第1話 額の文字

『ねぇ、じいちゃん。じいちゃんの言う“普通”ってなに?』


『ん?あぁ…それはね…、お前がお前のままでいるということだ』


小さい頃、じいちゃんが言っていた“普通”と言う言葉。俺に会うと、じいちゃんは呪文のように繰り返す。


『俺のまま?』


『そうだよ。真人、心のままに生きていく…』


父ちゃんも母ちゃんもいない、じいちゃんと俺だけの世界。


『じいちゃん、ほら見て。カマキリが蝶を食べているよ、素敵だね』


俺の指差した先にはカマキリと捕まえられた蝶。蝶は羽根をヒラヒラと動かして懸命に逃げようとしている。


じいちゃんは俺の指差した方に視線を向け、しばらく黙ったまま見つめていた。


そのあとゆっくりと俺の方へ視線を戻し、俺の頭を優しく撫でてくれた。大きな手がそのまま額から前髪を撫で下ろすように動き、俺の視界がじいちゃんの手で覆われた。


じいちゃんの表情がわからない。


『本当にそう思うかい?』


けれど、ゆったりした優しい声。


『どうして?じいちゃんはそう思わないの?』


同意してもらえると思っていた幼い俺は、じいちゃんの問いかけに一瞬驚いた。蝶は、カマキリの生きる糧になる。それのどこがおかしいんだろう?


『カマキリは生きるために蝶を食べる…でも、蝶は死んでしまう』


じいちゃんの額にある“悪”という文字…そういえば、母ちゃんも父ちゃんにもある。これが、じいちゃんが素敵だと思わない理由なのかと幼い俺は理解した。


‐ピピピ


目覚ましが鳴る。どうやら、俺は夢を見ていたようだ。


「またじいちゃんの夢か」


まるで俺に何かを訴えかけるようにじいちゃんの夢はいつもこのシーンが繰り返される。


結局じいちゃんが何を考えていたか、今の俺には知るすべがない。


そう、じいちゃんは俺に何も言わずに忽然と姿を消したんだ。


結局幼い俺には“普通”が理解できず、徐々に父ちゃんや母ちゃんが言う『俺たちの子だ!お前はとても立派な子だよ』が“普通”なのだと理解していった。


じいちゃんがいなくなってから、俺は親の言葉通りに立派になるため、善であるため日頃から善い行いをするようになった。


学校で“悪”と言う言葉の意味を知るようになってから、あの日の考えが確固たるものへと変わり俺の親に対する温度は少しずつ冷めた方へ向かっていった。


親の二の舞になるわけにはいかない。


成績だって人よりもいい、努力だってした。生活態度も問題はない。


だから、俺は善だ。俺はこれからも良いことをする…。


俺は鏡の前に立って、自分に言い聞かせた。


部屋をでて、俺が階段を降りていくと、母ちゃんはテレビと睨めっこしていた。


また犯罪者特集のニュースを見ているのか。


‐今日のニュースをお伝えします。昨夜未明、“最悪”と額に書かれ…‐


ブチンッ


光を放つ機械の箱の電源を切る。


最悪と額に書かれた人間は、他人から口にすることを許されており、この犯罪者を摑まえるためにニュースを流している。


「あら、まぁくんおはよう。今日も早いのね」


「委員長だからね、早く学校へ行って準備をしておかないと」


俺に気付いて、母ちゃんはいつもと変わらない笑顔を向ける。普段通りの母ちゃんのどこに悪があるのかと、時折俺は冷静に考えるけれど、どういう基準で善悪を決めているのかが理解できない。


この基準を唯一知っていた発明した科学者は、誰にも基準を伝えることなく、自殺したんだ。そう伝えられている。伝承なだけで本当のことは、誰も知らない。


「毎日犯罪者の特集ばかり見ていたって教養が身につくわけないよ」


俺は母ちゃんに背を向けて、玄関で靴を履こうと腰を下ろす。俺を見送ろうと母ちゃんは俺の後を追う様に玄関までやってくる。そしていつも言うセリフ。


「それより、まぁくん!“最悪”の人間と付き合っちゃダメよ」


「わかってるよ…。“良”以上のやつと付き合え…って言いたいんだろ」


“良”…俺は今まで“良”を見たことがない。じいちゃんも父ちゃんも、母ちゃんだって…先生すら“悪”だ。


それなのに大人がみんな口をそろえて言う。『皆さんは“良”です。きっと素敵な大人になります』と。


皮肉だ。自分は“悪”だというのに、気付かないまま子供に強いているんだから。


しかも親には子供の善悪の表示が見えない。これは善悪判断遺伝子を研究していくうえでわかったことだ。


「まぁくんはきっと“最良”よ!だって、私たちの子供ですもの」


そして、”最良”の俺は言う。


「あたりまえだよ、母ちゃん。だって、俺は母ちゃんと父ちゃんの息子だからね」


靴を履きながら母ちゃんに笑顔で返事した後、横にある姿見には目もくれず俺が家を後にした。


鏡なんて必要ない。だって俺は良なんだから

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