5.どうして
冷たいベンチの上で、わたしは石のように固まっていた。
座っている場所は、人の流れが途切れることのない駅のホームだ。わたしは、世界から切り離されているのに、常に誰かの視線に晒されているという、矛盾した地獄の中にいた。
時間が、恐ろしくゆっくりと過ぎてゆく。頭の中で、「どうしたらいいの?」「どうしたらいいの?」という言葉が、潰れた蝉の鳴き声のように、小さく、繰り返し響いている。
施設に戻ったら、どうなるのか。夫婦に何を言われるのだろう。学校に連絡したら、どうなるのだろうか。結花にも、先生にも、「学校に行けない子」として見られるのか。
どの道を選んでも、わたしの未来は、茨の道しかなかった。
「……あ、愛ちゃん?」
突然、頭上からかけられた声に、全身の血液が一瞬で凍りついた。
恐る恐る顔を上げると夫婦が、わたしの目の前に立っていた。
彼らは、普段の穏やかな「施設長」の顔ではなく、硬く、冷たく、不機嫌な表情をしていた。特に、女性の目が、わたしを鋭利な刃物のように貫いていた。
「な、なんで……」
言葉は、蚊の鳴くような声しか出なかった。
男性は、ため息をつきながら言った。
「駅員さんから、施設に連絡があったんだよ。『制服の女の子が、朝からずっとベンチに座っている』ってね」
駅員さん。
わたしを見ていた、あの好奇心の目。それが、結局、わたしの居場所を夫婦に教えてしまったのだ。わたしを心配してくれたわけではない。ただ、『面倒な問題児』として、施設に押し付けただけだ。
わたしは、もう、普通には戻れない気がして、怖くなった。
普通の子は、学校に行かずに駅のベンチで一日中過ごしたりしない。普通の子は、施設に連絡されるという事態を引き起こさない。わたしは、自分でも気づかないうちに、もう、「普通」のレールから大きく逸脱してしまったのだ。
夫婦は、わたしを立ち上がらせると、腕を掴んで、タクシーに乗せた。
施設に着くまでの道中、二人は一言も喋らなかった。それが、かえってわたしにはこわくて、嵐の前の静けさのように、次に何が起こるのか、想像もつかない。
施設に着くと、わたしはすぐに個室に連れて行かれた。
ドアが、ガチャンという音を立てて閉まる。そこは、わたしだけの、地獄の密室だった。
普段と違って、彼らはすぐに怒鳴ったりはしなかった。
女性が、まず、冷たい声で、わたしの「愚かさ」を指摘し始めた。
「あんた、自分がどういう立場か分かってるの?」
「私たちに、どれだけ恥をかかせたかあんた分かる?」
「周りの目があるんだよ。私たちは、あんたを大切に育てているフリをしなきゃ行けないの。なのに、あんたは勝手に学校をサボって、『この施設は問題児を放置している』って、世間に言われるようなことをしたのよ!」
その言葉に、わたしは絶望した。彼らが怒っているのは、わたしが学校に行かなかったことではない。彼らの体面が傷つけられたこと、彼らのストレスが増えたことだけなのだ。
そこから、何時間も続いた。
男性と女性は、交代で、まるで流れる水のように止まることなく、わたしの悪口と、二人の愚痴を聞かせ続けた。
わたしの要領の悪さ。
わたしが人付き合いの下手なこと。
「あんたみたいに暗い子、誰が友達になるのかな?結花ちゃんが離れていったのも、あんたのせいだよ」
「どうせ、あんたはどこに行ったって、迷惑をかけるだけだぞ。施設を出ても、ロクな人間にならないよ」
そして、彼らの人生への不満。
「なんで、俺たちがあんたたちみたいな面倒な子の世話をしなきゃいけないんだ。本当は、老後は優雅に旅行でもしていたかったのに!」
「市からの助成金だって、全然足りないの。あんたたちがいるせいで、私たちばっかり我慢してる」
わたしは、ただ座っていることしかできなかった。彼らの言葉は、音波になって、わたしの体を通り抜け、心を傷つけ、魂を削り取ってゆく。
時計の針が、何度進んだのだろう。
個室の窓から差し込む光が、次第にオレンジ色になり、そして濃い青に変わるまで、その絶望は続いた。
ようやく解放されたとき、わたしの体は動かすこともできないほど重くなっていた。心は空っぽで、悲鳴を上げる力すら残っていない。
夜も、わたしはほとんど眠れずに、次の日の朝が来た。
行かないといけない。頭では、わかっている。
昨日学校に行かなかったことで、わたしは一線を越えてしまった。今日行かなければ、欠席は二日目になる。明日、明後日と、その日数が増えてゆくことの恐怖は、計り知れない。
そうしたらまた夫婦に罵倒されるのだろう。また駅員に通報されるかもしれない。
行かないと、もっともっと、辛い思いをすると分かっている。
それでも、怖い。
体と心が、動くのを拒否する。
あの学校の門をくぐる勇気がない。結花のいるのにいない教室に入る力がない。他人の好奇の目に晒される資格がない。
わたしは、布団の中でガタガタと震えながら、時間だけが過ぎて行くのを傍観しているしかなかった。
「わたしは一体、どうなっちゃうんだろう。」
高校三年生の三月まで、あと三年。その三年が過ぎたとしても、わたしは何のスキルも、人間関係も持たないまま、社会に放り出されることになる。
「もし、このまま学校に行けなくなったら、わたしはどうなるの?」
そんな疑問が浮かんで、また怖くなる。施設は、問題児のわたしを、十八歳まで面倒を見てくれるのだろうか。それとも、途中で見放されるのだろうか。
未来が、全く見えない。
わたしの目の前に広がっているのは、濃い黒い霧だけだ。その霧の向こうに、希望の光があるのか、それとも奈落の底があるのか、何も分からない。
わたしは、ただ、その見えない未来が怖くて、全身を震わせていることしかできなかった。
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