14.母

集中治療室の空気は、いつも張り詰めている。わたしの身体に貼られた電極は、皮膚に張り付いて不快なだけでなく、この白い機械たちとわたしを繋ぐ、命綱のようなものだ。ピー、ピー、という心電図の音は、規則的であればあるほど、かえってわたしを不安にさせた。いつそのリズムが乱れ、けたたましいアラームに変わるのか、わたしは絶えず耳を澄まさなければならない。

わたしは、母を嫌いになれない。

あれほど長い間、この病室に来てくれなかった母なのに、わたしが高校に入学するという、人生でたった一度の晴れ舞台さえ、母は恐れて逃げたのに。そして、わたしが本当に死に瀕して、ICUに運び込まれた時だけ、涙と後悔に濡れた顔で、わたしの手を握った。

その事実は、わたしに刃物のように突き刺さっているのに、その痛みに勝てない。わたしが普通の生活を送っている間は、母にとって見たくない現実だった。わたしが死の目の前に立った瞬間だけ、母の愛が発動する。


わたしは、その冷酷な真実を、頭では理解している。

それでも、母を嫌いになれないのだ。母の冷たかった手の感触が、まだわたしの手のひらに残っている。母が流した涙の熱さが、わたしの頬のすぐ横にあった。あの時、母は心から、わたしを失うことを恐れていた。その、一時的で、切羽詰まった愛の光を、わたしは、この灰色の十五年間、ずっと飢えていた。

あの光が、わたしにとって、どれほど貴重なものだったか。

わたしは、母を突き放せば、少しは楽になると分かっている。

「どうせわたしなんて、心臓が動いてるだけの、生きている人形だ。ママだって、わたしなんてどうでもいいんでしょ」

そう、冷たく言い放つことができたら、わたしの胸の奥にある、鉛のように重い苦しみは、軽くなるのかもしれない。期待しなければ、失望もない。愛を求めなければ、拒絶される恐怖もない。それが、この病室で生き残るためには一番いいとわかっている。

だが、わたしは、それをできない。

母の顔を思い浮かべるだけで、わたしの心臓は、さらに弱いながらも、母を求める。母の笑顔、母の匂い、母が読んでくれた絵本の中の優しい声。古い記憶が、わたしを鎖で繋ぎ止めて離さない。

わたしは、ただ、母親に愛されたい。

わたしは母に愛されていると感じられる時間が少ない分、まだこころは自立出来ていない。

どうしたらいいのだろう。

わたしは、目を覚ましてから、また母の姿を探した。あの夜、母は泣きながら、すぐにまた来てくれると言った。父も、医師から説明を受けている間、ずっとわたしの顔を見ていた。

だが、あれ以来、母は、まだ来てくれない。

そして、父もだ。

ICUでは、面会時間は厳しく制限されている。だから、仕方がない。そう、何度も自分に言い聞かせた。けれど、窓の外の茶色い壁を見て、日が昇り、日が沈むのを何度も繰り返すうちに、わたしの胸は、重い石で押し潰されるような感覚に支配された。

わたしはいまも、ICUで、生命の危機に晒されている。それ以上の、どんな緊急事態があるというのだろう。わたしの心臓は、いつ止まってもおかしくない。それなのに、母は、父は、わたしのベッドサイドに、面会時間に合わせてさえも、姿を見せてくれない。

辛い。

わたしは、両親に、あまり好かれていない。

この現実は、あの高校の入学式の日から、いや、もっとずっと前から、わかっていたことだ。

両親の愛は、わたしを失う恐怖から生じる、義務と罪悪感によって支えられている。わたし自身への、純粋な、無条件の愛ではない。もしわたしが健康で、何の苦労もなく生きていたら、彼らはもっとわたしを愛してくれただろうか。

いや、違う。彼らは、わたしの病気ではなく、わたしを助けられないという自分たちの無力さに絶望し、そして、わたしから逃げているのだ。

彼らの絶望は、すべて、わたしの弱い心臓が原因だ。

わたしは、このICUで、死に瀕しているのに、2人は来ない。両親が、わたしの命よりも、自分たちの平穏を選んだということだ。わたしの死を、心のどこかで受け入れ始めているということではないだろうか。

そんな風に、わたしを突き放す両親だというのに、わたしは、どうしても彼らを嫌いになれない。

母の手を、もう一度握りたい。父の声を聞きたい。

なぜ、わたしは、わたしを愛してくれない人たちを、こんなにも求め続けるのだろう。

この病気が、わたしの心まで病気にさせてしまったのだろうか。

そんなわたしが嫌いだ。

わたしは、弱い。体が弱いだけではない。精神も、感情も、意思も、すべてが弱い。

わたしは、両親に捨てられかけているのに、諦めることも、憎むこともできない。わたしがこの世から消える日まで、わたしは苦しみ続け、両親の不在に泣き続けるのだろう。

ICUの白い天井に、自分の涙の熱さが、溶けてゆくのを感じた。隣のベッドからは、また誰かの機械のアラームが鳴っている。わたしと同じように、孤独と戦い、諦めきれない命が、音を立てて崩れていく。

わたしは、両身の顔を思い浮かべながら、胸の奥で何度も叫んだ。

来ないで。もう来ないで。もっと離れていたら、求めないかもしれない。

そう思って叫びながら、わたしの目は、扉の向こうに、両親の姿が現れることを、ひたすらに願い続け、離せない。矛盾した感情の波が、心臓を締め付け、わたしをさらに苦しめる。わたしは、この矛盾から、永遠に逃れられないのかもしれない。

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