ライラックミスト
美月
第1話 優と真也
始まりは、五月の連休の記憶の欠片
出会いを覚えていない、ということが、私たちがいかに自然な存在だったかの証拠だと思う。物心ついた時から、そこに真也お兄ちゃんはいた。
一番古い記憶は、誰かのお葬式の後の集合写真。喪服の大人たちの真ん中で、私たちは子供らしく少し浮ついた顔をして並んでいた。その隣には、少しだけ大きないつもの顔。それが真也、私より三つ年上の、いとこのお兄ちゃんだった。
軽トラの上の「特別席」
私にとって真也お兄ちゃんの存在が特別になるのは、毎年五月の連休だった。
「ただいまー!」
聞き慣れない、ほんの少しだけ都会の空気をまとった話し方。うちのお兄ちゃんとは違う、「ちゃんと」会話が成り立つ人。
「優、これ持ってこーい!」
大抵、真也お兄ちゃんは私の兄(うちのお兄ちゃんは、部活を聞かれて『バイブ』と答えるようなアホな子だ)と遊んでいるか、私たち妹チームの相手をしていた。
ある年、遊びに飽きていた私たちに、真也お兄ちゃんが言った。
「よし、特別席で遊ぼうぜ」
真也お兄ちゃんが指さしたのは、庭に無造作に停められた軽トラックの荷台。大人に怒られるスリルと、秘密基地のような特別感に、私たちは目を輝かせた。
荷台にゴザを敷いて、持ってきたのは真也お兄ちゃんが持参したちょっと洒落たボードゲーム。五月の風が通る荷台で、私たちは笑い転げた。その時、真也お兄ちゃんが不意に私にだけ囁いた。
「おい、優。動くな」
え?と思って見上げると、真也お兄ちゃんは少し目を細めて、私の服を指さした。
「ほら、座り方が雑だから、パンツ見えそうだぞ。気をつけろ」
その時の真也お兄ちゃんは、都会の兄ちゃんでも、気の置けない遊び相手でもなく、大人の男の人に見えた。たった三つしか違わないのに。私は顔が熱くなり、急いでキュロットの裾を押さえた。小学生の私にとって、それは「紳士の注意」というより、やっぱり「やらしい」お兄ちゃんだった。
ムースと雑魚寝の夜
私が小学四年生か五年生になった頃の連休。親戚一同が集まる夜は、いつも賑やかで、そして少し騒がしかった。
夜、お風呂に入る直前。
「あら、優ちゃん。ちょっと待ちなさい」
真也お兄ちゃんの姉、環お姉ちゃん(私より九つ上)が、私の頭に手を伸ばした。
「どうせ今から頭洗うんだからさ!これやろ!」
環お姉ちゃんの手には、真也お兄ちゃんが都会から持ってきた、男の子っぽい強い匂いのするハードムース。
プシュッと出された白い泡は、遠慮なく私の髪の毛に塗りつけられた。
「ほら、ツンツン!これ、〇〇っていうキャラの髪型!」
環お姉ちゃん、そして真也お兄ちゃんまでもが参加して、私の頭は完璧な「ツンツン頭」にされた。みんなが笑い転げたあと、ムースを洗い流すために私はホカホカのお風呂へ向かった。
優が脱衣所へ向かう後ろ姿を見送り、環は悠一にニヤリと視線を送った。
そして、遠慮なく下世話な話題を口にした。
「ねぇ、悠一。優ってさ、もう結構な歳になったけど……色々生えてる?」
環のあまりにも直接的な問いに、真也は一瞬たじろぎ、「姉貴!」と制止しようと声を上げた。
しかし環は構わない。
「優、結構小柄だしさ、まだあんまり膨らみもなさそうじゃない?ねぇ、悠一、最近、優と一緒に風呂とか入ってないの?」
悠一は、部活を聞かれて『バイブ』と答えるようなアホだが、妹のデリケートな話題には、さすがに真面目な顔をした。
「え、もう一緒に入る歳じゃねーし……。知らねーよ、そんなの。でも、なんか成長が遅いって、母ちゃんが言ってたような気がするけど。タッパねぇからサプリも飲み始めたみたいだし・・・」
悠一の不確かな回答に、環お姉ちゃんは「ふーん」と納得したような、しないような表情を浮かべた。真也は、この会話を聞いていることが耐えられず、壁の方を向いてしまった。しかし、その耳は、悠一の「成長が遅い」という言葉をはっきりと捉えていた。
環はさらに無遠慮に「優を脱がすわけにもいかないから、とりあえず、生えてないてことで。」と結論付けた。
優がお風呂から上がり、みんなで隠居の広間(祖父の家)で雑魚寝をすることになった。親戚が集まると、布団の並べ方も適当になる。
私が寝床に入ると、真也お兄ちゃんが私の隣にゴロゴロと転がってきた。
その時の私は、ムースの匂いも取れてホカホカで、すぐにでも眠りに落ちそうだった。真也お兄ちゃんが隣にいることは、いつものことだから何も意識していなかった。
けれど、後になって真也お兄ちゃんに聞いた。
あの夜、ホカホカで眠そうな私の隣で、彼はドキドキして眠れなかったらしい。そして、あの時、環お姉ちゃんと悠一の会話を、複雑な感情で聞いていたことを知った。
真也の視点:距離がゼロになった夜
(真也)
小学五年生の優が、湯気で少し赤くなった顔をして布団に入ってきた。 俺は環姉貴とふざけながら、優の隣に潜り込む。いつものことだ。
でも、その夜は違った。
頭を洗ってきたばかりの優の髪から、微かに残ったムースの匂いと、シャンプーの甘い匂いが混ざって漂ってくる。布団の仕切りなんてなくて、優の少し熱っぽい体温が、俺の隣からじわじわと伝わってくる。
優はすぐにすうすうと規則正しい寝息を立て始めた。
無防備だ。
昼間、軽トラの上で「パンツ見えそう」と注意したときの優の顔を思い出した。頬を赤くして、慌ててキュロットの裾を押さえた、子どもながらに女らしい優の仕草。
そして、今。俺の真横に、安心しきって眠っている。
環姉貴と悠一の会話が脳裏をよぎる。「成長が遅い」なんて話は、聞きたくなかった。そして、「いろいろ」が気になってしまう。
姉貴は勝手に結論づけたけど、本当はどうなのか?とか余計なことがぐるぐると廻った。
寝息を立てるたびに、優の薄い胸元が微かに上下する。布団から出ている腕。寝返りを打った優の、ほんのり香る脇のあたりや、あどけない胸元のラインを無意識に視線が追ってしまう。
(…やばい。意識しすぎだろ、俺)
たった三つ違い。まだ小学生と中学生の差なのに、優のすべてが、突然「女性」として意識の底に滑り込んできた。
寝顔を覗き込む。長い睫毛が影を落としていて、なんだか綺麗だ。
俺の心臓は、雑魚寝している大人たちや、いびきをかく父さんにも聞こえそうなくらい、うるさく脈打っていた。
小学生の優に「やらしい」なんて思われていたなんて、知らなかった。でも、その「やらしさ」は、きっとあの夜、優の寝顔を見た瞬間、明確な「好意」に変わっていたんだと思う。
隣に優がいる。この距離が、この五月の連休が、翌年からは決定的に違って見え始めた。
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