#008 〝it〟

「早苗ッ!?」

 通話が終わった後も配信の邪魔にならないようリビングで待機していた建巳だったが、劈くような早苗の叫び声を聞き付け寛ぐ為に開けた缶コーヒーも放り投げ一目散に配信部屋へと駆け込む。

 配信中は何があっても映り込むような邪魔をしたくはなかったが、ただでさえ不安定である早苗の精神状態と、尋常ではない叫び声に居ても立っても居られず扉を開けて室内に飛び込むが、いつも薄暗い中で配信している筈がこの時は何故かルームライトすらも消えて真っ暗になっていた。

 室内に早苗の姿は無く目線の先には【配信終了】を告げるディスプレイだけが煌々と照らしていた。

「早苗……?」

 ずっとリビングにいた建巳は早苗が配信部屋から出るところを見ていないし、早苗が配信部屋から出たら必ず気付く。少なくとも室内のどこかに居るはずではあったが、こう暗くては視界もままならない。

 扉に入ってすぐの壁際を手で探り電灯のスイッチを付けるとパッと白い光が室内を照らす。室内が見渡せるほどに明るくなったことで、建巳は早苗がデスクの下に潜り込んでいる状態であることに気付くことが出来た。

 何が起こったのか建巳には想像が付かなかった。オンタイムで〈翡翠メイ〉の配信を見てしまうとつい口を挟みたくなってしまうことから毎回配信終了後のアーカイブで視聴者の反応を確認することにしていた。しかし今この瞬間ばかりはオンタイムで〈翡翠メイ〉の配信を見ていなかったことを建巳は心から後悔した。

 配信終了後の画面に視線を向けると〔何があった?〕〔驚いた〕と流れていることが多く、この配信中に何があったのかは建巳自身が知りたかった。

 膝をついて頭を軽く下げ、デスクの下に潜り込んだままの早苗に声を掛ける。

「――早苗、どうした。出てこい、何があった?」

 見れば早苗は頭を抱え込むように全身を丸め、カタカタと小さく震えていた。直前まで太郎の存在に怯えていたことは建巳も熟知している。連絡さえ入らなければ配信中はこの部屋で早苗を見守っていたかった。しかし必要な連絡だったからこそ直前での退室は仕方のないことだった。

「……た、けみ、さん?」

 蚊の鳴くような小さな声で早苗は囁いた。

「ん?」

 部屋がいつの間にか明るくなっており、目の前には自分を心配してくれている建巳の姿があった。それを確認した早苗は後悔で押し潰されそうだった。

 配信を最悪な形で中断させてしまった。これではまた取り憑かれているという噂に拍車をかけてしまうことになる。一緒に〈翡翠メイ〉を作り上げてきた建巳にだけは迷惑をかけたくなかった。〈翡翠メイ〉を遣りきれなければ自らには価値すらないと考える早苗は絶望に満ちた表情を建巳へ向ける。

「大丈夫か?」

 腕を掴まれ優しくデスクの下から引きずり出される。そしてそのまま建巳の腕に抱き締められる。そこに一瞬だけの安堵はあったが、とてもではないが安堵など出来る状況ではないことを再び思い出す。

「建巳さん、建巳さんっ……あ、あのっ……!」

 腕から抜け出て建巳の腕を掴む。いざ口を開くも何をどう伝えたら良いのか頭の中に浮かぶ言葉が膨大で早苗は音の出ない口をそのまま何度も開閉させる。

「早苗、大丈夫だから落ち着け。何があったんだ?」

 建巳にも焦りはあったが、目の前の早苗を落ち着かせる為にはまず自分が落ち着かなければならないと分かっていた為視線を合わせゆっくりと呼吸を合わせるように早苗の頬を撫でる。

 何から話せばいいのか。初めは誰かが部屋に入ってきたというコメントだったと思う。しかし振り返っても当然そこには誰も居なかった。次に何かが聞こえた。そしてそれが人の声であると分かり、自分を呼んでいることが分かった。

 誰かの気配を感じた。誰も居ないはずなのに、自分のすぐ後ろに誰かの気配があった。だから振り返ってその気配を確認しようとした。――そう振り返った。そして〝目が合った〟。

 写真への写り込みや動画への映り込みで本当は知っているはずだった。だけど知らない振りをしていた。気付きたくなかった、認めたくなかった。あの時の恐怖が再び蘇りそうだったから。

 マンホールの件も、カミソリの刃が仕込まれた封筒も、デリバリーしたバーガーに混入していた農薬も、全部初めからそうだったのだと分かっていて気付かない振りをしていた。

「太郎くんが……また、近くまで来てるんです……」

 涙を流しながら訴える早苗の言葉に建巳はぴくりと眉を動かす。中指で眼鏡を押し上げ、表情の変化を悟られないようにした。そこまで気にせずとも今の早苗には気にする余裕などないだろうが、一種の防衛本能のようなものだった。

「早苗、良く聞くんだ。――太郎はもう死んでるんだ」

「……へ、……?」

 早苗が知らなかったのも無理はない。建巳は徹底的に早苗の周囲からそれに類する情報を遮断していた。早苗が知ればきっと気に病むと建巳は分かっているからだった。

 早苗から聞いたマンホール転落未遂とバーガーへの農薬混入、そして早苗宛てにいつの間にか紛れ込んでいたカミソリの仕込まれた封筒。これら一連の件は皆実体のある人間が行っていることで、既に死亡している太郎がそれらを行えるはずがない。

 きっと早苗の中には太郎に付き纏われていた恐怖が今も色濃く残っており、自らを見舞った不運を全て太郎の仕業であるという思考に直結してしまっている。

 死人はマンホールの蓋を動かすことなど出来ないし、カミソリラブレターを送る事もできない。毒入りのバーガーを届けることだって勿論出来ない。

 第二、第三の太郎のようなストーカー予備軍の仕業かもしれないし、それぞれが違う者の犯行かもしれない。少なくとも太郎ではないことだけは建巳が一番良く分かっていた。

「……だって、居たんですさっき、後ろに……」

 太郎でなければあれは誰なのか。早苗は確かにその人物と目が合った。あれが生きている人間だとは思えない。あの息遣い、傍らに感じた生々しい体温。あれが太郎でなかったら何であるというのか。

 太郎がもう死んでいるというのならば、それこそ太郎が自分を連れて逝こうとしているのだと、そう考えることに時間は掛からなかった。

 このまま自分は太郎に取り殺されるのだと早苗が自覚した時、早苗の意識はふっと途切れ建巳の腕の中へと倒れ込んだ。

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