第12話 カモ

 目標を立てたヘルツの働きぶりは、まさに人間やめた系であった。


 その頑張りようは尋常ではなく、かつて彼を小馬鹿にしていたパートのおばちゃん達でさえ、次第に感動の涙を浮かべるようになった。


「いいのよ、それくらいおばちゃんがやるから」

 心配するおばちゃんの申し出を、ヘルツは丁重に断った。


「それでは修行になりませんので!」


 その言葉通り、彼はただひたすらに働き続けた。

 洗い、磨き、運び、拭き、時には給仕もこなす。

 “勇者が皿洗いに本気を出すとこうなる”と評判になるほどの猛働きである。


 二週間が経つ頃には、おばちゃん達の態度はすっかり変わっていた。

 「これ食べて」と帰り際にみかんや煮物を渡されるようになり、一か月が過ぎる頃には「うちの娘、どうかしら?」と娘婿候補扱いされるほどだった。


 だが――


「そう言ってくださる、あなたのお気持ちは本当にありがたいのですが……申し訳ありません! 自分には心に決めた人がいるんです!」


 と深々と頭を下げるヘルツ。

 厨房がどよめいた。

 その姿は、皿を割らなくなっただけでなく、魂のレベルまで上がっていた。


 そして、ついにその日が来た。


 一念発起からおよそ一ヶ月半――。


 開店前、ヘルツは、店主のオヤジから正式にこう言われた。


「ヘルツ、お前を……うちのバックヤードのバイトリーダーに任命する」


 その瞬間、ヘルツの頬を熱い涙が伝った。


 魔王を倒すまで、涙は流さないと誓ったあの日。

 そしてフラれて、勇者を棄てたあの日。


 だが今――

 彼は初めて自分自身の力で勝ち取った地位に涙していた。


「君が言いたいことは、こういうことだったんだね……ありがとう。俺は今、人として、ようやく一人前になれたと思うよ!」


 ヘルツは、あの日の麗しの愛しい人の笑顔を思い浮かべ、澄み渡った晴天の秋空を見上げた。

 その横顔は、かつて勇者として戦場に立っていた時よりも、遥かに精悍で、誇らしかった。


「行ってきな」

 店主のオヤジが優しく背中を叩く。


 振り向けば、仲間たちが笑顔で頷いていた。


「あ、ありがとう……みんな! 俺、行ってくるよ!」


 気がつくとヘルツは駆け出していた。

 この感謝と想いを、彼女に伝えるために。


 ――そこに打算などない……いや、わずかしかない……確かに打算しかないが、それをやってのけるだけの自信が、今のヘルツにはあった。


 何しろバイトリーダーである。


 そしてこのバイトリーダーになったという自信がヘルツの足どりをより力強いものへと変えた。


「よし……着いた」

 胸の鼓動を抑えながら、ヘルツは店の前に立った。


 煌びやかな看板にはこう書かれている。


 『ハッピースマイルパラダイス』


 勇者はご祝儀袋を握りしめ、深呼吸を一つしてから扉を開いた。


「お客さん、久しぶりだねぇ!」

 馴染みの店員が声をかけてくる。


「あ、ああ……」

 緊張で声が裏返りそうになるのを必死に抑える。


「あ、あの……あ、アイナちゃんに会えるかい?」

 震える唇で、ついに彼女の名を呼んだ。


「アイナちゃんですか? ……それがですねぇ……」


 店員の表情が曇る。


「やっぱりダメなのか……?」


「いえ、先客が入っちゃってまして。もうすぐ入れ替えの時間なんですけど……」


「待つましゅ!!」


 テンションが上がり過ぎて声量の調整ができず、大声で叫んでしまった上、盛大に噛んだ。


「あっ、いや……待たせてもらうよ」

 すぐさまクールに言い直したが、耳まで真っ赤だった。


「ありがとうございます~! ……あっ、ちょうど時間になったみたいですよ!」


「そ、そうか!」


 拳を握る手にご祝儀袋だけでなく中に入っている金貨までも変形しそうなほど力がこもる。


「お客様、お帰りで~す!」


 明るい声とともに、アイナが客を伴って受付に現れた――。


 そしてその“客”の顔を見た瞬間、ヘルツの世界が止まった。


「な、何でお前がここにいるんだよ……!?」


 ――そこにいたのは、元魔王ガングリュックだった。


「お、お前こそ、何でこんなところにいるのだ……!?」


 二人は互いに指を差し、完全にフリーズする。


「あれぇ? お客さん、お知り合いですかぁ~?」

 アイナが奥からひょこりと顔を出した。


「ゲッ!!」

 その瞬間、アイナの顔がみるみる引きつった。


「アイナちゃん……久しぶり。実は今日は話したいことがあって……」


 勇気を振り絞り、ヘルツが口を開いた――その瞬間。


「この人ですよぉ~。カモ……いや、ストーカー!!」


 アイナの指が突きつけられる。


「「えっ!?」」


 二人の男が同時に叫んだ。


「出禁にしてくれって言ったじゃないですかぁ~!」

 アイナはさっと店員の後ろに隠れる。


「ああ、コイツだったのね。ゴメン、ゴメン」

 店員が表情を一変させ、鬼の形相で迫る。


「お前かぁ! ウチのナンバーワンにちょっかい出してたのは!?」


「えっ!? アイナちゃん! そ、そんな……な、何かの間違いだよね!?」


 泣きそうな顔でヘルツが近づこうとすると――


「キャー! ストーカー!!」


 アイナの悲鳴が響いた。


「ち、違うんだ! 俺はただ……!」


 必死に弁明しようと手を伸ばした瞬間――


 ガシッ!


 その腕を掴む手があった。


 ガングリュックである。


「止めろ、このストーカー野郎!!」


 彼はアイナを庇うように前へ出て、まるでヒーローのように凛々しい顔を作った。


「アイナちゃん、僕がこのストーカーを叩き出してあげるよ!」


「お願いしますぅ~」

 上目遣いで甘えるアイナ。


「アイナちゃん……」

 想い人の冷たい視線に、ヘルツの心は完全に粉砕された。


「任せて、アイナちゃん。僕こう見えて結構強いから!」

 親指を立てたものの、アイナが過去一接近したことに異常興奮し、鼻の下が伸びきってキモい表情になってしまうガングリュック。

 しかしその反応は、二人の絶妙な距離感、ソワソワしている反対の手の感じと共に、まだ彼がまだお触りまで到達していないことを如実に物語っていた。


「はぁ!? “僕”!? 何だよそのキャラ! オッサンがいい子ぶってんじゃねぇよ!!」

 怒りの矛先を向けるヘルツ。


「何を言っているんだい、君は? おー怖い怖い」

 勝ち誇った表情でヘルツを見下ろすガングリュック。


「てか、お前こそ何でここにいるんだ!? 無一文のクソニートの分際で!!」


「えっ!? そ、それは……その……馬小屋にお金が落ちていて……」


「お前……俺の金、パクったな!?」


「いや、その……ちょっと借りただけで……」


「最低だな!!」


「いいじゃないか、少しくらい。減るもんじゃないし」


「減るよ!!」


「……今度返すから!」


「今度っていつだよ!?」


「今度は今度だよ!」


「……もういい。殺す」


「上等だ、表出ろや!」


 こうして――

 勇者と魔王、世界を二分した二人の男による最終決戦が、エンデ唯一のキャバクラ「ハッピースマイルパラダイス」の店先で幕を開けたのである。

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