哲学『テスコフの歌』
@kakurikii
かりそめの歌に愛を見よう
「ねえ、テスコフって知ってる?」
「唐突に何、鈴愛?また変なの見つけてきたんだ…」
軽薄そうな見た目の女がそう口にした。
「知らない。昔の有名な人?」
「そうなの。んー、割と近代の人だったかな?1920年くらいの人。なんか、どっかドラマで取り上げられてて、気になって!詩織もそういうの好きでしょ?あのね、その人の有名な哲学的議題の一つにテスコフの歌ってやつがあるんだけど」
詩織と呼ばれた黒髪の女性が自身の髪の毛をふらりと緩やかに動く手で弄りながら、鈴愛の話を聞く。これまた世間にはばたく前の不自由な女性であった彼女は、しかし自由そうに掴みどころのない笑みをたたえた。
「そうだね、ドラマは嫌いじゃないよ」
詩織というやつは、真面目で知的そうな顔をしているくせして、どこか「変」と言われるような、そういう雰囲気を持っている。彼女はすんとした顔をしながら、テーブルの上にいるガチャガチャであたったどこのキャラかもわからない、少なくともかわいらしいとは言えない、へんてこなポリエステル製のミニフィギュアをつん、とつついて、倒して、直して、またつついて、を繰り返している。そういう女だった。
鈴愛が、恨めしいとも、羨ましいとも、好ましいとも言い難い、複雑そうな顔をして、それを全面的に顔に出すが、詩織にとってそのような表情は見慣れたものであり、どこ吹く風であった。詩織は無意識的に、道を通り過ぎる蟻を見ているようで、見ていないような、そういう顔をした。
「なんだったっけ、愛は幻想に過ぎない、みたいな……ええと、調べてみる。あ!これだこれ、この人は愛を定義不可能な感情的流動体?ってやつだと思っているんだってさ」
「流動体ね、なるほど。鈴愛、意味分かってそう?分からなかったら私が手伝うよ」
鈴愛が、また不愉快そうな顔をした。むっすりとしたその顔は実に愛らしく、多くの男を集めそうな顔をしている。詩織が、そういう顔するとまた変な男を引き付けるよ、とふらついた声で話した。
注意したいのか、他人事なのかまるで分からないその声。その声にはっとした鈴愛は顔をぱし、と叩く。悔しそうな顔は維持したままに、ふん、と効果音が付きそうなほど胸を張った鈴愛が、詩織の問いに答えを返した。詩織が、呆れた顔をする。単純なんだか、難しい奴なんだか、よく分からないと言うように。
「わかる、わかるよ。スライムみたいに、こう……つかめない感じでしょ?愛は、本質的に形を持たない。けれど、人間は形のないものを理解できないでしょ?」
「まあ……そんなものであってる。鈴愛ってそういうの好きだよね」
「そういうの好きだよね」その声に鈴愛は分かりやすく笑顔を見せた。鈴愛という少女という殻を脱ごうとして半人前になろうとするその女は、感情という側面においては単純なやつだった。
ぱあ、と明るい笑顔を見せる彼女は、そういう年齢ももう過ぎようとしているか、もしくは過ぎているはずの年頃のくせして、思春期の男子みたいに表層的な知識をひけらかすように、興奮に顔をほのかに染めながら早口気味に詩織に矢継ぎ早に語りかける。詩織は、それをふぅん、とかすかに興味がある、といった顔で聞いている。詩織の細い指が、艶めかしい黒髪をからめとっていた。
「そこでテスコフは言うの。愛っていうのは、各自の文化、経験、価値観、常識を己の心に注ぎ込んだものを愛だと思い込んでいるんだって」
「……まあ、たしかにそうだね。愛に絶対なんかない。分かりきってることだよ」
「愛に絶対的な定義なんてものはなくて、存在するのは無数の個別的な愛に近しいなにかだけらしいよ?……って、なんで先にその言葉言っちゃうの!私が言いたかったのに!」
「はいはい、一喜一憂しない。そんなに一喜一憂したら疲れちゃうでしょう?それに、続きを聞かせてほしいの」
窘めるような詩織の言葉。それをごまかすように、頭を軽く撫でられる鈴愛は、ありがと~、と、哲学的な話をしたことを忘れているようにふやけた笑顔を見せた。一喜一憂するな、と言われたことも忘れるように。
詩織がため息をついて、まあ、そういうところが可愛いんだけどね、と鈴愛に語りかけたが、その言葉に何故だかまた鈴愛はむすりとして、私だって賢い、と言わんばかりに話を引き戻している。二人は、どちらも負けず劣らずのふらふら具合を見せていた。
「けど、ここで問題があるの。もし愛が幻に過ぎないなら、私が見てる愛は?あなたが感じる愛は同じものなのかな?」
「同じかもしれないし、違うかもしれない。分かんないし、それを理解する方法なんてない」
「そう、分かんない。テスコフはこの問いに答えを出さなかった。テスコフ曰く、愛は探すことそのものなんだって。なんだかさ、かっこよくない?」
「……まあ、たしかにそういう心はくすぐられるかも」
詩織が、まあ、そういう心も大切だよねと言って、何気なく爪を眺める。手入れされた綺麗さを放つ爪を見て、ふぅ、と意味もなくため息をついた。ため息は部屋の空気に交じることなく、ただ、一人でに宙を漂う。
漂うため息を見て、ああ、思い出した、と言わんばかりに詩織はインスタントのコーヒーを淹れる。とぽぽ、という音が難し気なのだか、陽気なのだか分からぬ空気の中に溶けて、素知らぬ顔をして消えていった。
その様子を見た鈴愛が、私にもカッコつけさせてよ、というように声を大にして詩織に語り掛ける。
「まあ、そんなこと言ってるテスコフは一生独身だったらしいけどね!悩みすぎでしょ、それか、考えすぎて誰も愛せなかったのかな?」
「分かんないや………悲しい人だね、テスコフっていう人は」
「悲しいけど、私達も一歩間違えればいつだってこの道に踏み出せてしまうかもしれないよ?テスコフはね、晩年ずっと愛についてを詩にしていたんだって。だから、テスコフの歌。厨二心がくすぐられる〜」
少女というには幼すぎるが、女性というには少し未発達なその年齢にいる彼女。そういう年齢のくせして、彼女は未だ、少女に近い側面を持っていた。無邪気なやつだ。カッコつけようとしたくせに、厨二心がくすぐられる、などと俗っぽいことを語らっているのがその証左である。けれど鈴愛は周囲にそう思われていることを気にすることもなく、昂揚した気分のままに話しかけ続ける。
詩織はそれを気にしていないようなそぶりをしていたが、親が子を見る様な顔を隠せてはいなかった。内心、かわいい奴だと思っていた。
「ねえ、テスコフの人生について、語ってもいい?まあ、詩織がだめって言っても勝手に話すし、聞かせるし、聞かないとまたむすってしちゃうけど」
「聞けって言ってるようなものだね」
「そうそう、だから諦めてよ。あのね、テスコフは生涯独身だったんだけれど、昔は婚約者がいたの。とってもラブラブで、人生を添い遂げるつもりでいたんだって」
「へえ、それは意外」
「けれど、これからが悲しい所でね…その婚約者さんは戦火に巻き込まれてお亡くなりになっちゃったんだって。それから、テスコフは他の人に悲しいけど次に進めって言われて、けれど進めなかったみたい。それで愛を考えるようになったらしいよ」
詩織が口をつぐんだ。なんと言えば分からず、しかし何かを言った方がいいと分かってはいたが、その言葉がパッとでなかったからだ。その言葉にならぬ言葉の行き先を探すように、どこからか子供が舐めるような、シンプルでかわいらしい包装のキャンディを取り出して、ぽい、と口に含んだ直後にがり、とかみ砕いてしまった。
お行儀わるいねぇ、そういう鈴愛の声を気にすることもなく。
「……なんか、飴を食べたい気分だったから」
「ねえねえ、それから、いちばん話したいことを話していい?」
「……なに?まだ重い話をするの?」
重い話をするにしては、やけににまにまとした顔。何を言いたいんだ。こんな重い話をして、何故そのような顔ができるのか。詩織がその理由を探そうと考えを巡らせ、しかしその答えに至らぬうちにと鈴愛がやわい声をきぃ、と尖らせて、詩織にその言葉を告げる。
「テスコフの歌って話、全部嘘だよ」
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