながらホームへ滑り込んでいく。窓の外には、黄梁駅の古びた屋根が見えた。波打つような瓦屋根の下にぶら下がる、小さな白熱灯。薄暗い光が、駅名を書いた木製の看板を照らしている。


 人々が立ち上がり、荷物を持って出口へと押し寄せる。

 総悟は少し遅れて腰を上げ、人波がいくらか引いたところで通路へと出た。


 ホームに降り立つと、冷たい空気が顔を打った。


「……寒っ」


 思わず小さく声が漏れる。襟を指でつまみ、首元を少しすぼめる。

 吐いた息が、うっすらと白くなった。


 黄梁は山に囲まれた町だと聞いていた。

 同じ季節でも、南の港町とは空気の冷たさが違う。湿り気を帯びた風が、コートの裾をゆらりと揺らした。


 ホームには、家族連れや商人、軍服姿の若い兵士、学生服を着た少年少女など、それなりの人出があった。洋装に身を包んだ女もいれば、まだ和服姿を崩さない年配の女もいる。昭和の空気と、古い時代の余韻とが、半分ずつ混ざり合ったような光景だった。


 その中に、わずかに空いた“間”のような場所がある。


 人々が自然と距離を取っている円。


 総悟は、そこに立つ三人組へと無意識に視線を向けた。


 黒い外套を揃えてまとった男女が三人。

 胸元には、白い刺繍で奇妙な紋が縫い取られている。

 腰には細身の太刀。袖口の内側からは、白符の端が覗いている。


 陰陽師。


 この国で、霊災と呼ばれる災いに立ち向かう者たち。

 総悟は本物を近くで見るのは初めてだった。


 思っていたよりも、ずっと普通の顔をしている。

 一番手前の男など、少し痩せぎすで、目つきこそ鋭いものの、顔だけ見ればどこにでもいる事務官に見えた。だが、その立ち姿には隙がなく、そこだけ空気の重さが違う。


 人々の囁きが聞こえる。


「あれ、陰陽寮の人間じゃないか」

「また霊が出たのかねえ」

「ここいらも物騒になったもんだ」


 総悟は鼻で笑った。


「……やたら目立つ格好して、かっこつけやがって」


 つぶやきは、誰にも届かない程度の大きさだった。

 単なる皮肉のはずだった。それでも、どこか胸の奥がざわついている。


 そのとき。


 ひゅう、と奇妙な風が吹き抜けた。


 駅構内に風が入るはずはない。少なくとも、こんな地下に潜りこんだようなホームで、突風が吹く道理はない。なのに、総悟の前髪がわずかに揺れ、耳の後ろを冷たい何かが撫でていった。


 足元が、ざわりと震える感覚。


 影が動いた――ような気がした。


 ホームの端。電柱の根元に伸びていた影が、墨を垂らされた水のようにじわりと濃さを増していく。輪郭が溶け、まとまり、やがて立ち上がった。


 黒い塊。

 形の定まらない人影。

 その中心だけが、じっと何かを見つめ返すような冷たさを帯びていた。


「ひっ」


 誰かが短く悲鳴を漏らす。

 赤ん坊が泣き出し、母親が慌てて抱き上げた。


「全員、下がれ!」


 黒外套の男が、一喝した。


 その声は大きくなかった。だが、妙な力がこもっていた。

 耳からではなく、骨を通じて響いてくるような声。人々は反射的に後退った。足がもつれ、鞄が落ち、新聞がばさりと床に散らばる。


 男はすでに太刀の柄に手を掛けていた。

 次の瞬間、鞘走りの音と共に、刃が闇の中へと閃いた。


 速い。

 抜き打ちの一動作に、無駄が一切ない。


 総悟は思わず息を呑んだ。

 自分の胸が、さっきまでとは違う高鳴りを見せている。恐怖とは少し違う。もっと生々しい、熱のある感情。


 黒い影が、ゆらりと揺れた。

 形になりかけた顔のようなものが、一瞬だけ浮かぶ。苦しげに歪んだ男の顔。怒りとも悲しみともつかない感情が、濃い墨の中に渦巻いている。


 陰陽師の男が、袖から白符を抜き取った。

 指先で軽く弾かれた符は空中でくるりと回転し、そのまま男の掌へと戻る。男は低く呪を唱えた。古い詩を逆さに並べ替えたような、不思議な響き。


「天枷、此処に。影、ここを出ず――封」


 最後の一字と共に、白符が燃え上がった。

 眩しい光が、ひと筋の矢となって影の中心へ飛ぶ。


 衝撃そのものは、ほとんどなかった。

 ただ、総悟の全身を、ぎゅっと圧縮するような圧が走る。


 耳鳴り。

 眩暈。

 心臓をわしづかみにされたような感覚。


 影が、ばらばらと崩れた。


 墨をぶちまけたように広がった黒が、じわじわと薄れ、その場から消えていく。何も残らない。こびりついたはずの嫌な気配すら、まるで最初からなかったかのように霧散した。


 ざわ、と人々の間に風が通った。


「終わったのか?」

「やっぱり出たんだな、ここでも」

「陰陽師様々だ……」


 感嘆とも、恐怖とも、安堵ともつかぬ声があちこちから上がる。

 泣いていた子どもの声が、まだぐずぐずと尾を引いている。


 陰陽師の男は、何事もなかったかのように太刀を納めた。

 黒外套の襟を正し、ちらりと周囲に鋭い視線を投げる。観客が自分たちに無遠慮な好奇の眼差しを向けていないか、確かめているようだった。


 視線が、一瞬だけ総悟の方へ向いた。


 目が合った――気がした。


 総悟は、わざとらしいほどゆっくりと視線を逸らした。


「……派手にやってくれるよな」


 口の端だけで笑い、胸の高鳴りを押し殺す。

 憧れだと認めたくない。

 ああいう“選ばれたような顔”をしている連中を見ると、どこかで反発したくなる性分だった。


 そのとき。


 ふいに、空気の流れが変わった。


 先ほどまで濃かった霊の残り香が遠のき、代わりに、澄んだ水のような気配がホームに流れ込んでくる。冷たいが、刺すような尖りはない。ただ、静かに肌の上を滑っていく。


 白い布が、視界の端で揺れた。


 そちらを振り向いた総悟の目に、ひとりの少女の姿が飛び込んできた。


 白い着物に、淡い藤色の帯。

 その上から、紺の外套を羽織っている。

 黒髪は肩より少し下で切りそろえられ、後ろで簡素に結われていた。


 顔立ちは、大人びているわけではない。

 どちらかと言えば、年相応の少女と言っていい。

 だが、目もとには芯の強さが宿り、唇の引き結び方ひとつで、その内側にある気の強さが知れた。


 整っている、というよりも――凛としている。


 そんな言葉が似合う横顔だった。


 少女は、先ほど影が現れたあたりをじっと見つめていた。

 消えたはずの何かを探すように、その視線はゆっくりと移動する。眉がわずかに寄り、一瞬だけ、悲しげな色が差した。


 次の瞬間、その瞳がこちらを向いた。


 黒く澄んだ瞳。

 そこに映った自分の姿が、ガラス越しに見るのとは別物のように感じられた。


 総悟の胸が、どくん、と大きく跳ねた。


 ――なんだ、あいつ。


 女に見られることには慣れている。

 好奇心まじりの視線も、戸惑いを含んだ視線も、嫉妬まじりの視線も、嫌というほど浴びてきた。


 だが、この少女の目は、どれにも似ていない。


 怯えでもない。

 軽い興味でもない。

 憧れでも、蔑みでもない。


 何かを確かめるような、まっすぐな目だった。

 生来の強さと、言葉にしづらい影とを同時に宿した瞳。


 視線がぶつかり合う。

 逃げようと思えば逃げられた。

 なのに、総悟はなぜか目を逸らせなかった。


 喉が渇く。

 手のひらに汗がじっとりとにじむ。


 自分でも、そんな反応をする理由が分からない。


 だから、いつもの癖で、ほんの少しだけ口元をゆがめた。


(……そんなに見てんじゃねえよ)


 声には出さない。

 出してしまえば、ただの悪態だ。

 だが、心の中でそう吐き捨てたとき、少女の瞳がわずかに細くなった。


 何かを見透かしたような目。


 そして彼女は、ふっと視線を外した。


「――あゆみ」


 低く、厳しい男の声がした。


 少女の隣には、いつの間にか軍服に似た制服を着た中年の男が立っていた。背筋を伸ばし、髭をきちりと整えたその姿は、いかにも古い家柄の男といった風情だ。胸には、先ほどの陰陽師たちのものに似た紋が刻まれている。


「無駄に人目を引くなと言っただろう」

「……すみません、雄二叔父さま」


 少女――あゆみと呼ばれたらしい――は、小さく頭を下げた。

 素直な仕草だったが、どこか諦めの色も混じっている。


「ここは端の町とはいえ、霊災の跡が濃い。陰陽師がいるだけで嫌な顔をする者もいる。まして――」


 男はそこで言葉を切り、周囲を一瞥した。

 その視線が、偶然なのかどうか、ほんの一瞬だけ総悟の方をかすめる。


 総悟は、知らぬ顔をして肩をすくめた。


「分かりました。気をつけます」

「ならばよい。行くぞ」


 あゆみは静かに頷き、男の後ろへとついていく。


 歩き出したその背中を、総悟はなぜか目で追ってしまった。

 白い着物の裾が、紺の外套から覗き、足元で揺れる。その歩き方には無駄がなく、それでいて女らしい柔らかさがあった。


 階段へ差しかかる手前で、あゆみがふと振り返った。


 ほんの瞬きほどの短い時間。

 誰かを探すように、ホーム全体を見回す。


 視線が再び、総悟と重なる。


 今度は、先ほどよりも微かな感情がそこに宿っていた。

 何かを問うような、あるいは、何かを託すような。


 総悟は、わざとらしいほどゆっくりと口の端を上げた。


 強がりにしか見えない笑み。

 だが、自分にはそれしか持ち合わせていなかった。


 あゆみは何も言わず、くるりと背を向けた。

 紺の外套がひるがえり、彼女の姿は人の波に紛れていく。


 残されたホームには、いつもの雑多なざわめきだけが戻っていた。

 陰陽師たちも、いつの間にか姿を消している。


「……なにやってんだ、俺」


 自分で自分に呆れたように呟き、総悟は肩に掛けていた荷物を持ち直した。駅舎の出口へ向かって歩き出す。


 黄梁の町で、何が待っているのか。

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