第1話  「星空で拾った哲学」

 午後11時の相談所。


 透は古びた木製の机に向かい、一通の手紙を開いた。


 便箋の文字、インクの濃さ、紙の折り目。


 すべてが相談者の心を映している。


「今日はどんな悩みだろう」


 透はペンを取りながら、誰に向けるでもなくつぶやいた。



 ◆



 五路交差点発、哲学者のほろにがログ。第1話。


 便箋には、丸い文字でこう書かれていた。


『彼氏と付き合って3年。プロポーズされたけど、本当にこの人でいいのか不安です。好きだけど、もっと良い人がいるかもって思ってしまいます。どうすればいいですか? 26歳・女性』


 透は小さく笑う。


「典型的な"隣の芝生"症候群だな」


 彼はノートに書き込む。


「選択肢の数をN、現在の満足度をS=0.7、理想の相手に出会う確率をP=0.1とする。


 期待値E=S×1.0(現状維持)vs P×1.0+(1-P)×0.3(探索継続)


 E1=0.7 vs E2=0.1+0.27=0.37


 論理的には、現状維持が最適解」


 だが、透の手が止まる。


 窓の外、星空が見える。


 街灯の少ない交差点だから、夜空がよく見える。


 透は立ち上がり、窓を開けた。


 冷たい風が頰を撫で、星の光がノートに落ちる。


「でも、人間は論理だけで生きてるわけじゃない。星の数ほど、選択肢があるんだ」


 彼は便箋に、丁寧な文字で書き始めた。


『あなたの不安は、正常です。


 人生の大きな選択の前で、迷わない人はいません。


 でも、問いを変えてみましょう。


「もっと良い人がいるかも」ではなく、


「この人と一緒に、もっと良い未来を作れるか?」


 相手を選ぶのではなく、未来を選ぶのです。


 完璧な相手は、この世界に存在しません。


 でも、一緒に成長できる相手は、存在します。


 星空を見上げてください。


 無数の星がありますが、あなたが見ているのは、今この瞬間の星です。


 他の星を探し続けることもできます。


 でも、今見えている星の輝きを、大切にすることもできます。


 選択に正解はありません。


 ただし、選んだ後に正解にする努力は、できます。


 あなたの心に問いかけてください。


「この人と一緒に、星を見上げたいか?」


 答えがYesなら、それがあなたの答えです。


 君の星は、どんな願いを宿してる?


 藤原透』


 透は手紙を封筒に入れ、棚に置いた。


 壁一面の木製棚、「置き手紙の棚」。


 そこには、これまで受け取った相談文と処方箋が並ぶ。まだ始めたばかりだから、棚はスカスカだ。


 でも、いつかこの棚が埋まる日が来るだろう。


 人の悩みは、尽きることがないから。


 透は窓の外を見る。


 星空が、静かに輝いている。


「俺も、選択の連続だな」


 大学院を辞めたこと。


 古本屋でバイトを始めたこと。


 この相談所を開いたこと。


 どれも、正解かどうかはわからない。


 でも、後悔はしていない。


 その時、ドアが軽くノックされた。


 透は顔を上げる。


 珍しい。


 普通、相談者は手紙を置いて帰るだけなのに。


「どうぞ」


 ドアが開き、若い女性が入ってきた。


 20代後半くらい。


 少し緊張した表情で、手に封筒を持っている。


 封筒の表面に、かすかな星のイラスト。


「あの……置き手紙相談所、ですよね?」


「はい。藤原です」


 透は立ち上がり、軽く頭を下げる。


 女性は封筒を机に置いた。


「これ、お願いします」


「わかりました。返事は明日の夜、この棚に置いておきます」


 女性は頷き、帰ろうとする。


 だが、ドアの前で立ち止まった。


「あの……」


「はい?」


「本当に、論理式で悩みが解けるんですか?」


 透は少し考えて、答える。


「論理式は、道具です。悩みを整理するための。でも、最後に答えを出すのは、あなた自身です。星みたいに、自分で輝くんですよ」


 女性は小さく笑った。


「なんか、哲学者みたいですね。私も星好きなんです。相談、楽しみにしてます」


「ありがとうございます」


 女性は帰っていった。


 透は机に置かれた封筒を見る。


 星のイラストが、夜空のように輝いている気がした。


「この星、何の物語を運んでくるんだろう」



 ◆



 透はその封筒を棚に置き、ふと入口のポストを見た。


 いつの間にか、別の封筒が差し込まれている。


「さて、今夜はもう一通か」


 透はポストから封筒を取り出し、開ける。


 便箋には、こう書かれていた。


『仕事を辞めたいです。でも、次が決まってないし、親にも反対されてます。このまま我慢すべきでしょうか? 24歳・男性』


 透はペンを取る。


「我慢の限界値をL、転職成功率をP、現状維持のストレスをSとする……」


 彼は計算を始める。


 だが、途中で手が止まる。


 窓の外、星空がまた見える。


「俺も仕事辞めたい日、あるよ。でも——」


 透は小さく笑い、便箋に書き始めた。


「星は、動かない。でも、地球は回ってる。俺たちも、動けるんだ」


『我慢は、美徳ではありません。


 我慢は、選択を先延ばしにしているだけです。


 でも、焦る必要もありません。


 星空を見上げてください。


 星は、何億年も同じ場所で輝いています。


 でも、地球は回り続けています。


 あなたも、止まっているように見えて、実は動いています。


 毎日、少しずつ変化しています。


 転職するかどうかは、今決めなくてもいい。


 でも、今日から準備を始めることはできます。


 履歴書を書く。


 求人を見る。


 自分のスキルを棚卸しする。


 小さな一歩が、大きな選択を支えます。


 星は動かないけど、あなたは動ける。


 それが、人間の強さです。


 藤原透』


 透は手紙を封筒に入れ、棚に置いた。


 二通目。


 棚が、少しずつ埋まっていく。


 透は窓を閉め、相談所を出た。


 外は静寂。


 五路交差点に立ち、透は空を見上げる。


 星空が、無数に輝いている。


「俺も、星を拾ってるのかもな」


 人の悩みという名の、小さな星を。


 一つ一つ、拾い集めて、棚に並べる。


 それが、透の仕事だった。


 透は一歩を踏み出す。


 五つの道のうち、一つを選んで。


 明日も、また星を拾いに来よう。


 君も、この交差点で星を拾ってみないか?


(第1話完 次話へ続く)


 次回、透は「平凡な日常」について考える。

 そして、星のイラストを描いた女性の悩みが——

 八年前の今日、雪が最後に見た星空を、君は覚えているか?

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る