第44話 10-3: 最も合理的な求婚
翌朝。
辺境の空は分厚い鉛色の雲に覆われ、夜明けの光さえもが弱々しく遮られていた。
だが、東棟の『薬師工房』の中だけは別世界のように明るく、温かい空気に満ちていた。
リーナは夜明けと共に、工房の徹底的な掃除を始めていた。
(アレクシス閣下が直々に工房へいらっしゃる!)
(それも『話がある』なんて一体何だろう)
昨夜、アレクシスが執務室で見せた氷の仮面の下のわずかな『疲労』と『孤独』。そしてブランを膝に乗せた、あの人間的な『温もり』。
その二つがリーナの頭の中で、混乱とそれ以上の得体の知れない『期待』となって渦巻いていた。
(王都のジュリアス殿下が、ついに私を反逆罪で処刑するとか?)
(それとも、この砦から私をもっと安全な場所へ移すとか?)
最悪の事態と最高の事態が、リーナの頭の中をぐるぐると巡る。
薬草棚の埃を何度も何度も拭き直す。調合台のわずかな汚れも聖水で清めていく。
窓の外には『奇跡の畑』が朝露に濡れて、濃い『翠(みどり)』を輝かせている。
「きゅぅん」(おちついて)
工房の隅、あの特注のクッションの上で丸くなっていたブランが、主のそわそわとした異常な緊張を感じ取り、不安そうにリーナの姿を目で追っていた。
「わ、分かってるわよ、ブラン。でも、あの人があんな改まった言い方をするなんて」
ドンドンドン。
その時、工房の分厚い扉が重々しくノックされた。
昨日までのガルド隊長の慌ただしいノックとは違う。
規則正しく三回。一切の感情を排した、威圧的なノック。
(来た!)
リーナは慌てて研究用の白衣の胸元を意味もなく正した。
「は、はい! どうぞ!」
扉がゆっくりと開かれる。
工房の温かい薬草の香りが、廊下の凍てついた冷気によって一瞬で押し返された。
そこに立っていたのは、昨日執務室で見た疲労した男の姿ではなかった。
寸分の隙もなく完璧に磨き上げられた漆黒の軍服。
その胸には王弟殿下としての正式な銀の徽章(きしょう)が鈍い光を放っている。
その氷の仮面は昨日よりもさらに冷たく研ぎ澄まされ、総司令官としての絶対的な『威』を放っていた。
アレクシス・フォン・ヴァイスハイト。
彼がリーナの工房へと一歩足を踏み入れただけで、工房の温かい空気が一瞬で氷点下まで凍りついたかのように錯覚した。
(こ、怖い)
リーナは、昨夜彼にスープを差し出したあのわずかな親密さなどすべて吹き飛んでしまい、背筋をピンと伸ばした。
(これは『上官』の顔だわ)
(何か悪い知らせに違いない)
アレクシスはリーナの緊張した出迎えには一瞥もくれず、その氷の青い瞳で工房の隅々までをまるで査察でもするかのように検分し始めた。
最新鋭の蒸留器。
壁一面の薬草棚。
窓の外の『奇跡の畑』。
そして、リーナの研究のすべてが書き込まれた『前世薬学応用論』が、無防備に広げられたままの作業台。
「順調のようだな」
アレクシスの低い声が、静かな工房に響いた。
「は、はい! 閣下にご用意いただいたおかげで、兵士たちの負傷も激減しております!」
「そうか」
アレクシスの反応は薄い。
彼はリーナの研究日誌の開かれたページを、その黒い革手袋に包まれた指先でそっと撫た。
そこには、リーナの独特な、しかし緻密な文字で『瘴気と聖水の中和率に関する化学的考察』とでも呼ぶべき数式がびっしりと書き込まれていた。
(王都のどの魔術師も神官も、足元にも及ばない)
(この異世界の叡智)
(これこそがこの国の未来だ)
彼はリーナから目をそらしたまま、静かに本題を切り出した。
「リーナ薬師。単刀直入に言う」
「は、はい!」
リーナは緊張のあまり心臓が喉から飛び出しそうだった。
(処刑宣告?)
「昨夜、王都から最終勧告が届いた」
「!」
リーナの血の気が引いた。
「国王(あにうえ)陛下と王太子(あの愚かな甥)の連名でだ」
(連名)
(それはもう逃れられない、絶対的な王命)
「内容は二つだ」
アレクシスは淡々と続ける。
「一つ。聖獣『ブラン』をただちに確保し、王都へ献上せよ」
「そ、そんな!」
リーナは反射的にクッションで丸くなっているブランの前に立ちはだかった。
(ブランを王都へ!? あのジュリアス殿下の玩具にさせるですって!?)
(絶対に嫌!)
「そして二つ目」
アレクシスの声がさらに低く冷たくなった。
「『偽聖女』リーナ・バークレイを王都へ強制送還。神殿の地下牢へ終身幽閉し、その『聖なる力』のすべてを国家が管理する」
「ひっ」
リーナは息を呑んだ。
(終身幽閉)
(私の力を王都が管理する?)
(それはつまり、私が王都で一番恐れていたこと)
(私を意思のない『道具』として、王都のあの腐った『基盤』を支えるためだけの人柱にするということ)
(王都の連中は、王都が崩壊した理由が私の『力』だとようやく気づいた。でも、私という『人間』は必要ない)
(ただ私の『力』だけを搾り取る『家畜』として、地下牢に繋ぐというのね)
(死ぬよりもひどい)
「もちろん」
アレクシスはそこで初めて、リーナの恐怖に真っ青になった顔を真っ直ぐに見つめた。
「そのどちらも、俺が拒否した」
「え」
「昨日、あのスープを飲む前に、な」
(拒否した?)
(王命を?)
「閣下。それは、あなた様ご自身が『反逆罪』に問われます! 私なんかのために!」
「反逆、か」
アレクシスは、その言葉をまるで道端の石ころでも蹴飛ばすかのように、冷たく吐き捨てた。
「あの国を崩壊させた愚かな甥(ジュリアス)に言われる筋合いはない」
(この人は本気だわ)
(王都と戦争になっても、私とブランを守るつもりなんだ)
リーナの胸が、恐怖とは違う熱い何かで震えた。
「だが」
アレクシスは続けた。
「俺が総司令官として君を『保護』しているという、現状の建前(たてまえ)だけでは、もう限界だ」
「どういうことですか」
「王都は腐っていてもまだ国家だ。俺が王命を拒否し続ければ、いずれ国王(あにうえ)が本隊をこの辺境へ差し向けるだろう。内乱になる」
(内乱)
(私のせいで)
リーナの顔が再び青ざめた。
「そうなれば、この砦の兵士たちを無駄に死なせることになる。それは避けねばならん」
「っ、で、では、私はどうすれば」
(私が王都に戻ればいいの?)
(私が、あの地下牢に入れば)
(私が人柱になれば、この砦の皆は助かるの?)
リーナがその最悪の自己犠牲を口にしようとした、その瞬間。
「そこで、だ」
アレクシスの氷の青い瞳が、リーナの覚悟を見透かしたかのように鋭く細められた。
「現状、この問題を最も合理的に、かつ王都の誰も文句を言えぬ形で解決する、ただ一つの方法がある」
「方法ですか?」
「ああ」
アレクシスは、その黒い軍服の胸元から、小さな、しかしずっしりと重い、王家の紋章が刻まれたベルベットの小箱を取り出した。
「君の身分を、王都の王太子(ジュリアス)や神殿の干渉を、完全に超越した場所へ変えればいい」
「私の身分を?」
アレクシスは、その小箱をパカリと開けた。
中には、辺境の凍てつく夜空の星々をすべて集めて溶かし込んだかのような、巨大な青い宝石が埋め込まれた白銀の指輪が鎮座していた。
それは、王都のどんな貴族が持つ指輪よりも古く気高く、そして強大な『力』を秘めていた。
ヴァイスハイト王家に代々伝わる、王弟の『正妃』にのみ受け継がれる指輪だった。
「リーナ・バークレイ」
アレクシスは、その指輪をリーナの目の前に差し出した。
その氷の仮面は一切崩れない。
声も一切震えない。
まるで部下に新しい任務を下すかのように、淡々と、しかし揺るぎなく告げた。
「俺の妻になれ」
「は?」
リーナは自分の耳を疑った。
(妻に?)
(今、この人、妻と言ったの?)
(何の聞き間違いだろうか)
彼女の思考が完全に停止した。
「それが最も合理的な判断だ」
アレクシスは、リーナが完全に思考停止に陥っているのを無視して続けた。
(あ、聞き間違いじゃなかった)
「君が俺の『妻』、すなわち『王弟妃(おうていひ)』となれば」
「王太子(ジュリアス)であろうと神殿であろうと、法的に君の身柄には一切干渉できなくなる」
「聖獣(ブラン)も王弟妃の『所有物』となり、王家への『献上』の対象外となる」
「内乱は回避され、君はこの砦でこれまで通り薬師として研究を続けることができる」
(合理的)
リーナは、そのあまりにも合理的で政治的で戦略的な『理由』に、頭がクラクラした。
(そ、そうか)
(これはプロポーズじゃない)
(これは『戦略』なんだわ)
(私を王都から守るための、最後の切り札としての『政略結婚』)
リーナの胸がチクリと痛んだ。
昨夜スープを差し出した時の、あのほんのわずかな心の通い合い。
あれは全部自分の勘違いだった。
(何を期待していたの)
(あの氷の総司令官が、私に恋だの愛だの言うわけがない)
(これは取引。私を『宝』として守るための、彼なりの最大の『契約』)
リーナは王都でのあの悪夢を思い出した。
(また私は『道具』になるの?)
(『偽聖女』の次は『政略結婚の妻』という名前の『道具』として?)
リーナの顔から血の気が引いていく。
彼女がその合理的すぎる提案を拒絶しようと口を開いた、その時。
「違う」
アレクシスの低い、かすれた声がそれを遮った。
「え?」
リーナが顔を上げると。
アレクシスのあの氷の仮面が、初めてわずかに苦悩に歪んでいた。
その氷の青い瞳が、リーナの怯えた瞳から逃げるように一瞬揺らいだ。
「合理的だけではない」
アレクシスは、まるで生まれて初めて口にする未知の言語でも話すかのように、その無骨な手を握りしめた。
(言え)
(このタイミングを逃せば、二度と言えんぞ、俺は)
「俺は」
アレクシスは指輪を持っていない方の人差し指で、自分の胸の徽章を強く押さえた。
「俺は王都の腐敗を嫌い、この辺境へ来た」
「だが、ここで君に出会った」
「君のその薬師としての直向きな姿に」
「君が、あの聖獣(ブラン)のモフモフを吸っている、あの無防備な姿に」
「俺のこの公務に疲れ切った心が、どれだけ救われたか」
「君は知らん、だろう」
(え)
(モフモフを吸っていたのを、見られていた!?)
リーナの顔が今度は恐怖とは違う熱で一気に真っ赤に染まった。
(昨夜、工房の扉の隙間から!?)
(い、いつから!? どこまで見られて!?)
「俺は君を『辺境の宝』だと言った。だが今は違う」
アレクシスは、その充血した青い瞳で真っ赤になっているリーナを、今度は逃がさないと言うように真っ直ぐに射抜いた。
「リーナ。君は、俺の宝だ」
「俺が、生涯を懸けて守り抜きたいと願った、ただ一人の宝だ」
「合理性も政略も、すべて後からついてきた理由に過ぎん」
「俺の妻になってほしい。これは総司令官としてではなく、ただの男としての俺の願いだ」
「あ」
リーナは、そのあまりにも不器用で実直で、しかしこの世の何よりも誠実な『告白』に言葉を失った。
(この人が)
(氷の仮面の下の、本当の顔)
(私をそんなふうに見ていてくれたの)
(『モフモフを吸う姿』を見られていた羞恥心よりも、この人の言葉の方が遥かに心を揺さぶってくる!)
「返事は合理的でなくていい」
アレクシスは、その指輪をリーナの薬草で荒れた指先へと近づけた。
「君の意志を聞かせてくれ」
リーナは、王都で殴られた頬の痛みではなく。
あの廃屋で初めて頭を撫でられた、あの温かい手のひらの感触を思い出していた。
(この人なら)
(この人がくれる『居場所』ならば)
(『道具』なんかじゃない)
(この人は私を、リーナ・バークレイという『人間』として必要としてくれている)
彼女の恐怖にこわばっていた身体から、ふっと力が抜けた。
リーナはアレクシスの氷の青い瞳を真っ直ぐに見つめ返した。
そして、彼女は、この辺境に来てから一番幸せな笑顔で頷いた。
「はい」
その小さな、小さな肯定。
それを聞いたアレクシスの氷の仮面が、ようやく解けた。
彼はその整った唇に、リーナがまだ見たこともない、不器用な、しかし心の底からの『安堵』の笑みを浮かべた。
「感謝する」
彼は、リーナのその薬草で荒れた左手の薬指に、王弟妃の青い指輪をそっとはめた。
「きゅぅぅぅぅぅん!」
その瞬間、クッションの上で全てを見届けていたブランが、まるで二人の未来を祝福するかのように甲高い喜びの声を上げた。
王都で『偽聖女』としてすべてを失った少女が。
この最果ての辺境の地で、王国最強の『庇護者』と、世界で一番温かい『相棒』と、そして何物にも代えがたい『真実の愛』を手に入れた瞬間だった。
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