第4話 救いの光
紫文は両国の歴史を辿り、ゆっくりと語った。
黙って聞いていた船長が、憮然として言った。
「悪辣ですなぁ」
「ですが、紫文様? ペダサル公国は代替わりしましたよね。新大公となられたデュカ三世は、農奴廃止令を発して、名を馳せたじゃないですか」
沙々は首を捻った。
「そうだ。農奴含め、いかなる奴隷制度も撤廃すると公に言明した。今やペダサル公国は、黒小麦の一大産地、凍土地帯にいくつもの大鉱脈を掘り当てたおかげで、急速に国は富んで豊かになったと専らの評判だ。解放された奴隷の大多数も公国に残ったそうだ」
「へぇ。奴隷でも悪い扱いはされてないんでしょうか」
沙々がまた首を捻った。
「国運のかかった難事を支えた奴隷達なれば、皆等しく相応に処遇されるべきだからな。デュカ三世は、まともな考えを持つお人なのかもしれぬ」
紫文の言葉に錫多が「そうならばいいが」とうろんげに呟き返し
「さて、紫文。こちらはどうしたものかな」
と言った。紫文が目を上げると、錫多は顎を前に振って船長に合図した。
「紫文、先に船長から子を受け取ってみよ」
手燭を足下に置いてから、紫文は手を伸ばした。
錫多の褥代わりの敷布を使って、船長は無造作に子供を丸めこんでいた。抱き取った時の重さが虚しく、紫文は顔をしかめた。
錫多が悲しそうに言った。
「なぁ、こうしてせっかく引き上げたのだが、海に帰さねばなるまい」
「それがいいですよ。海で出くわした水死人を弄ってはならないと、僕は親父から口酸っぱく言われたもんです。紫文様もそう聞いておられましょう」
沙々が口を挟んできて、紫文に同意を求めた。
紫文は「まぁ……」と曖昧に唸った。
女の遺体を見下ろすように立っていた船長が、難しい顔で呟いた。
「この娘ごは、天儀導教会の聖母の純金製メダイをつけています」
天儀導教会は、アバンスト王国の国教だが、王国の分家筋であるペダサル公国にも信者は多い。
メダイは、教会での正式な洗礼と同時に授けられると聞く。それを死に際も身につけていたなら、敬虔な信者だったのだろう、と紫文は思った。
「……純金のメダイなど、一般信者、いえ、奴隷身分の者が持つものでしょうか」
船長の疑問は尤もだった。
「他人から盗んだのでは?」と沙々が言った。即座に船長が言い返した。
「身元が辿れるやもしれぬ物、売れもしないでしょうし、盗んでどうします」
その間も錫多はしげしげと女を見つめていたが、やっと決心した、というふうに
「白銀は死者の国であるが、信仰心を無視して連れていくことはできない。この女の健気な信仰は、わたしの助けを必要としておらぬ。問題は」
と言葉を切って、紫文に「その子の顔を見てごらん」と言った。
腕の中の子供を抱え直し、何の気なしに褥をめくった紫文は「むごい」と呟いた。
首を伸ばして、肩越しにそれを見た沙々も「これは……」と顔を歪めた。
湿った小さな額には、焦げもまだ生々しい焼印があった。水泡が潰れ、膿みかけていた。
「焼印……、ペダサル公国の紋章だな?」
確かめるように錫多が訊いた。
紫文は自国との交易があるなしに関わらず、近隣国の国章、大貴族の紋章までも把握している。
鳥と星百合をモチーフにしたこの紋章は、確かにペダサル公国のもので、つい最近も何かの公文書で目にした憶えがあった。
しかし、紋章が左右逆に焼いてある。
紫文は違和感を拭えず、急いで肌着の裾を剥いでみた。
子供の細い右足首には50の刺青があった。
「あぁ、間違いない。焼印はペダサル公国即ち公家の紋章だ。刺青もこの通り、となると、母娘……もしくは姉妹か? 49と50の連番は偶然ではあるまい。だが幼子の方には焼印まで……これは不可解だな。額に焼き付けた紋章がなぜ逆なのかも判らない。家畜のように、ペダサル家の所有物の証ということなのだろうが」
考えこんでいる紫文を見て、船長が「そういえば」と思い出したように言った。
「紋章を逆にした墨や焼印は、国によっては政治犯の懲罰になるとか」
「こんな子供が政治犯、なんてことあります?」
沙々は肩をすくめて言うと、再び櫂を漕ぎ出した。
少し風が強くなっている。
しばらくの間、皆黙り込んでいたが、船長がため息まじりに口を開いた。
「この童はせいぜい二、三歳といったところか。ここまで無残な焼印をされて、よく耐えられたものだ」
「痩せ細っているから、頭が大きく感じますよね。そのせいで幼く見えるけども、もっと、そうだな、五、六歳くらいかもしれませんよ。うちの子供と同じくらいのような気がする。まぁ、焼印がひどいのはその通りですがね」
と沙々が言った。船長は意外そうに声をあげた。
「沙々殿は子がおられたか」
「かわいい盛りの息子がいます。この子の父親はどうしているのかな。ちょっと胸が痛みますよ」
二人のやりとりを目を瞑って聞いていた錫多は、憂鬱そうに言った。
「……とにかく、女はこのまま海に帰す」
「そうか。幼子をまた縛り付けるのは、不憫で気が進まぬが、一緒の方が良いだろうし」
紫文は呟きながら、褥に包んだ子を女の隣に置いた。錫多が紫文の言葉を聞き咎めた。
「何を言う。子の方は助けるのだぞ」
「なんだと?」
「その子にはまだ息があるのでな」
ええっ? と沙々が驚いて体をのけぞらせたから、舟が大きく揺れた。
とっさに舟べりに手を突いた紫文は「まさか」と怒鳴った。錫多は苦笑した。
「息、というと語弊があるか。女は完全に死して
いるが、この幼子は……。毒でも飲んで仮死状態のようなのだ。これで、まだ強い生命力を内から放っている」
紫文には何も感じられなかった。どう見たって子供も死んでいる。
唖然とする紫文を気がねするように見ながらも、船長が大声で
「それならば、錫多様、急がねば。ぐずぐずしていると潮目を逃してしまいます」
と急かした。錫多が小さく頷くと、船長は再び女の遺体を軽々と抱えた。
口中で祈りを唱えた錫多は、女の閉じた目に触れて
「水の中はさぞ冷たかったろう。さ、そなたの主のもとへお帰り」
優しく語りかけた。船長は屈みこみ、引き上げた時と同じように、艫から遺体を手早く下ろした。
一同が掌を合わせてから海を見つめていると、遺体の沈んでいった水面に波紋が広がり、真っ白な蝶がぽっと浮かび上がってきた。
沙々が「おぉ」と気の抜けた声をあげた。
蝶は舟の周りを舞うように飛んでいたが、やがて薄闇へ消えていった。
「美しき魂よ。これがわたしのオーレイであればな」
肩を落として、錫多は言った。
オーレイ。昔、錫多が一目惚れしたフムザ山の巫女である。
紫文が諌めるのも聞かず、錫多はさらって連れ帰ろうとしたのだが、オーレイは航海の途中、身投げしてしまった。
亡骸でもいいから自分の傍へ戻ってこないかと、錫多は未だに虚しい祈りを捧げているのだった。
そんな私情もあって、錫多は女の溺死体を見過ごせなかったのだろう。
それにしても、と紫文は困惑していた。
錫多が膝をつき、足下の子を抱き上げた。
紫文は眉をひそめた。
「錫多、考え直せ。この幼子が今更生き返ったとて、辛いばかりではないか」
「その通りですよ。錫多様、詮無いことです。奇妙な遺体ですし、何か訳がありそうですけど、だからといって、助けてやっても、奴隷の印をこんな見せしめのように刻まれた子に、まともな人生があるとは思えません」
沙々も声を張り上げて反対した。
「錫多、そなたらの常夜では命の理が違うのは解るが、ここで、今、この幼子は死んでいるわけだ。いくらそなたでも、人間の道理を超えた真似は許されまい」
「紫文殿、お言葉ですが……道理というならば、錫多様にとっては、生よりも、死を与える方が容易いのですぞ」
船長が厳かに言った。紫文は返事につまった。
紫文の立場としては、これ以上言い募るのも憚られた。反論はせず
「では、錫多、せめてそなたの霊力で、額の焼印を消せないのか」
と訊くと、それがね、と錫多は口をとがらせて答えた。
「焼印に得体の知れぬ強力な術がかかっている。人間の血が使われているようだから、西の魔術かもしれんな。これは厄介だ、消えぬ」
子供の身体に手を当て、錫多が何やら呪文を唱えていると、徐々に子供の全身が鋭く光り出した。
紫文は心配になり、声をかけようとしたが、船長に止められた。
錫多は紫文に向かって
「問題ない。少々わたしの力を貸すだけだ。こうして魔術に生命力を吸われているのを止めねば、早晩干からびて死んでしまうからな」
と深刻な表情で言った。
息をつめて見守っていると、しばらくして発光はおさまった。
蝋のように青白かった子供の頬に、赤みがさしてきた。濁った目にも生気が戻り、細い息が口から漏れた。
子供は弱々しく身体を震わせながら、ふわぁん、と泣いた。そして「かあさま」とはっきり言葉を発した。
「母と娘のようだな」
紫文が言うと、錫多は疲れたように子供から手を離して、呟いた。
「ふん。おぬしのかあさまは、蝶になって飛んでいきおったぞ」
子供の見開いた丸い目は、水色に近い灰色だった。髪も白っぽい。母親には似ていなかった。
紫文がふと見ると、子供の両掌がまだきらきらと光っている。錫多も気づいていて
「身体がまだ小さいせいか、わたしの与えた力を吸収しきれず、漏れ出ているようだな」
と戸惑い気味に言った。
「大丈夫なのか」
「この光ならば、身体が癒えればやがて消える。見たところ、寿命も短くないようだが、どうかな。あとは本人の運次第かもしれぬ」
珍しく錫多は迷うような言い方をして、子供の掌と自分のそれを、またしばらく重ね合わせていた。
薄暗い視界の前方に、陸が見えていた。
沙々と船長、二人がかりで漕ぎ出してから、舟は滑るように楽々と進んでいたのだ。
周囲を見回した沙々が
「このまま湾の端までいけば、小さな浦があります」
と言った。錫多は目を細めて、頷いた。
「結構。そちらへ向かって舟をつけておくれ」
まもなく舟は砂地に乗り上げた。
子供を抱いた錫多に続いて紫文も舟を下り、ぬるい海水に腰まで浸かりながら、浜辺に辿り着いた。
沙々の言っていた「浦」とは、複数の川が入り込んでいる小さな湾だった。微かな小波が立っている。
浜辺の外れにはささやかな石積の岸が造られており、係留された丸木舟と櫓船が揺れていた。
犬が吠える方を振り返れば、松林が途切れて小高くなった先の方に、人家の灯りがぽつんと見えた。
「よかろう。ここならば、朝には誰か来る」
そう言いながら、錫多は白絹の中衣を脱ぎ、それで子供を包み直した。
砂浜と海岸林の堺まで歩いていくと、錫多は周囲の草むらを踏んで平らにならした。
「おまえ、歩いたりしてはいけないよ。ただじっと運命を待っているんだ」
言い聞かせるように呟き、錫多はそこへ子供を横たえた。子供は喉の奥を不明瞭に鳴らすだけだ。
生乾きの粗末な肌着には、例のメダイが目立つように留めてある。
「そうだ、このブローチも一緒に付けておこうか」
「それは?」と紫文が覗き込むと、錫多の手の中で何かが鈍く輝いた。
「母親の髪に絡んでいたのだ。衣から外れたのだろうよ。些細な物だが、この幼子にとって、母親を偲ぶよすがになるやもしれぬ」
錫多は笑みを浮かべた。
懐かしい物を見た、と紫文は思いながら「螺鈿細工か」と低い声で言った。
紫文の国では、婚姻時、花婿が花嫁に贈る装飾品である。
「うむ。希少な鼈甲を使って、なかなかに凝っている」
と錫多は褒め、メダイの横にブローチの留め具をすっと刺した。
髪の長い女性の胸像は、生前の美しかった女を写し取って、繊細に彫り付けたに違いない。
紫文もかつて、このような螺鈿細工の胸飾りを贈ったことがあった。あれは――
物思いを断ち切るように、紫文は頭を振った。そして、身体を丸め、心地よさげにうとうとしている子供をやるせない気持ちで見下ろした。
運命を待て、と錫多は言ったが、ここに残されて、この子はどうなるだろう。
果たして錫多の温情は幸いとなるのか。色々と思うところはあるものの、この期に及んで自分に何かできるわけでもない。
紫文は子供が包まれている白衣をそっとほどくと、財布にあるだけの国際金貨を取り出して、子供の肌着の隠しに忍ばせた。
ささやかな餞別だ。はなむけだ。と紫文は胸の内で繰り返した。
空が白みだしていた。高台の人家の煙突から煙が上る。
「急げ、紫文」
錫多はもう水際を歩いていた。紫文も慌てて立ち上がり、その後を追った。
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