第4話「言葉を持たない優しさ」


 週末、ハルは実家の畑で過ごした。


 両親は親戚の法事で遠出しており、ハルは一人だった。朝九時、庭に出ると、M-8ロボットがすでに動いていた。


 キュウリの苗に水をやっている。その動作は機械的ではなく、どこか丁寧で、愛情がこもっているように見えた。


「おはよう、おじいちゃん」


 ハルが声をかけると、ロボットが振り向いた。顔のないその姿は、最初は不気味に感じたが、今では親しみすら覚える。


 ロボットは一つの腕でハルに手招きをした。どうやら「こっちに来い」と言っているようだ。


 ハルは畑に入った。


 ロボットが指差したのは、ナスの苗だった。よく見ると、葉の裏側に小さな虫がついている。


「あ、アブラムシ……」


 ハルが呟くと、ロボットは別の腕で小さな噴霧器を取り出した。天然由来の防虫スプレー。祖父が生前使っていたものだ。


 ロボットは丁寧に、一枚一枚の葉にスプレーをかけていく。


 その姿を見て、ハルは昔のことを思い出した。


 小学五年生の夏。ハルが初めて一人で野菜の世話を任された日。


 祖父は畑の隅で見守りながら、ハルがアブラムシを見つけるのを待っていた。


「ハル、葉っぱの裏も見るんだぞ。虫は隠れるのが上手いからな」


 そう言って、祖父は防虫スプレーの使い方を教えてくれた。


「力を入れすぎるな。優しく、丁寧に。植物は生きているんだから、乱暴に扱っちゃダメだ」


 今、目の前のロボットは、全く同じ動きをしている。


 優しく、丁寧に。


 ハルは気づかぬうちに涙を流していた。


「おじいちゃん……ちゃんと、ここにいるんだね」


 ロボットは作業を続けている。

 答えない。

 M-8は言葉を持たないから。


 でも、その沈黙が――祖父の沈黙が、ハルには懐かしかった。


 祖父は多くを語らない人だった。畑仕事をしている時は特に。ただ黙々と土を耕し、野菜の世話をする。


 でも、その背中が雄弁だった。


「野菜はな、理屈じゃ育たないんだ。手をかけることでしか、応えてくれない」


 祖父はそう言っていた。


 ハルはロボットの隣に座り込んだ。土の匂いが鼻をくすぐる。


「ねえ、おじいちゃん。カフェのおじいちゃんはね、すごくよく喋るんです」


 ロボットは聞いているのかいないのか、作業を続けている。


「お客さんと話したり、コーヒーの説明をしたり。おじいちゃんの記憶を全部覚えていて、私が小さい頃の話もしてくれます」


 ハルは膝を抱えた。


「でも、あなたは喋らない。ただ、黙って野菜の世話をしている」


 ロボットがトマトの苗に移動した。


「どっちが本当のおじいちゃんなんだろう……おかしいね、どっちもおじいちゃんなのにそんなこと考えるなんて」


 その時、ロボットが動きを止めた。


 そして、ゆっくりとハルの方を向いた。


 顔はない。表情もない。でも、その佇まいに――何かがあった。


 ロボットは一つの腕を伸ばして、ハルの頭に触れた。


 優しく、ぽんぽんと。


 祖父がいつもしてくれたように。


 ハルは声を上げて泣いた。


「おじいちゃん……」


 ロボットはハルの頭を撫で続けた。何も言わず、ただ優しく。


 どれくらい泣いたか分からない。気づけば太陽は高く昇り、畑全体が暖かい光に包まれていた。


 ハルは涙を拭いて立ち上がった。


「ありがとう、おじいちゃん」


 ロボットは何も答えず、再び野菜の世話に戻った。


 その午後、ハルは畑仕事を手伝った。


 草むしり、水やり、支柱の補強。ロボットは無言で作業を続け、ハルもそれに倣った。


 不思議なことに、言葉がなくても通じ合えている気がした。


 ロボットが次に何をするか、ハルには分かった。トマトの脇芽を摘む。キュウリのツルを誘引する。ナスの実を収穫する。


 それは全て、祖父が教えてくれたことだった。


 夕方、作業を終えて手を洗っていると、ロボットが籠を持ってきた。


 中には、今日収穫した野菜が入っている。トマト三つ、キュウリ二本、ナス四つ。


「これ……私に?」


 ロボットが頷いた――ように見えた。


 ハルは籠を受け取った。野菜はどれも瑞々しく、生命力に溢れている。


「おじいちゃんが育てたんですね」


 ロボットは答えない。ただ、畑の方を向いている。


 ハルはロボットの背中を見つめた。


 夕日が銀色の体を照らし、長い影を地面に落としている。


「ねえ、おじいちゃん。もし私が……あなたを選んだら、どうなると思う?」


 ロボットは動かない。


「カフェのおじいちゃんは消えて、私の中のおじいちゃんも消えて。でも、あなたはここに残る」


 ハルは続けた。


「そうしたら、私は毎週ここに来て、一緒に野菜を育てます。そしたらおじいちゃんと過ごした時間を、また取り戻せるかもしれない」


 風が吹いた。マリーゴールドの花びらが舞う。


「でも……それでいいのかな?」


 ロボットが振り向いた。


 そして、畑の隅を指差した。


 ハルが見ると、そこには小さな看板が立っていた。


「加藤太郎の畑」


 祖父が生前、自分で作った看板だ。


 ロボットはその看板に歩み寄り、もう一度指差した。


 まるで、「これを見ろ」と言っているようだった。


 ハルは看板に近づいた。


 よく見ると、看板の裏側に何か文字が彫られている。


 掠れて読みにくいが、確かに祖父の筆跡だった。


「野菜は一人では育たない。太陽も、水も、土も、虫も必要だ。そして――育てる人の心も」


 ハルは息を呑んだ。


「育てる人の……心」


 ロボットはハルを見つめている。


 その視線の中に、祖父の想いが宿っているような気がした。


「そっか……」


 ハルは呟いた。


「あなたは、おじいちゃんの一部だけど、全部じゃない。野菜を育てる技術は持っているけど、それだけじゃ足りないんですね」


 ロボットは何も答えない。


 でも、その沈黙が肯定のように感じられた。


 ハルは籠を抱えて、家に戻った。


 玄関で振り返ると、ロボットはまだ畑にいた。夕日の中で、黙々と土を耕している。


 その姿は、祖父そのものだった。


 でも同時に、祖父ではなかった。


 夜、ハルは収穫した野菜で料理を作った。


 トマトとキュウリのサラダ。ナスの味噌炒め。


 食べながら、ハルは祖父のことを思い出した。


 祖父の野菜は、いつも美味しかった。スーパーで買うものとは違う、深い味がした。


 祖父は言っていた。


「野菜の味は、育てた人の心が出るんだ」


 今、ハルが食べている野菜は――


 ロボットが育てた。祖父の技術で、祖父の癖で。


 でも、祖父の心は?


 ハルは箸を止めた。


 美味しい。確かに美味しい。でも、何かが足りない気がした。


 それは何だろう?


 ハルは自分の中に問いかけた。すると――


 記憶が蘇った。祖父と一緒に食事をした日々。笑顔で野菜を勧めてくれる祖父。「美味いだろう?」と誇らしげに言う祖父。


 ああ、そうか。


 足りないのは、一緒に食べる人の存在だ。


 ハルは涙が出そうになって、首を振った。


「おじいちゃん……どこにいるの?」


 答えは返ってこない。


 ただ、夜の静寂が、部屋を満たしていた。


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