2.高校
わたしは今、高校一年生。四月ももう終わりそうだ。
病室の窓の外、向かい側の建物の茶色い壁の向こうで、ときどき風が吹くたびに、桜の花びらの残骸のようなものが、はらはらと舞っているのが見える。あれが、今年の桜の終わり。そして、わたしが高校生になったという、曖昧な証拠だ。
普通なら、四月十日から新しい制服に袖を通して、もう二十日以上も高校に通い、新しいクラスメイトと笑い合い、お弁当を食べ、授業にも慣れている頃だと思う。
けれど、わたしは……。
わたしのカレンダーは、あの「一日」で止まってしまっている。
高校の入学式。あの日のために、わたしは人生で最も大きな賭けに出た。
ドクターに、看護師長さんに、父に、何度も頭を下げた。心臓への負担を考えれば、病室から出るなど、自殺行為に近いことだ。特に、大勢の人が集まる場所へ行くなんて。
「真礼、パパはやめてほしいな。万が一、何かあったら……」
父は、あの時、本当に泣きそうな顔をしていた。彼の目には、わたしが倒れる未来、あるいは、ピーという単調な音が途切れる未来しか見えていないようだった。
それでもわたしは、「お願い。たった一度だけ。普通の高校生として、一秒でもいいから、世界を見てみたいの」と懇願した。
わたしの人生の終わりが五年後かもしれないなら、この「高校生になる」というイベントが、最初で最後の、わたしの人生のハイライトになるかもしれない。この白い病室から卒業するために、どうしても必要だった。
結局、父が病院に多額の寄付をすることを条件に、ドクターは渋々、一時間の外出を許可してくれた。もちろん、常に看護師さんが一人付き添い、万が一に備えて、ポータブルの心電図モニターと、酸素ボンベが、病室外の待機車両に用意されるという、厳戒態勢での外出だった。
そして、当日。
わたしは、まっさらな、紺色の制服に袖を通した。普段着ている病院服や寝間着とは違い、その制服は少しだけ硬くて、新しい布の匂いがした。鏡に映ったわたしは、頬こそ相変わらず青白いものの、制服の襟元にある白い三本線が、まるで勲章のように輝いて見えた。この瞬間だけは、普通の高校生でいられるかもしれない。
「大丈夫。一時間だけ」
わたしは自分に言い聞かせた。
父の車で高校に着くと、そこには、まぶしい光景が広がっている。
色とりどりの春服を着た保護者と、新しい制服を着て、少し緊張しながらも、未来への期待に目を輝かせている同い年の子たち。
彼らが放つエネルギーが、別の世界の光のように、わたしの灰色だった世界を、一瞬にして照らした。
わたしは、教室に入る直前の廊下で、そっと立ち止まった。緊張と、心臓の鼓動が早くなるのを抑えながら、わたしが一番会いたい人を探した。
─ママ。
母に会いたいのに、母は来なかった。
入学式は、体育館の二階席、保護者席の一番端で、父と、付き添いの看護師さんと一緒に座った。わたしの心臓に負担がかからないよう、なるべく静かに、目立たないように。
父は、隣で終始暗い顔をしていた。
「真礼、疲れてないか?」
「真礼、息が苦しくなったら、すぐに言ってね」
父の言葉は、祝福というよりは、監視だった。父の横顔は、喜びではなく、不安と恐怖で固まっていた。
壇上で校長先生が「未来を担う新入生たちへ」と話している間も、わたしの視線は、ずっと保護者席のどこかに、母の姿を探していた。
母の姿は、どうしても見つからない。
わたしの未来に絶望した母は、この「門出」さえも、わたしの側にいて祝ってくれることを、耐えられなかったのだろう。彼女にとって、わたしが高校に入学することは、「あと五年」という残酷な期限を、改めて突きつけられる行為でしかないのかもしれない。
普通なら嬉しいはずの、人生の門出である入学式。それが、わたしには、ひどく辛かった。
心臓の鼓動は、速いままだった。それは、高揚感からではなく、不安と、孤独と、そして、この「普通の世界」に、わたしが存在してはいけないという罪悪感からくるものだった。
一時間の式が終わり、わたしは急いで車に戻された。
制服は、その日のうちに脱ぎ、病院の白いパジャマに戻った。そして、それから二十日。わたしの世界は、また白いベッドの上に戻っている。
わたしは、枕元に置かれた、真新しい高校の教科書に、そっと指先で触れる。英語、数学、国語……。それらは、もう二度と開かれることのない、「普通の高校生」の夢の残骸だ。
唯一、入学式で配られたクラスの集合写真。あの時、わたしの両隣にいた、名前も知らない女子生徒二人。彼女たちの屈託のない笑顔が、わたしの灰色に支配された病室の中で、唯一、強すぎる光となって、わたしを音もなしに責め立てているように感じられた。
わたしは、あの世界に行ってはいけない。
白いシーツの上で、わたしはそっと、目を閉じた。心電図の「ピー、ピー」という音が、わたしの世界の現実を、無機質に告げ続けている。
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