第6話 「交渉」

**登場人物**

- ナカソネ

- タケシタ

- オオヒラ

- カネマル(臨時首相)

- ミヤザワ(官房長官)

- ムトウ(陸軍大将)


**舞台**

首相官邸会議室及びミサイル戦艦「ムサシ」艦橋


---


**起**


 翌朝。

 昨夜の興奮が嘘のように、静かな朝を迎えた。

 しかし緊張は続いている。

 交渉の選択を選んだ以上、今日が本番と言えた。


 ナカソネは、首相官邸へ向かう準備をしていた。


 艦長室で軍服を整えている。

 鏡を見ると、疲労が顔に出ていた。

 目の下にクマがある。

 思えば五日間、ほとんど眠っていなかった。


 しかし、まだ戦える。

 まだ、やることがあった。


 タケシタは武装を確認している。

 拳銃、弾薬、通信機。

 全てを点検している。


「護衛は十名です」


 それが可能な範囲で最小限の警備人数だった。

 しかし、ナカソネは首を振る。


「五名でいい」


 タケシタの提案の半分だった。

 タケシタが反対する。


「危険です。暗殺の可能性もあります」


 当然の懸念だった。

 政府が裏切る可能性はゼロではないし、そもそも無関係の人間が凶行に走る可能性もある。自分たちがそうであったように。


 しかし、ナカソネは笑った。

 穏やかな笑みには恐れがない。


「国民が見ている。彼らが望んでいるのは、テロリストのリーダーではない」


 理由はシンプルだった。

 国民は武装勢力の長を求めてはいない。


 オオヒラが報告する。


「メディアが会談を中継するそうです」

「透明性か。良い言葉だ」


 切り抜きや偏向報道ではない。

 全てが公開される。

 求めれば知る事が出来る。


 ――元より、ナカソネに隠し事はない。何も問題はなかった。


 彼は軍服を整える。

 最後のボタンを留めると、胸元で勲章が光った。

 多くの戦いを経験してきた証だ。


「行こう」


 ナカソネの言葉に、タケシタが従う。

 二人は艦橋を出る。

 廊下を歩けば、士官たちが敬礼する。

 全員が二人を見送る。


 甲板上にはヘリコプターが待機していた。

 既にプロペラは回っている。


 ナカソネは乗り込む。


 タケシタと、護衛五名が続き扉が閉まる。

 エンジンの回転数が上がり、機体が浮上する。

 最初はゆっくりと。そして素早く。


 眼下にトーキョー湾が広がる。

 青い海だ。朝日に照らされている。

 ムサシも見える。

 巨大な艦には、威厳があった。

 他の艦も整然と並んでいる。完璧な陣形であると、改めて感じた。


「美しいな」

「何がですか?」


 ナカソネは呟き、タケシタが尋ねる。

 何が美しいのかと、そんな疑問を口にする。


「秩序がだ」


 艦隊の秩序が、規律が。

 ナカソネには美しく感じられた。


 ヘリコプターは、首相官邸へ向かう。

 トーキョーの街を越えていく。

 高層ビルが見える。人々が動いている。普通の朝だ。

 人々は、日常に戻ろうとしている。


 ――十五分後。


 あっという間に、官邸のヘリポートが見える。


 機体が降りて、プロペラが止まる。

 扉が開いて階段が降ろされると、最初にナカソネが降りた。

 タケシタがそれに続く。


 カネマルが出迎えていた。

 一人だった。護衛が居ないのは、信頼の証だろうか。


「よく来てくれた」


 歓迎の言葉に敵意はない。

 その言葉に、ナカソネは頭を下げて答えた。

 軍人としては敬礼をしたかったが、彼はもう軍人をやめていた。


「お呼びいただきありがとうございます」

「形式的だな」


 指摘は、しかし嫌味ではない。

 ナカソネは真顔だ。そこに侮蔑の表情は無かった。


「性分です」




 ナカソネを先行するように、カネマルは会議室へ向かう。

 長い廊下を歩くと、廊下には報道陣がいた。

 カメラがずらりと並んでいる。

 マイクが向けられ、フラッシュが光る。


 カメラが二人を追う。


 歴史的瞬間だった。

 テロリストのリーダーと、新しい首相が共に歩いている。


 ナカソネは動じない。

 真っ直ぐ前を見て歩く。

 表情を変えない。カメラなど気にしなかった。


 会議室に入る。

 重厚な木製の扉は、国の歴史を感じさせた。


 会議室には、長いテーブルがあった。

 両側に椅子が並んでおり、中央に花が飾られている。


 片側にカネマル。ミヤザワ。

 そして数名の閣僚。

 新しい政権の顔だった。


 その反対側には、ナカソネとタケシタ。

 たった二人だ。しかし、存在感では引けを取らない。


 ――椅子が引かれる音が響き、全員が座る。


 沈黙が流れる。

 歴史的な瞬間だが、誰も口を開かない。

 何を最初に言うべきか、迷っていた。


 沈黙を破る様に、カネマルが口を開く。


「まず」


 一呼吸置く。


「国民に感謝したい」


 カネマルは、ここから始めるべきだと考えていた。

 まずは感謝を。心からの感謝が必要だと、彼はそう考えていた。

 ナカソネも頷く。


「同感です」


 同意だった。国民が、全てを決めた。

 カネマルは続ける。


「彼らは賢明な選択をしてくれた」

「血を流さずに済みました」


 ミヤザワも付け足す。

 同意する閣僚たちも、同じ気持ちであった。

 心からの安堵が、そこにはあった。


 ナカソネは言う。


「しかし、問題は山積しています」


 その通りであった。

 これからが本番となる。


「その通りだな」


 カネマルは同意する。

 自分の役割を理解していた。


「だから話し合う」


 今日の最初で、最後の目的だった。


**承**


 カネマルは資料を開く。

 分厚い資料だ。改革案が書かれている。

 即興なので纏められていないものだが、可能な限りの準備をしたものだった。


「現政権からの改革案を提示します」


 ナカソネだけではない。

 ニッポン国民全員が注目する改革案が、これから読み上げられる。


「第一。政治資金規制法の強化」


 最初の項目だ。

 ナカソネは頷く。

 聞こえている。しかし――


「具体的には?」


 確認が必要だ。抽象論では意味がない。


「議員給料の減額から始める」

「その次には、企業献金にも手を入れるつもりです」


 カネマルがしゃべり、ミヤザワが補足する。

 具体的だ。そして徹底している。

 ナカソネからの反論がなかったからか、カネマルは説明を続ける。


「第二。格差是正のための税制改革」


 重要な項目。

 もしかすると、最も注目度が高いかもしれない。

 ナカソネは尋ねる。


「こちらも具体的にお聞かせ願いたい」


 詳細を知りたい。

 ナカソネのそれは、国民の代弁でもあった。

 それに頷くミヤザワが説明する。


「超富裕層への課税強化と、低所得層への減税」


 格差是正のため、バランスを取りに来たように見える。

 ある意味予想通りだ。


「これを基本骨子として、給付ではなく、税を下げる事で対応する方針だ」


 賢明だと思った。

 給付はカンフル剤のようなものだ。繰り返せば政府への依存を生む。

 それでは、問題を先送りにする事と変わらない。


「勿論、超富裕層にはある程度飲んでもらうしかないが。そこは、最大限の努力を約束する」


 カネマルは言い淀む。

 事実、ここで言い切る事は不可能だろう。

 そもそも具体的な数字が調整不足だろうし、反発もある筈だ。


 ――しかし、ナカソネは評価する。


「富裕層は賢明です。問題の根本を理解している」


 そもそも、超富裕層はこういう流れで金を出し渋る事はない。労働者からの指示を失うことが自身の破滅を招く事だと知っているからだ。

 下手に抵抗するのは成り上がってきた半端な金持ちで、そう言う連中ならば尚更に問題がないと考えていた。 


「調整は必要でしょうが、最終的には飲むでしょう」


 ナカソネにしては珍しく楽観的ではあるが、事ここに至れば信じられる根拠があった。早い話、この状況では世論の圧力に逆らえる人間など多くない事を確信していた。


 カネマルは第三を述べる。


「そして、年金受給要項を見直す。若者支援策。就職支援の拡充」


 難しい問題と、労働力への投資。

 ナカソネは指摘する。


「失敗を認める社会を作るのですか?」

「その通りだ」


 ニッポンという国の本質へと切り込む話だ。

 失敗しましたは許されない。失敗を許容する社会への第一歩がこれなのだと、カネマルは肯定する。

 誰もが挑戦できる社会を作る。誰かが拾い上げてくれる社会を目指す。そんな理想だった。


 話を聞き、納得し。ナカソネは核心を尋ねる。


「議員給料の削減だけでは足りない。財源は」


 金はどこから。

 ミヤザワが答える。


「軍事費の削減です」


 予想外だ。

 いや、捻出可能な金額的にも現在の世論的にも、そこしかないと言うのは予想していた。しかし実際に現首相の口からその言葉を聞くと、やはり驚きが浮かぶ。


「削減ですか。どの程度を考えているのですか?」


 確認だ。本当に軍を削るのか。

 カネマルは真剣だ。

 その目が真っ直ぐ、ナカソネを――ナカソネの後ろの、国民を見ている。


「三十パーセント削減する」


 大胆だ。驚くべき数字だ。

 ナカソネは考え込む。

 腕を組む。目を閉じる。


「それは……大胆な数字ですね」


 評価できる。

 その決定は、ニッポンが過去の栄光を武力的に取り戻そうとする事をやめたという、そんな宣言に等しい意味があった。兵器を大量に購入している、あの国との関係も悪化するかもしれない。

 新しい道だ。武力ではない、新たな道筋。

 ニッポン政府は本気で、過去と決別しようとしている。


 驚くナカソネに、カネマルは言い切る。


「だが必要だ。我々は軍を肥大化させすぎた」


 力強い言葉には反省と、ある種の確信が込められていた。


「他国の兵器を買って軍備を増強するのではなく、人員の育成に金をかけるべきだった」


 正直な後悔だった。

 しかし後悔できるのならば、今から変える。

 そんな言葉が滲んだ後悔の言葉だった。


 ナカソネは反論しない。

 彼も同じ考えだ。軍人として、その現実を夢想した事があった。

 そして軍人であったからこそ、聞かなければならない事があった。


「しかし、国防の問題は無視できない」


 正当な懸念だった。

 ナカソネの懸念に、ミヤザワが答える。


「質を重視して対応するしかない」


 方針だ。そうするしかないというのは理解できるが、しかし具体性に欠けている。

 ナカソネの視線を受けたカネマルは、一息ついて言葉を続ける。


「もう少し具体的な話をしよう。政府主導の経済計画を解体。各地域の重工業企業主導での雇用活性化に繋げるつもりだ」


 かなり大胆な改革案だ。

 おそらく、職員の抵抗もあるだろう。


「幸い、人手に困っていた幾つかの企業は乗り気だ」


 しかし希望もあった。

 実質的な人的資源の再配置と位置付ける事が出来るのであれば、混乱はある程度のところで収まる可能性はある。

 ナカソネは頷く。


「理解しました」


 問題はある。

 調整不足なのも認めよう。

 しかし、本気度は伝わった。国民の手前、これだけの事をぶち上げたのだ。

 この改革を支持しない選択は、ナカソネには無かった。


 そして、カネマルは次の議題に移った。

 今この瞬間に限って言えば、もしかすると先ほどよりも重い議題に。


「あなたの…… いえ、あなたたちの処遇についてです」


 ナカソネの…… ナカソネたちの、運命についての話だ。

 しかし、ナカソネは覚悟を決めていた。

 背筋を伸ばし、真っ直ぐ前を見る。


「聞きましょう」


 準備はできている。

 カネマルは宣言する。


「恩赦を与えたい」


 それは、驚くべき提案だった。

 しかし、ナカソネは首を振る。

 即座に。なんの迷いもなく。


「恩赦、感謝します。部下たちは許してやって欲しい」


 会議室が湧く。

 テロリストに国家元首が面と向かって恩赦を与えるなど、前代未聞だったからだ。

 これでナカソネはテロリストではなく、英雄になった。

 一人を除き、皆がそう思った。


「しかし、私の恩赦は受けられません」


 拒否だ。

 一切の迷いがないその返答に、湧きかけた場が凍った。

 全員が驚いている。信じられない。なぜ拒否する。


 カネマルは驚いていた。


「なぜだ?」

「私はテロリストです」


 カネマルの疑問に、ナカソネは簡潔に答える。


「私は、罰を受けるべきだ」


 ナカソネの中で、それは当然の理屈であった。

 罪には罰が必要。彼はそう考えていた。

 しかしそんなナカソネの言葉に、タケシタが割り込む。


「艦長!」


 叫びだ。止めなければ。

 もしかすると、これから宣言する言葉を邪魔されないために護衛を減らしたのかと、タケシタが気付いた時には遅かった。ナカソネは手を上げる。

 制止の合図だった。


「黙っていろ」


 有無を言わさぬ口調だ。

 権力者が命令するようなものではない。絶対の信頼関係に裏打ちされた強い言葉に、タケシタは何も言えなくなった。

 しかし、カネマルは納得していない。


「しかし、国民はあなたを支持している」


 事実だ。多くの国民がナカソネを支持している。

 ナカソネは首を振って否定する。


「ですが、四十四パーセントは空爆を望みました」


 もう一つの事実だ。

 彼は続ける。


「その怒りは私に向いています」


 火をつけた言葉に嘘はない。

 ナカソネ自身、空爆を仕掛けたい気持ちは本当だった。

 だからこそ理解できてしまうのだ。その怒りの真摯さを。


 カネマルは黙る。

 説得の言葉が出ない。

 その通りかもしれないと思わせる凄みが、ナカソネにはあった。

 ミヤザワが尋ねる。


「ではナカソネ艦長は、望むものがあるのですか?」


 恩赦は不要だと言う。

 ならば何が欲しいのか。

 ミヤザワの問いに、ナカソネは答える。


「責任を取らせて欲しいのです」


 決意だ。

 彼は宣言する。


「宣言した期日が終わったら」


 一呼吸置く。


「私に、ニッポン軍人として自決の許可をいただきたい」


 静かな声だ。しかし確固たる決意がある。

 今度こそ。会議室が完全に凍りついた。

 誰も動かない。誰も話さない。

 ナカソネが望むものが与えた衝撃は、予想外すぎた。


**転**


 タケシタが立ち上がる。

 椅子が倒れる。彼は叫ぶ。


「艦長!何を言っているのですか!」


 タケシタの表情は必死だった。

 だが、ナカソネは冷静だ。

 表情を変えない。


「すまんな。最初から決めていたことだ」


 既定路線だ。最初から決めていた。

 タケシタは食い下がる。


「しかしっ……!」


 言葉が続かないのは、副官のタケシタだからこそだった。

 この男の決意を揺るがすために、いったい何を言えばいい。

 ナカソネは遮る。


「座れ」


 冷たく聞こえる、冷静な命令だった。

 いつも通りの冷静な言葉。その命令に従う事に、タケシタは安堵を覚えてしまう。

 椅子を起こして、座る。しかし納得はできなかった。


 カネマルは頭を抱える。

 両手で頭を抱えている。

 信じられない事を聞いたと、そういう顔をしていた。


「自決など必要ない。折角血が流れずに済んだのに……」


 カネマルの口から出るのは否定だ。

 しかしナカソネは首を振る。


「必要です」


 断言する。

 そして、彼は説明を始めた。


「この国を混乱させたのは私です」


 責任だ。

 ミヤザワが反論する。


「しかし、改革のきっかけを作ったのもあなただ。そこは自覚していただきたい」


 功績だ。それを忘れるなと、ミヤザワは主張する。

 ナカソネは認める。


「それでも罪は罪です」


 罪と功績は別けるべきだ。

 揺るがないナカソネに、カネマルは立ち上がる。

 思わず、テーブルに手をついていた。


「待ってくれ。もう一度考え直せ」


 もはや懇願であった。

 まだナカソネは生きている。

 まだ変えられる。まだ間に合う。


 ナカソネは、答えない。

 ただ沈黙していた。

 しかし目が答えている。

 変えない。この男は、この主張を変えない。それを理解させる沈黙であった。


 沈黙が続く。

 長く、重い沈黙だ。

 誰も口を開けない。


 ――最初に折れたのは、カネマルだった。


「……わかった」


 肩を落としながら受け入れる。

 この男の鋼の意志を。

 カネマルの了承に、閣僚が驚く。


「首相!」


 ナカソネの恩赦の話をねじ込んだ閣僚だった。

 止めるべきだと、熱く主張した。恩赦を行った事で、批判を受ける覚悟もあった。無理を通す価値のある男だと、皆が感じていた。

 しかし言葉の先を制するように、カネマルは手を上げる。


「彼の決意は固い。お前が説得できるなら、説得してみろ」

「……っ!」


 そう言われると、閣僚も黙るしかなかった。

 変えられない。自分にこの男の主張を曲げさせるのは不可能だと。優秀である自負があるからこそ、すぐに理解できてしまう。

 閣僚が黙ったのを確認し、カネマルは改めてナカソネを見る。


「ただしニッポン軍への復帰には条件がある」

「聞きましょう」


 ナカソネは答える。

 条件なら聞ける。了承するかは別の話だ。

 カネマルは答える。


「この会談の結果が形となり、正式な形として発表されるまで。どう短くてもあと二日はある」


 残り二日間のタイムリミット。

 疑似的な余命。


「それまで死ぬな。それが絶対条件だ」


 命令。いや、懇願だったのかもしれない。

 ナカソネは頷く。


「約束します」


 それならば、承諾できる。

 ナカソネは約束した。二日は生きる。

 カネマルは続ける。


「そして出来る事なら、最後に演説をしてくれ」


 その言葉はやはり、命令ではなかった。

 ナカソネが問う。


「内容は?」


 何を話せばいい。

 カネマルは答える。


「何でも良い」


 自由だ。何でも良かった。

 カネマルは、ただこの男の言葉が聞きたいだけであった。


「あなたの気持ちを国民へ伝えて欲しい」


 最後の言葉を、皆に聞かせて欲しい。

 そんな願いであった。


 ナカソネは考える。

 目を閉じる。長い沈黙だ。何を伝えるべきか。

 長い沈黙の後、彼は同意する。


「わかりました」


 最後の演説をする承諾をした。


 これを持って、会議は終了となった。

 全員が立ち上がる。しかし、空気は重い。


 ナカソネは立ち上がる。

 椅子を引く。背筋を伸ばす。

 カネマルが握手を求める。


 手を差し出す。

 ナカソネは応じる。

 力強く、手を握る。


「ありがとう」


 カネマルが言う。万感が籠った感謝だった。

 ナカソネは首を振る。


「いえ。こちらこそ」


 感謝している。

 この機会を与えてくれた事に。

 手を離し、互いに敬礼で別れる。


 ナカソネはヘリコプターへ向かう。

 会議室を出る。

 廊下を歩く。

 報道陣がまた集まっているが、ナカソネは何も答えなかった。

 後ろを歩くタケシタが声をかけた。


「艦長。本気ですか」


 最後の確認だ。

 ナカソネは答えない。

 黙って歩く。その態度が、明白な答えだった。


 ヘリコプターに乗り込む。

 扉が閉まる。エンジンが始動する。

 機体が離陸する。

 地面から離れる。官邸が遠ざかる。

 タケシタは諦められなかった。


「死ぬ必要はありません」


 必死に訴える。

 みっともなくても良いから生きて欲しかった。これがタケシタの偽らざる本音である。 

 しかし、ナカソネは窓の外を見ていた。

 そしていつものように簡潔に言葉を紡ぐ。


「ある」


 一言だ。しかし重い。

 タケシタが尋ねる。


「なぜです」


 せめて理由を教えてくれ。

 タケシタの言葉に、ナカソネは答える。


「四十四パーセントの怒りを鎮めるためだ」


 タケシタは黙る。

 理解はできた。しかし納得はできない。

 ナカソネは続ける。


「彼らは空爆を望んでいた。政府を倒すことを」


 体制の破壊を望んだ。

 そしてナカソネは、それが間違っているとも思っていなかった。

 彼は振り返る。


「この怒りを放置すれば、いずれ暴発する」


 タケシタは何も言えず、ナカソネの独白は続く。


「だから、私が責任を取る。夢を見せた責任を取るべきだ」

「艦長……」


 かける言葉が、見つけられなかった。


**結**


 ヘリコプターはムサシに到着する。


 甲板が見える。士官たちが待っていた。

 機体が着陸する。

 プロペラが止まり、扉が開く。


 ナカソネは艦橋に戻る。

 廊下を歩くと、士官たちが敬礼する。

 ナカソネの自決の話を聞いていたのだ。

 全員が心配そうだ。


 オオヒラが報告する。


「会談は成功したと報道されています」

「そうだろうな」


 事実確認だった。

 そうするつもりで出かけ、事実そうなった。

 タケシタは、なるべく軽い感じで付け加える。


「しかし、テレビは艦長の自決で持ち切りですね」


 自決の否定論は根強い。

 だが、ナカソネの決意は固かった。


「構わん。言わせておけ」


 周りが何と言おうと気にしない。

 もう、彼は揺るがない。


 艦橋が静まり返る。

 誰も話さない。この話題が重すぎた。

 オオヒラが震える声で口火を切った。


「艦長」


 声が詰まる。


「今ならば、まだ……お考え直しを」


 懇願だった。

 しかし、ナカソネは首を振る。


「すまんな。決めていたことだ」


 やはり、変えられない。

 その言葉が予想できていたからこそ、オオヒラの次に続く者はいなかった。


 ナカソネは艦隊全体に通信する。

 全艦に繋がる。


「各艦に告ぐ」


 全員が聞いている。


「交渉は成功した。恩赦も約束してもらっている。この度の一件は、正式に許された」


 報告に歓声が聞こえる。

 通信回線を通じて喜びの声が響いていた。

 ナカソネは続ける。


「明日からは、政府と協力して改革を進める事になる」


 方針だ。

 さらに歓声が大きくなる。

 勝った。成功したのだ。


「諸君らの勇気に感謝する」


 心からの感謝。


「五日間、よく戦った。今日はゆっくり休んでくれ」


 労いの拍手が響く。

 全艦で。全員が拍手している。


 それを確認し、ナカソネは通信を切る。


 画面が暗くなる。

 彼は椅子に座る。

 どっと座る。力が抜ける。

 五日間の疲労が、一気に押し寄せる。


 タケシタが心配する。


「艦長、休んでください」

「……そうするか」


 流石に同意した。

 限界だった。

 ナカソネは自室へ向かうと、ベッドに横になる。

 硬いベッドだが、しかし今は天国だった。


 目を閉じる。

 闇が訪れる。

 しかし、眠れない。

 脳が興奮しているらしく、様々な顔が浮かぶ。


 ――シカイチ。

 憔悴した顔だ。辞任を宣言した表情が焼き付いている。


 ――カネマル。

 新しい首相だ。まじめな印象を受けた。


 ――タナカ。

 若い市民だ。希望を語っていた男だ。ああいう人間が必要だった。


 ――サトウ。

 ジャーナリスト。交渉の選択肢が産まれたのは、彼のおかげかもしれない。


 そして無数の国民たち。

 投票所に並んだ人々がいた。

 老人、若者、母親。

 皆が真剣だった。


 ナカソネは、彼らのために戦った。

 この国を、国民を守るために。

 そういう自負があった。


 きっと己が正しいかどうかは、後の世が決めてくれるだろう。


 やがて疲労が意識を奪う。

 久しぶりに、深い眠りが訪れる。


 闇に落ちる前に、ナカソネは夢を見る。

 平和な国の夢だ。

 格差のない国。

 皆が平等ではないが、機会は平等だ。

 若者が希望を持てる国だった。

 それだけで、未来がある。夢が持てた。


 ――しかし、夢は夢だ。


 目が覚めれば消える。

 現実は厳しい。

 改革は容易ではない。多くの困難が待っている。

 抵抗も、失敗もあるだろう。


 しかし時代は確実に前に向かって動き出した。

 ナカソネが種を蒔いた。

 小さな、しかし確かな種を。


 後は国民が育てる。

 水をやり、肥料をやり、愛情を注ぐ。


 ――それでいい。


 己の役目は終わる。

 あと二日か、それとも三日か。

 しかし近い未来。彼は消える。


 この世界から、歴史の一ページとして。

 教科書に載るかもしれないし、語り継がれるかもしれない。

 もしかすると、誰も覚えていないかもしれない。

 しかし十分だった。やるべきことはやったのだから。


 夜が更ける。

 時計が深夜を指す。

 トーキョーの海は、静かに凪いでいた。


 七日間事変、その六日目が終わった。


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